クリムト展 ウィーンと日本1900

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    クリムト展 ウィーンと日本1900

    公式サイト:
    https://klimt2019.jp

    上野・東京都美術館にて。

    この頃、忙しくてブログを書けなかった……ので、これも終わってしまった展覧会。

    クリムト没後100年、日本オーストリア国交樹立150周年を記念したもの。

    日本(ジャポニズム)とクリムトの関係を指摘することは多々ある。よく当時の流行だったこと、それがクリムトなど画家たちにインスピレーションを与えたことは事実だが、日本美術だけに傾倒していた訳では無いと思うのだが……(古代エジプトやオリエンタルな文様も源泉だと思う。)
    クリムトは金細工師の家系なので。もちろん、日本美術の金の使い方にインスピレーションを受けたことは確かだ。
    油彩画にも金をふんだんに使ったこと、初期の文様を取り入れた独自の作風は、他の追随を許さない。

    集客のために日本との関連性を強く打ち出しているだけではないか……そんな穿った見方をしていた。それでも、この展覧会でを通して、クリムトが日本美術の影響を少なからず受けていたことを再認識する。


    この展覧会では、「クリムトとその家族」「修業時代と劇場」「私生活」「ウィーンと日本」「ウィーン分離派」「風景画」「肖像画」「生命の円環」と題した8つのチャプターに分けて会場が構成されていた。

    それに倣って感想を書くには膨大すぎるので、気に入っているクリムト作品を中心に感想を書く。

    ウィーン分離派――黄金時代

    ウィーン分離派での活動で描かれた傑作が並ぶ。
    クリムトの絵画と言えばすぐ思い浮かぶ、金の装飾を使った作品群が主役だった。
    黄金伝説展 古代地中海世界の秘宝でも展示されていた、《第1回 ウィーン分離派展ポスター(検閲後)》も展示。
    テセウスのミノタウロス退治を独自の解釈になぞらえて描いたこのポスターが好き。検閲のため、手前に植物が配することで股間を隠している。浮世絵のような手法で興味深い。

    《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》

    グスタフ・クリムト《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》

    右手に持つ鏡をこちらに向け、まっすぐ立つヘアヌードの女性像。鑑賞者と正対する形となる。
    当時もまだ「陰毛を描くとアートではない」と糾弾される時代だったと思う……ゴヤ《裸のマハ》がそうであったように……
    ぼんやりとしているが、この絵も例外ではなかったであろう。

    裸の女は手に鏡を持ち、これが真実だ、とつきつけている。上に書かれているのはシラーのことばで、「もしおまえの行動とアートですべての人を喜ばせないのなら、数少ない人を喜ばせよ。多くの人を喜ばせるのは悪いことだ」とある。
    (中略)
    この絵によってクリムトはウィーンの良識ある社会の冒涜者とされるが、古い社会からの自由を求める新興階級、とくに新しい女たちの人気を集めてゆく。

    海野 弘『グスタフ・クリムトの世界』p.40

    一般的な意味での真実というより、新しい“真の”芸術、つまり分離派のシンボルと見ることもでき (※1)る。

    女性の上半身の背景はユーゲントシュティール(オーストリアのアールヌーヴォー)らしい、蕨か薇のような金色の渦巻き文様。しかし、腰辺りから青い清流水のような模様となっている。この作品以前だったか、クリムトが描いた《魚の血(冷血)》や《流れる水》の、文字通り流れを汲んでいるためだろうか……

    ユディト

    グスタフ・クリムト《ユディト 機

    ユディトの雄弁な額縁(※2)に、ラファエル前派の軌跡を見ることも可能だった。
    前述の《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》のシラーの言葉も、額縁ではなくカンヴァス上に描かれた言葉だが、金の地に分離され、額縁と同様の効果だろう。
    これらが先日拝見したラファエル前派から継承されたファム・ファタールの系譜であることを、主題や表現方法から見て取れる。

    クリムトは、神話的図像を使いながら、むしろ現代(世紀末)のウィーンのデカダンな社交界の女たちを描いた。男の首は右下にちらりとのぞかせているだけで、むきだしの胸を黄金に包んだ官能的な女性像である。
    まず目立つのが、犬の首輪のような黄金のチョーカーで、デンマークの王女からイギリス皇太子妃(後に王妃)になったアレクサンドラが当時はやらせた最新ファッションであった。アレクサンドラが首の傷を隠すためにつけたものというが、サディステックな魅力を持っている。

    海野 弘『グスタフ・クリムトの世界』p.41

    ネガティブな意味でのしたたかな女でも、ファムファタールでもなく、私はこの絵に自律した“強い女”のイメージも見る。
    後でモデルとなったアレクサンドラのWikipedia(※3)をみて、その壮絶な人生に驚愕した。本当に自律/自立した女性だった……尊敬に値する。

    ベートーヴェン・フリーズ(原寸大複製)》

    ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館( https://www.belvedere.at/en / English )にあるもののファクシミリ版。

    クリムトの芸術テーマが詰め込まれた大作であり、この作品からスピンオフした傑作も多い。
    第一の壁の黄金の騎士から《人生は戦いなり》(※4)が誕生し、第二の壁の中央の三人の女性たちと酷似した構図の《女の三世代》(※5)が、第三の壁の抱き合う男女から《接吻》(※6)が生まれている(※7)。

    展示空間にはベートーヴェン〈交響曲第9番 第4楽章『歓喜の歌』〉のサビ部分が静かに流れていた。

    この《ベートーヴェン・フリーズ》がお披露目された、第14回分離派展の初日には、グスタフ・マーラーが楽団員とともに来てベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した(※8)という。

    私はサブカルチャーを通して、この歌が究極の人類讃歌であり、“私(自己)"が“今ここ”に存在することの魂の叫び、他者からもそして自身も他者のそれを祝福する(認める、認められる)歓喜であることを理解した。
    TV版エヴァンゲリオンの『最後のシ者』然り、冲方丁『ばいばい、アース』ののクライマックスでも、そうした意図を汲んで〈歓喜の歌〉は重要な位置を占めていた。

    ベートーヴェン・フレーズ》は、全ての壁面が装飾に描かれているというものではく、白い空白が殆どを占めている。下の壁の白さも相まって、とても静謐な空間のように感じられた。
    まるでダンテ『神曲』の天国篇のように思えてしまう。
    天へと抜けるような、高らかに謳う合唱のイメージとは異なり、静かに瞑想に耽るためのような……
    それは横長の画面のため、そう思ってしまうのかもしれない。《ヴェートーヴェン・フリーズ》で歓喜に相当する第三の壁の、同じ顔の女性たちが並ぶ姿に、声を合わせて歌い上げる合唱のイメージを想起する。
    フィナーレで男女の抱擁が現すものは、それこそ天にも昇る心地だろう。

    眺めていて、クリムトも〈歓喜の歌〉をヴィジュアル化した訳では無く、ヴェートーヴェンを讃えるため、独自解釈をしたという印象があった。(※9)

    100年前に公開されてた時は賛否両論(どうも殆ど不評だったようだが)巻き起こったという表現。 意匠化されたとも言える裸婦、裸体像は、不気味さも見ていると次第に魅力的に映る。
    そのイメージはさらに、現代のアーティストにもインスピレーションを与えている。(※10)

    肖像画、風景画に見る、反映された“時代”――印象派の影響

    展覧会のチャプター構成から外れるが、クリムトが当時の流行を敏感に感じ取り、積極的に取り入れて自分のものとしていると感心してしまうものが多かった。

    避暑地であるアッター湖畔の風景など、フランスの印象派の画家たちが避暑地として、自然風景を求めて、バルビソン村を訪れて描いた事を思い出す。

    ヘレーネ・クリムトの肖像》も筆跡を残す服の描き方が印象派のそれに通じる。顔やボブの髪はとても入念に描き込まれているにも関わらず。

    生命の円環――死と生

    豪華絢爛な金のイメージから一転する。豊かな色彩を用いているが、それを覆う周囲の画面は暗く、描かれる人々の眼は伏せられ、まるで眠りに……もっと深く死に……近づいている。
    それは描かれた時代の空気――第一次世界大戦――の不穏な空気を反映したものか、自身の死期を無意識に感じ取ったためだろうか……

    リア・ムンク

    グスタフ・クリムト《リア・ムンク 機

    彼女はリア(マリア)・ムンク、24歳で、失恋して、拳銃自殺をした。父のアレクサンダー・ムンク、母のアラン科の依頼で、クリムトが描いた。
    (中略)
    死んだリアのまわりに花が散らされている。死の床と書いたが、よく見ると彼女のまわりは水のようだ。この絵を見た時、オフィーリアだ、と思った。クリムトはラファエル前派のミレーの「オフィーリア」を思い浮かべているのだ。

    海野 弘『グスタフ・クリムトの世界』p.170

    色白な顔とその周りを囲む花々の赤が明るく、肖像画などと比べて小さめの作品ながら遠くから見ても惹かれてしまう。不思議な絵だった。
    前述の海野氏の見解は的を得ている。悲劇的でありながら神聖で、誰もその名誉を傷つけてはならないような……そんな気持ちにさせられた。

    印象派の手法を想起させられる、淡い色合いの肖像画とは打って変わった暗い印象。しかし黄金時代の文様のように意匠化された鮮やかなな薔薇の花に囲まれていて、不気味さを感じさせない。

    女の三世代(人生の三時期)

    グスタフ・クリムト 《女の三世代(人生の三時期)》

    この有名な一枚、本物をようやく拝見できた。女性の――人の一生――も、喜怒哀楽全てが一枚に集約されている絵。

    女性のイメージも、はっきりと固定的なイメージから水中の流れてもつれ合う、ここに区別しがたい、人魚の群れのような、あいまいなものとなる。この作品は性的であるが、背景は滝のような流水を感じさせる。

    海野 弘『グスタフ・クリムトの世界』p.42

    この絵の上半分の背景は暗い色で覆われているが、本来は金を使っていたものの、後から黒く塗りつぶした形跡があるという。
    時代の変化を敏感に感じ取り、自身の黄金時代からの脱却、色彩の時代への移行故か……

    家族

    グスタフ・クリムト《家族》

    会場の最後に掛けられた《家族》の、顔だけが白く浮かび上がる姿。
    母子の服は暗く画面に沈んでいる。眠っているというよりは、まるで死んでいるように見えた。

    若い母と2人の子どもの顔がのぞいている。「移民」という題をつけられている。地方のユダヤ人攻撃を逃れてウィーンにやって来た家族だろうか。華やかな世紀末ウィーンの背後に闇がある。エゴン・シーレなど若い世代からの刺激も感じられる。

    海野 弘『グスタフ・クリムトの世界』p.167


    私は会場で、クリムトと日本の関係よりも、クリムトが敏感に当時の時代の空気を取り入れ、ジャポニズムをはじめとするヨーロッパから見て異国――夢の国――からの要素をエッセンスとして落とし込んでいたか、独自性として昇華させていたかを意識して見ていた。

    会場ではあまり、日本とクリムトの関係について強く意識されることが無かったのだが……強いて言えば、ウィーン万博で初めて日本が公式参加したことだろうか。
    関連する書籍――当時、出版された日本美術研究に関するもの――は展示されていたが、展示物とからクリムトが何を学び、どう作品に活かしていたかが直結しなかった。

    後で調べてその繋がりを知る。
    会場で展示されていたオスカー・ミュンスターベルク『日本美術史』(第1巻)は、クリムトの遺産の中にあり、クリムト自身、書物を通して日本美術を研究したと語っていた(※11)とのこと。書物の情報と彼の日本工芸コレクションを通して、日本美術の意匠や平面性を取り入れていたようだった。

    …日本とウィーン、クリムトの繋がりというものは、その位しか理解できなかった。
    むしろクリムトが、新しい芸術表現の模索し、当時の流行にも敏感に反応し、自身の作品に反映していたことが伺えた。
    クリムトの画業、その変容を見れる、多様な絵画を拝見できた、良い展覧会だった。

    1. 千足伸行『もっと知りたいクリムト 生涯と作品』東京美術 2005年 p.28
    2. ‘ラファエル前派の額縁では、シンボリカルな装飾モティーフや文字(タイトルやテクスト)が挿入されることにより、画面に描かれている内容を強調したり、重層的な意味を付加したりしている。’

      荒川裕子『もっと知りたいラファエル前派』東京美術 2019 p.76

    3. アレクサンドラ・オブ・デンマーク (Wikipedia / 日本語)https://ja.wikipedia.org/wiki/アレクサンドラ・オブ・デンマーク (2019/9/23 確認)
    4. [ID:5389] 人生は戦いなり(黄金の騎士) : 作品情報 | コレクション検索 | 愛知県美術館
      https://jmapps.ne.jp/apmoa/det.html?data_id=5389 (2019/9/23 確認)
    1. Der Kuss (Liebespaar)
      https://digital.belvedere.at/objects/6678/der-kuss-liebespaar (2019/9/23 確認)
    2. 一個人 2019年6月号 【特集】世紀末美術入門 19世紀末に華ひらいた退廃とエロスの美』 ベストセラーズ p.23
    3. 日曜美術館「エロスと死の香り〜近代ウィーンの芸術 光と影〜」
      https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-09-15/31/26430/1902803/ (2019/9/23 確認)
    4. なぜ怪物が描かれたのか?——クリムトが描いたベートーヴェンのアヴァンギャルド|音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」
      https://ontomo-mag.com/article/column/rakugakist-violinist12-201906/ (2019/9/23 確認)

      【作品解説】グスタフ・クリムト「ベートーヴェン・フリーズ」
      https://www.artpedia.asia/beethovenfries/ (2019/9/23 確認)

    5. Gustav Klimt Paintings Recreated by Photographer Inge Prader (English)
      https://mymodernmet.com/inge-prader-gustav-klimt-paintings/ (2019/9/23 確認)
    6. 「クリムト作品に現れたジャポニズム」新人物往来社 編『クリムトの世界』p.62
    参考文献
    千足伸行『もっと知りたいクリムト 生涯と作品』東京美術 2005年
    もっと知りたいクリムト 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
    新人物往来社 編『クリムトの世界』 2011年
    クリムトの世界
    海野 弘『グスタフ・クリムトの世界-女たちの黄金迷宮-』2018年
    グスタフ・クリムトの世界-女たちの黄金迷宮-
    朝日新聞出版 編『クリムトへの招待』2019年
    クリムトへの招待
    一個人 2019年6月号 【特集】世紀末美術入門 19世紀末に華ひらいた退廃とエロスの美』 ベストセラーズ
    一個人(いっこじん) 2019年 06 月号
    芸術新潮 2019年 6月号 ◆特集◆時を超えるクリムト』新潮社
    芸術新潮 2019年 06 月号
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    ラファエル前派の軌跡展

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      JUGEMテーマ:展覧会

      ラファエル前派の軌跡展

      終わってしまった展覧会。

      公式サイト:
      https://mimt.jp/ppr

      丸の内・三菱一号館美術館( https://mimt.jp/ )にて。

      ラファエル前派の展覧会は、私が直近で見たものは2016年の英国の夢 ラファエル前派展( 渋谷・Bunkamuraザ・ミュージアム )以来、3年ぶりになる。

      2014年には六本木・森アーツセンターギャラリーで大規模なラファエル前派展があり、ここ三菱一号館美術館でもザ・ビューティフル 英国の唯美主義1860-1900(以下、『ザ・ビューティフル』)が行われた。その感動を再び味わう。
      その時拝見したフレデリック・レイトン《母と子(さくらんぼ)》やモリス商会のミノタウロスのタイルデザインが再び来日していた。

      今回の『ラファエル前派の軌跡』のキャッチフレーズが「美しい、だけじゃない。」に様々な思いを読み取る。2014年の『ザ・ビューティフル』のキャッチコピーが「唯、美しく。」であったことを考え合わせると。
      『ザ・ビューティフル』の唯美主義の前進に、ラファエル前派の理念があった。その軌跡を補完する展覧会だった。


      今回の展覧会は、ラファエル前派を評価し支援していたジョン・ラスキン生誕100周年に合わせた企画展。

      第一章は、ラファエル前派を擁護したラスキンと、彼が擁護したターナーの作品が展示。
      一見すると、華やかなイメージのあるラファエル前派の作品と、ターナーの絵に関連性を見いだせない……ラスキンの絵にも……
      私は2013年に行われたターナー展を観に行った。そこで拝見したターナーが後の印象派に影響を与えたことは想像に難くない。

      ほぼ同時代ではあるが、一見、表現方法が異なる派閥の絵画。しかしその根底には“自然に忠実”というラスキンの美学を共有していた。
      だだ「ラファエロ(ラファエル)を規範として形骸化していた当時のアカデミズムに反発する」という点で、ラスキンとラファエル前派(兄弟団)は意見が一致していただけのようなので、“自然に忠実”であることについて一つの表現方法に縛られず、各々多様な解釈、表現を用いたようだった。

      第二章からラファエル前派の画家たち、後半はラファエル前派周縁の画家たちに、影響を与えたアーツ・アンド・クラフツ運動のウィリアム・モリス(モリス商会)の仕事を紹介。


      ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《ウェヌス・ウエルティコルディア(魔性のヴィーナス)

      ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《ウェヌス・ウエルティコルディア(魔性のヴィーナス)》

      波打つ豊かな赤い髪。それに呼応するような厚みのある赤い唇。
      さらにそれが拡張されるように、背景の薔薇(性愛の象徴であり、ヴィーナスのアトリビュート)や手のリンゴ、手前のスイカズラ(詩などで男女の愛を表す)が取り囲む。それらの赤い色の多様さも興味深い。
      愛神エロス(クピド)の黄金の矢(男を心変わりさせる)を手にし、魂の象徴である蝶(プシュケー、ここではヴィーナスの虜になった男たちの魂)が舞っている。
      それら黄金と黄色の色味が輝くような鮮やかさで、絵画を鑑賞する人を誘う。
      エロティックな片方の乳房も目を惹く。

      ヴィーナスに扮したジェイン・モリス(バーデン)。
      アーツ・アンド・クラフツ運動を掲げたモリスの妻だが、ロセッティのミューズであった女性。
      “魔性”と枕詞がついているこの絵に、エロスとプシュケーの物語でプシュケーにつらく当たるヴィーナスや、トロイア戦争の引き金となるパリスの審判のイメージもさることながら、不倫のイメージを想起されてしまう。
      その蠱惑的な姿に鑑賞者もその魔性に魅せられてしまう……

      ロセッティは‘色彩豊かなヴェネツィア派の影響を受けた女性の半身像を描くようになり、それを批判したラスキンと不仲になった(※1)’らしい。過剰に散りばめられた意匠による官能表現に対し、「花が下品だ」と酷評されて……

      ウィリアム・ヘンリー・ハント《ヨーロッパカヤクグリ(イワヒバリ属)の巣

      ウィリアム・ヘンリー・ハント《ヨーロッパカヤクグリ(イワヒバリ属)の巣》

      “自然に忠実”を体現した作品として出展されていた。
      小さな作品だが目を惹く作品だった。
      土の色と青い卵の美しさにも惹かれるが、その細密描写に息をのむ……写真かと見紛うてしまいそうだった。

      19世紀の写真はモノトーンだし画素数も荒いので、当時の写真では表現しえないリアリティだろうから、写真と比較するのはおこがましいかも知れない。

      家に帰って調べていたら、英国の夢 ラファエル前派展でもこの作品は出展されていた……意外と忘れている自分にがっかりorz。それともあの頃より少しは審美眼が養われたためだろうか……

      エドワード・バーン=ジョーンズ《赦しの樹

      エドワード・バーン=ジョーンズ《赦しの樹》

      ミケランジェロを彷彿させる男性像(※2)の逞しさと、彼を捉えるようにその身体に腕をまわし抱き着く女性像が艶っぽい。

      同じ構図、背景違いの作品《ピュリスとデーモポーン》が存在する。男性の股間が露わのままである描写が当時、物議を醸したため新たに描き直した。
      2003年のヴィクトリアン・ヌード展で、イギリスのヴィクトリア朝で当時の道徳規範とヌード表現に対する葛藤、論争が起こっていた(※3)こと知るが、この絵も例外ではなかったのだろう。

      この絵の女性の顔は、自分との不倫関係から自殺未遂事件を起こした、マリア・サンバコをモデルにしている。自身の恋愛体験を描いたことも賛否を巻き起こした。(※4)

      エドワード・バーン=ジョーンズ《 ピュラモスとティスベー

      エドワード・バーン=ジョーンズ《 ピュラモスとティスベー 》

      壁を挟んでシンメトリックな構造で描かれた男女。
      壁のわずかな隙間から文を交わしているようであったり、相手の姿を見ようとしている。
      中央には弓を携えた青年男子の姿。おそらくクピド(アモル)であろう事から、恋人たちであると想像がつく。

      その構図から、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』のモデルになった話であろうことは想像に難くない。(※5)

      中世写本の挿絵のようにも見える構図が、より物語性を強調する。


      ラファエル前派は斜陽と向かう。
      作風、考え方の不一致だけではない。その原因と言われているのが、人間関係のもつれ……‘皮肉なことに、ラスキンの助け舟に始まる人間関係と高まるミレイへの評価だった’(※6)という。ラファエル前派を擁護したラスキンが交流を深め、ラスキン夫婦とミレイは共に旅行をする。そこでラスキンの妻・エフィーとミレイは恋に落ちてしまう……

      会場にはその旅行でミレイが鉛筆と水彩で描いたラスキンの肖像が展示されていた。

      元々、反アカデミズムで集った人々は必ずしも一枚岩ではなかった。ラスキンは「自然に忠実に」――現実主義(リアリズム)――あることを良しとしていたが、ラファエル以前の芸術への愛好、中世趣味というわけではなさそうだし…集った画家たちも、時代の空気や様々な影響を受けて己の表現を模索しているうちに、独自の路線を見出していった。
      何より男性たちの女性問題による感情のもつれ(男性の所有欲と芸術における自己顕示欲でもあっただろうか?)は、ラファエル前派の終焉を早めた。

      ラファエル前派の人間関係は複雑だ(※7)。モデルの女性たちは描かれた主題と同様に……むしろ何故か彼女たち自身をも破滅に導く、 宿命の女 ファム・ファタール になっている。

      最近ではそれを基にしたTVドラマもあったし……(※8)

      よく考えるとスキャンダルが起こること自体、不思議ではないだろうか。そもそも、ラファエル前派の理念の中には、中世キリスト教を理想とする宗教性があったはずである。
       その彼らが、略奪婚(ミレイ)を行い、不倫(ロセッティ、バーン=ジョーンズ)に走り、近親婚(ハント)の罪まで犯したのだ。
      あまりに人間的と言えば人間的だが、なぜ彼らは自らの堕落を招く危険極まりない「絶世の美女」を探し求め傍らに置いたのだろう。
       古来より物語画に描かれてきた美女は、理想型であり、架空の存在である。この架空の存在を描くために、古代ギリシャのゼウクシスは、5人の美女の美しい部分を集めて描いたという。初期ルネサンスの万能人アルベルティもその著書『絵画論』で紹介したこの方法を、ラファエル前派は採用することができなかったのだ。何も拒まず、何も選ばず、何も軽んぜず「自然に忠実に」神の御業を描こうとした彼らは、その美女たちが、危険な「 宿命の女 ファム・ファタール 」だとしても、完全体としての「スタナーズ(Stunners:絶世の美女たち)」を求めたのである。

      ラファエル前派の危険なミューズたち
      平松洋『ラファエル前派の世界』 2013 p.137

      ラファエル前派は解散する。しかしその理念は多様な分野、芸術様式に受け継がれてゆく。

      後の唯美主義だけでなく、国を超えて、モローやクリムトなど象徴主義、アーツ・アンド・クラフツ運動はミュシャに代表されるアール・ヌーヴォーに影響を与えた。

      思えば、先日のギュスターヴ・モロー展にあった《出現》に代表されるサロメや他の 宿命の女 ファム・ファタール たちは、決してモローの身近な女性たち――母親やアレクサンドリーヌ・デュルー――をそのまま写したものではなかった。
      モローは現実ではプラトニックな愛を貫いていたし……ラファエル前派の影響を受けた彼がその同じ道を辿らなかったのは、当時の独身主義があったのかも知れないが……今の私はわからない。


      結局、ラファエル前派とは何だったのか?
      確かに「美しい、だけじゃない。」
      反アカデミズムからの中世趣味。中世の素朴な描き方そのままではなく「自然に忠実に」 現実的 リアリティー ある描写を追求する。しかし主題は古典絵画の主題―― 聖書や神話伝説 ファンタジー ――である。 さらに美術史を紐解けば女性問題が付随してきて……それはあまりにゴシップでドロドロしている……
      多様過ぎて、一言では語れないものだった。
      それ故に多様な感動があり、発見があり、見る人を惹きつける。

      1. 19世紀ビクトリア朝英国で花開いた世紀末美術の先駆け ラファエル前派」『一個人2019年6月号 【特集】世紀末美術入門 19世紀末に華ひらいた退廃とエロスの美』 ベストセラーズ p.33
      2. バーン=ジョーンズの方は、71年のイタリア旅行でミケランジェロに心酔するが、これにはラスキンと意見が合わなかったようだ。こうして彼は、初期の暗い中世趣味から、ボッティチェリの優美と、肉体派のミケランジェロに影響を受けた作品を展開してゆく。

        後期ラファエル前派の特徴、あるいは、偏愛」平松洋『ラファエル前派の世界』 2013 p.132

      3. 展覧会ニュース 2003.2.15 ヴィクトリアン・ヌード
        http://www.dnp.co.jp/artscape/news/0302/mainichi030215.html (2019/9/8 確認)
      4. 同上「19世紀ビクトリア朝英国で花開いた世紀末美術の先駆け ラファエル前派」『一個人2019年6月号 【特集】世紀末美術入門 19世紀末に華ひらいた退廃とエロスの美』 ベストセラーズ p.33
      5. 「ピュラモスとティスベ」:オウィディウス
        https://www.kitashirakawa.jp/taro/?p=5936 (2019/9/8 確認)
      6. ラファエル前派兄妹団の早すぎた終焉」平松洋『ラファエル前派の世界』 2013 p.63
      7. 同上「ラファエル前派恋愛相関図」『ラファエル前派の世界』 2013 p.138〜p.139
      8. ラファエル前派のドラマ「SEXとアートと美しき男たち」 | 青い日記帳
        http://bluediary2.jugem.jp/?eid=2568 (2019/9/8 確認)
      参考文献
      3分でわかるラファエル前派(1) 近代芸術に大きな影響を与えた19世紀イギリスの反アカデミズム集団「ラファエル前派」とは
      http://blog.livedoor.jp/kokinora/archives/1036597243.html (2019/9/8 確認)
      長井和博 「特集 ヴィクトリア朝の闘うヌード」『芸術新潮』 2003年6月号
      芸術新潮 2003年6月号
      平松洋『ラファエル前派の世界』 KADOKAWA 2013
      ラファエル前派の世界
      荒川裕子『もっと知りたいラファエル前派』東京美術 2019
      もっと知りたいラファエル前派 (アート・ビギナーズ・コレクション)
      一個人 2019年6月号 【特集】世紀末美術入門 19世紀末に華ひらいた退廃とエロスの美』 ベストセラーズ
      一個人(いっこじん) 2019年 06 月号
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      ギュスターヴ・モロー展 ― サロメと宿命の女たち ―

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        JUGEMテーマ:展覧会

        ギュスターヴ・モロー展 ― サロメと宿命の女たち ―

        公式サイト:
        https://panasonic.co.jp/ls/museum/exhibition/19/190406/

        これも終わってしまった展覧会だけど……
        パナソニック汐留美術館(旧・パナソニック 汐留ミュージアム)( https://panasonic.co.jp/ls/museum/ )にて。

        パリの真ん中に閉じこもった神秘主義者

        ――ジョリス・カルル・ユイマンス

        会場入って直ぐに紹介されていた、同時代のデカダン派作家によるモローを指す言葉が、全てを物語っている。

        モローは自身を「夢を集める職人」と言っていたらしい。
        インド、中国、日本といったアジア――西洋から見た“異界”、夢の国――の意匠を寄せ集めたエキゾチックな世界だ。
        当時、流行していたオリエンタリズム――シノワズリからジャポニズムまで――の工芸作品、図像などからインスピレーションを得て描かれた、聖書や神話世界は独自の様相を呈している。
        モローは自身を歴史画家と認識していたようだが(※1)、その夢を集めた作風ゆえに、現在では象徴主義、幻想美術の画家として認識されている(※2)。

        この展覧会はギュスターヴ・モロー美術館から、選りすぐりの作品が来日していた。その麗しき女性たち―― 宿命の女 ファム・ファタール ――の蠱惑的世界だった。


        どの作品にも思い入れがあるため感想など書ききれないと思い……
        各章の感想と、その中で気になった作品などについて。

        第1章 モローが愛した女性たち

        彼の私生活の片鱗と、モローの作品の直接のモデルではないにせよ、 宿命の女 ファム・ファタール であった2人の女性――母親ポーリーヌ・モローと“魂の伴侶”ともいうべき女友達アレクサンドリーヌ・デュルー――の肖像などが展示。

        ギュスターヴ・モロー《雲の上を歩く翼あるアレクサンドリーヌ・デュルーとギュスターヴ・モロー》

        雲の上を歩く翼あるアレクサンドリーヌ・デュルーとギュスターヴ・モロー》は、微笑ましい落書き。
        クピドのようなその姿から愛に満ち溢れていることが伺える。
        今回展示されてはいなかいが、同じようなシチュエーションで、モローがデュルーをひょいと抱き上げて歩いている構図のものもある(※3)し、その愛らしい姿からも親密さが伝わってくる。

        モローは「作品」のみの評価を求めて、自身について多くを語らなかったのだが、それ故に、その「作品」の 宿命の女 ファム・ファタール ――男を破滅させる魔性の女たち――のイメージと、モローが独身で生涯を閉じたため、「女嫌い」であるとか「同性愛者」だと長らく分析されていた。
        彼を応援し、献身的に身の回りの世話を担っていた母親がいたことからも、「母親コンプレックス」から抜け出せない人物というイメージを持たれていた。
        だが、研究が進みデュルーの存在が明らかになると、そのイメージは覆される(※4)。
        そういう点でも重要な女性だった。

        第2章 《出現》とサロメ

        ギュスターヴ・モロー《出現》

        《出現》に限らず、モローのサロメのイメージは複数あった。
        《出現》と同じ構図で、目を見開くサロメと目を瞑っているサロメ。思春期の裸の少女の姿であったり、ヘロデ王の前で舞う踊り子、目を伏せた姿はまるで、瞑想する乙女の面影を持っていたり……
        サロンに展示された完成作品だけでなく、水彩の下絵やバリエーションから、《出現》に至るモローの試行錯誤の中に、サロメの変化――まるで少女の成長――を垣間見た。

        ギュスターヴ・モロー《サロメ》

        横顔の《サロメ》は、今のイメージとは全く違う、妖艶な女性像だった。
        40cm各の作品だが、画面いっぱいのサロメの横顔。
        その背景で洗礼者ヨハネの斬首が行われている。
        サロメの視線はこちらを見ているように描かれ、まるで誘うようにも、背景の惨事から目を背けているようにも見えた。

        第3章 宿命の女たち

        サロメ以外の女性像が集められている。トロイア滅亡のきっかけとなるヘレネ、スフィンクス……ギリシア神話を題材にしたものが数多かった。

        女というのは、その本質において、未知と神秘に夢中で、背徳的悪魔的な誘惑の姿をまとってあらわれる悪に心を奪われる無意識的存在なのである。

        ――ギュスターヴ・モロー

        上記の言葉は、今回の展覧会には出展されていなかった《キマイラ》(※5)について、画家自身の註だった(※6)。
        けれどもこれは、他の 宿命の女 ファム・ファタール にも通ずる言葉のようになっている。

        ギリシア神話からの主題である《メディアとイアソン》は、黄金伝説展 古代地中海世界の秘宝にて、オルセー美術館に所蔵されているものを見たものの習作。
        完成作品と顔の角度が、メディアの表情が異なる。
        イアソンに何か囁くような表情をしており、完成作品よりも雄弁に――誘惑だったり、そそのかしているようだったりを――語っているように見えた。

        ギュスターヴ・モロー《レダ》

        レダ》は、白鳥の首を抱き寄せ、恍惚として天を仰ぐレダの姿。
        上半身は薄く影に覆われ、肉感的な胸から下、尻、太股の側面にかけて光が当たっている。とても官能的な姿。見ているこちらがのぞき見してしまったような気分になる。

        レオナルド×ミケランジェロ展でも展示されていた、《レダと白鳥》を思い出した。ミケランジェロによるオリジナルは焼失してしまったのだが……他の画家の手による模写がのこされている。

        聖書主題のものもある。
        エヴァ》は楽園にて、蛇に知恵の樹の実をすすめられているシーン。

        ギュスターヴ・モロー《エヴァ》

        モローの女性像は柔らかく線の細いイメージが強かったが、このエヴァは筋肉質で健康的な体つきだった。
        絵の具を乗せたらまた変わったかも知れない。

        未完のため線画であるエヴァに、ミケランジェロの影響を強く感じた。
        特に下半身のしっかりとした足腰、血管が浮き上がる力強い筋肉描写に。

        《オルフェウス(オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘)》の竪琴に乗ったオルフェウスの首がミケランジェロの彫刻《奴隷》を基にしているという(※7)。その事実からも伺わせられる。

        会場の年表で、モローが15歳の時にイタリアへ旅行しているようだった。その時に衝撃を受けたであろうことは想像に難くない。
        イタリアに行くと、街中にミケランジェロの作品を見ることができる。他の追随を許さない、その力強い作風に衝撃を受けずにはいられない……

        第4章 《一角獣》と純潔の乙女

        最後の章を飾るのは、神話や聖書主題から離れたものたち。
        ポスターにも使われている、一角獣やグリフォンなどの幻獣や抽象概念を擬人化したもの。
        より、モローの個人的な考え方が反映された作品と言える。

        それらは白く色のイメージが多かった。
        冒頭に展示されていたモローのパレットの白い絵の具は、これに結びつくのだろうか?

        多くの画家が、晩年になると白く明るい画になるのは何故だろう?
        シャガールは色彩豊かな作品が多いが、牛や天使の翼など白いマチエールが多くなり、モノトーンの作風を手掛けたルドンも晩年は極彩色になり画面全体が白く明るくなっていく。
        モローの作品もそんな印象を受けた。(もっとも、この章の作品は制作年が分からないものもあったが)

        それこそ、白――明るい光――が天国や死後世界のイメージに繋がっているのではないかと思ってしまった。


        Eテレの番組、日曜美術館「ギュスターヴ・モロー ファム・ファタル(魔性の女)に魅せられて」(2019/9/1 確認)で、スタジオ内で精神科医、作詞家・きたやまおさむ氏、ドイツ文学者・中野京子女史による面白い言及がされていた。

        その絵画は二次元的(※8)で、コラージュのように切り貼りされた世界観であるとか、横顔という片側しか見れない表現に、女性の二面性を見ることも、モローのエディプス・コンプレックスを見るとも(前述の通り、現在は否定されているけれども)……
        多様な解釈ができる絵の奥深さがモローの絵画の魅力だった。

        一番笑ったのは、モローの自宅(現ギュスターヴ・モロー美術館)を「お金持ちのごみ屋敷」を評していたこと。
        断捨離、ミニマリストが話題である現代に、あの狭い家にぎゅうぎゅうに詰め込まれた幻想美術と調度品、コレクションの数々……ある意味、的を得ている(笑)


        今回の作品はフランスのギュスターヴ・モロー美術館(2019/9/1 確認)の所蔵品。

        私もフランスに行ったとき足を運んだあの美術館は、世界で初めての個人美術館でもある。
        個人邸宅兼アトリエでもあったので、非常に貴重な美術館だ。
        中に入ればそこは完全にモローの世界。他の何物も入ってこれない。
        当時使われていた調度品もそのままで、モローが生きた時代の空気を今に伝えている。トイレも上にある貯水槽から下がっている鎖を引っ張って流す水洗式なので、アンティークな雰囲気を堪能できる。

        1.  

          ギリシア神話や聖書の物語はフィクションではなく、現実の歴史に地続きのものとみなされていた。

          歴史画(Wikipedia / 日本語)
          https://ja.wikipedia.org/wiki/歴史画(2019/9/1 確認)

        2.  

          一般に、アカデミー歴史画というのは、人物がまとまっている歴史的・神話的コスチュームにもかかわらず、それは常に「現代風俗の絵画」なのである。
          つまり、現代の通俗的な風俗を描くのに歴史や神話という意匠を借りているのにすぎないのである。
          これに対し、モローの絵画は「現代風俗の絵画」ではいささかもない。それはむしろ、モローが時代から汲みとって彼自身の頭の中で純粋培養した「官能」、「正義」、「勇気」などの抽象名詞、つまり「純粋に抽象的な主題」を扱った絵画、いいかえれば、きわめて具体的な細部を持つ「抽象絵画」なのである。
          そして、その抽象性において、モローの歴史画、神話画は、〈幻想芸術〉に近づくのである。

          鹿島茂『ギュスターヴ・モロー―絵の具で描かれたデカダン文学』2001年 六耀社 p.36

        3.  「モローの伴侶、アレクサンドリーヌ・デュル」 隠岐由紀子『ギュスターヴ・モロー 世紀末パリの異郷幻想』 東京美術 p.110
        4.  「最愛の女性の存在が変えたモローの人物像」 『ギュスターヴ・モローの世界』 p.81〜84
        5.  キマイラ ギュスターブ・モロー 絵画解説
          http://www.artmuseum.jpn.org/mu_kimaira.html(2019/9/1 確認)
        6.  前述『ギュスターヴ・モローの世界』p.82
        7.  ギュスターヴ・モロー-オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘-(画像・壁紙)
          http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/moreau_orphee.html(2019/9/1 確認)
        8.  

          油彩絵具の濃淡や色合いでせっかく場面の奥行きが演出されているのに、その上にレースのように施された平面的な線画のせいで情景の三次元性が台無しになっていたりする。

          隠岐由紀子『ギュスターヴ・モロー 世紀末パリの異郷幻想』東京美術 2019年 p.27

        参考文献
        鹿島茂『ギュスターヴ・モロー―絵の具で描かれたデカダン文学』六耀社 2001年
        ギュスターヴ・モロー―絵の具で描かれたデカダン文学 (六耀社アートビュウシリーズ)
        新人物往来社 編『ギュスターヴ・モローの世界』 新人物往来社 2012年
        ギュスターヴ・モローの世界
        隠岐由紀子『ギュスターヴ・モロー 世紀末パリの異郷幻想』東京美術 2019年
        ギュスターヴ・モロー 世紀末パリの異郷幻想 (ToBi selection)
        NHK「世界美術館紀行」取材班 編集『NHK世界美術館紀行〈1〉ロダン美術館、マルモッタン美術館、ギュスターヴ・モロー美術館』 日本放送出版協会 2005年
        NHK世界美術館紀行〈1〉ロダン美術館、マルモッタン美術館、ギュスターヴ・モロー美術館
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        岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟

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          JUGEMテーマ:コラージュ

          岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟

          公式サイト:
          https://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/190126-0407_okanoue.html

          目黒・東京都庭園美術館( https://www.teien-art-museum.ne.jp/ )にて。

          終わってしまった展覧会だけど……コラージュ好きとしては、したためておきたい。

          コラージュ作家・北川先生に紹介されて知った、岡上淑子女史の展覧会。
          昨年、作品集『はるかな旅』の出版を記念して、高知県立美術館で展覧会が催されていたが行けずじまいだったので、私にとっては久しぶり。恵比寿・LIBRAIRIE6/シス書店での個展exhibition - 夜間訪問 - 岡上淑子 - Toshiko Okanoue -以来だった。

          岡上女史のラグジュアリーな雰囲気の作品が、会場の邸によく合う。

          展示会場は2部構成で、「マチネ」「ソワレ」と題されている。コラージュのモノトーンの色味の対か、女史の活躍の暗示か、なかなか粋なネーミングだと思った。

          気に入っている作品と、この展覧会を通して知った、岡上女史のコラージュの魅力についての備忘録。


          第1部 マチネ

          会場に入ってすぐ、人気の高い作品が並んでいた。

          画集などで拝見していたそれら作品だが、オリジナルを拝見すると写真などでは感じ得なかったものがあった。
          切り取られ糊付けされたマチエールたちが、紙の厚さによって立体感をもっている。画集やポストカードでコピーされフラットになったものでは気づけない。
          均一になって一つの作品となったものよりも、切り貼りされていることが鮮明であることで強調される異物感。

          幻想

           岡上淑子《幻想》1953

          これも展覧会『夜間訪問』で拝見した作品。再び拝見できて感無量。

          依然見た時と、私の中での印象は変化していなかった。
          ミヒャエル・エンデ『遺産相続ゲーム』の舞台の屋敷と馬の足音――それは黙示録の四騎士であり、不吉な破滅の予兆――を想起させる。
          同時に、ヨハン・ハインリヒ・フュースリ《夢魔(ナイトメア)》(※1)の寝室をのぞき込む馬の首をも。

          沈黙の奇蹟

          岡上淑子《沈黙の奇蹟》1952

          木々の間、少し開けた空間。
          画面向かって左には、ライフル銃を携帯する首の無い人物像が列をなしている。
          画面中央にはその列から離れ、犬の散歩をしている修道服を着た首の無い女性。
          その向かって右上には、パラシュートの先に顔が付いている。

          私はこれまで、中央の修道服の女性の方に注意が向いてしまい、パラシュートの首に気づいていなかった。
          その顔(首)は修道服の女性のものなのか?
          パラシュートでどこかへ飛んで行ってしまうのか、それともこれから修道服の首に乗るのか?
          たくさんの想像を掻き立てられる。

          沈黙の奇蹟》の傍には、『祈祷室の薔薇』という岡上女史の詩が展示されていた。

          祈祷室の薔薇

          深夜 祈祷室の薔薇は目覚める
          野性のヴェールに
          巫女たちの愁訴をかき抱き

          大理石の舗道は
          客席のない舞台に続く

          なめらかな足並みは
          時間の刺青を消してゆく

          岡上淑子著、神保京子監修『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』 2019 p.181

          岡上淑子 フォトコラージュ −沈黙の奇蹟−

          祈りと舞台への道行の時間の流れのイメージが、コラージュのそぞろ歩く人物のイメージとリンクする。
          ライフル銃を携行する首の無い一団は、同じく首の無い修道服と同質のものに見えてゆく。修道女≒巫女、といった具合に。
          そして犬を連れた首の無い修道服の女性はその一団から離れた存在……先行して客席の無い舞台に向かっているのではないかと……
          それは私の勝手な想像に過ぎないが、不思議と結びついているような気がした。

          他、最初期の作品である被服学校で授業の一環で制作したコラージュも展示。
          単色の羅紗紙に3つほどの要素で構成されたそれは、マチエールだけでなく構図も他の作品と違って、ファッショナブルな印象を私は受けた。

          コラージュ制作から離れた後の、写真作品や植物画も展示されていたが、私には女性の手工芸の域を出ない印象を受けて、物足りなく感じてしまった。……すみません。

          イメージの源泉を辿る

          岡上女史は被服学校でアートの授業の一環で切り絵を経験したこと、瀧口修造(※2)との出会いをきっかけに、コラージュへの創作をはじめる。

          展覧会の構成では、コラージュの源泉となったであろう物も展示されていた。

          シュルレアリスム運動の中でコラージュの奇想天外な組み合わせのスタイルを確立させた、マックス・エルンスト『百頭女』も展示してあった。

          百頭女 (河出文庫)

          岡上女史は瀧口修造からマックス・エルンストとそのコラージュを知り、背景にも写真を使うようになったという。

          服飾学科での就学の影響も無縁ではないだろう。裁縫の型紙の形成と、それを基に布を切り出し縫い合わせて、服という新しいものを創るという共通した概念に留まらず。
          そういう環境でないと、ヴォーグ誌など海外の雑誌に触れる機会はそんなに無かっただろうから。

          展示会の一部区画に、コラージュの元になった雑誌が展示。
          LIFE誌に掲載されていたクルーザーが海を切る写真。現実的な写真があの《海のレダ》を構成する一部になる。
          海を切り裂く船はトリミングで無くなり、白波に沿うように白鳥と女性の上半身が添えられている。
          不思議な感覚だった。

          岡上淑子《海のレダ》1952

          「海のレダ」は私の一番好きな作品です。
          女の人は生まれながらに順応性を与えられているといいますが、それでも何かに変わっていく時にはやはり苦しみます。そういう女の人の苦悩をいいたかったのです。

          コラージュというキリヌキ
          流行』7月号 1953

          私が《海のレダ》に感じた、ギリシア神話の「レダと白鳥」や「エウロペの略奪」のイメージは、女性の普遍的なものだった。
          まだまだ女性の社会進出がままならず、むしろ黎明期だっただろうか、岡上女史はそうした時代の空気を敏感に感じ取り、この作品に投影したのではないだろうか?
          現代社会に置き換えれば、女性の社会進出においてまだまだ存在する弊害や、#MeeToo運動だろうか。
          必ずしも悲観的なものではなく、道を切り開くという事に痛みが伴う……岡上女史の言葉を拝見して、神話的イメージを抜け、私はそんな現実を垣間見ていた。

          第2部 ソワレ

          上記までは会場での構成で第1部にあたる。
          「第2部 ソワレ」になると、メッセージ性の強い作品が多いように思われる。
          その多くは戦争と死を強く意識させるもの(過去の対戦と当時そして現在まで続く諸戦闘、内戦)、それに反旗を翻すような、女性たちの姿だ。
          あるいは……戦争を繰り返すばかりの男たち、無機質な男中心の社会に対して、別の道があることを ( いざな ) うように見えた。
          機械のように無機質な男たちに対し、圧倒的な有機性と自由さがある女性たち……

          岡上女史の独自性

          前述のとおり、エルンストを(エルンストの作品に魅了されていた)瀧口修造をとおして知った岡上女史は、期せずしてその追随者となったように思える。
          一見すると、エルンストの影響をもろに受けているようだが、似て非なるものがある。特にヴィジョンとして現れる“女性像”は、エルンストの作品には殆ど現れず、あったとしても他のシュルレアリスムの画家たちが描き出したよな永遠に手の届かない理想の女、存在しない彼方の女、女神といった、形而上的な存在だ。

          彼ら(男性のシュルレアリスト)が第一次世界大戦による惨禍を背景に近代の合理主義への批判に傾いていたとすれば、岡上は敗戦後の復興期にあった日本で、アメリカによって再びもたらされた「自由」や「平等」という概念を意識しながら制作していたからだ。岡上は新しい時代への希望を胸に、流行や時勢とともに消費され、忘れ去られていく運命のグラフ雑誌の女性たちを解放し、新たな命を与えていたのである。

          池上裕子『自由と解放のヴィジョン――岡上淑子のフォトコラージュ』
          岡上淑子『岡上淑子全作品』2018 p.175

          岡上淑子全作品

          コラージュという“奇想天外な組み合わせ”故に、シュルレアリスムの女性像と手法的には被るものの、岡上女史のコラージュの女性像は、男性が理解しえない彼方の ( ひと ) ――女神でもファム・ファタール――ではない。
          いつか来る、そして本来あるべき「自由な私」であり、自分自身でもある。


          終戦から10年が経ち、戦後復興から新たな時代への予感がある。その中で模索され始めた、女性たちの“自分とは何か”が示されているが故に、私たちの琴線に触れるのではないだろうか?

          話が飛躍してしまうが、巷にあふれる自己啓発本には、大きく大別すると男性向けと女性向けがあり、男性向けは「仕事効率・能力アップ」、女性向けは「家事や役割に囚われず、自分らしさを実現すること」になるという。(※3)
          どんな時代であっても、女性は社会的な地位や情勢に左右せれず“ありのままの私”でありたいと強く願う。
          岡上女史の作品に、そうしたヴィジョンを鑑賞者は見いだす。それが岡上女史の作品の魅力ではないだろうか。


          私は今まで、その力強さと独自性を肌で感じながらも、きちんと言語化できていなかった。
          今回の展覧会などを通して、図録を拝見して、岡上女史の作品が再評価され、その魅力がこうして明文化されていたことは非常に価値があると思う。
          良い展覧会だった。

          面白かったのは、岡上女史を取り上げた雑誌類を展示しているコーナーで、『サンケイカメラ』1959年9月号の記事に、フォトコラージュを「マジックフォト」と記していたこと。……魔法なんだ(笑)

          1.  Johann Heinrich Füssli "The Nightmare" 1790−1791.
            https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Johann_Heinrich_F%C3%BCssli_053.jpg(2019/8/14 確認)
          2.  瀧口修造 (Wikipedia / 日本語)
            https://ja.wikipedia.org/wiki/瀧口修造(2019/8/14 確認)
          3.  【参考文献】牧野智和『日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

            日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ
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          映画『アリータ:バトル・エンジェル』感想 ――強調される、身体性

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            JUGEMテーマ:SF映画 一般

            映画『アリータ:バトル・エンジェル』チラシ3

            公式サイト:
            http://www.foxmovies-jp.com/alitabattleangel/

            原作がそうなので、この映画もガジェットSFだが、身体性を意識させる映画として昇華されていた。

            物語の感想というよりは、身体性についての考察。


            映画宣伝のポスターでも、目を強調したアングルの宣伝が多かった。その際立った特徴。
            不気味の壁のようなものかと思ったが、見ているうちに払拭される。
            原作に忠実に再現されている訳だが、もっと異なる意図があるように思えた。

            その大きな目だからこそ、幼さ、少女性が際立つ。

            身体性

            少女――球体間接人形

            アリータが当初与えられる、エングレービングが施された白いボディは、球体関節人形のような白く線の細い身体。
            エキゾチックな紋様が施された、神秘的なものだ。
            元はアリータを拾った医師・イドの亡くなった車椅子の娘のためのものだったためか、非常にか弱く少女的なものだった。

            四谷シモン、天野可淡ら……最近のものではスーパードルフィーなどを想像すれば良いだろうか?
            球体関節人形の可動性を持たせる関節の切れ目は、そこから解体できることを強調し、脆さ、儚さを暗示させる。
            また、この可動性は(モーターとか、内部に仕込んでいないこと前提にすると)外からの力によって動く。
            そこに介助を必要とした少女の面影、あるいは親の庇護を必要とする子供のイメージがある。

            戦闘に向いたものではなかったため、敵役・グリシュカに破壊される。

            成熟した女性――バーサーカーボディ

            300年前の地球と宇宙戦闘艇で導かれるように発見したバーサーカーボディ。アリータのためにある身体だった。

            ボディだけの状態だと男性的な身体つきをしていたものが、アリータの頭部を付けると彼女の身体に合うように女性的に変化する……
            両性具有的な表現にも惹かれた。

            元々、原作『銃夢』で主人公の名前はガリィ。
            ただ、英語圏での商業展開の際に"gully(雨裂)"になること、男性的な響きの名前であるため、“アリータ”に変更されたという。()
            そういう点では、本来の両性具有的な意味合いが暗示されているようで、私は納得してしまった。

            バーサーカーボディを得たアリータの力強くしなやかな動きは新体操そのもので、身体の筋力の強さ、柔軟さを見せる。
            球体間接人形の、動くこととはまた違う感動があった。
            球体間接の身体はイドの娘(私ではない誰か)の身体であり、アリータ自身ではない。それがようやく本来の身体(自己の主体性)を獲得する。主体性の獲得のヴィジュアル化とも解釈できる。
            これをアリータの少女から大人の女性への変化ともとれる。未熟でか弱い少女が、イド(保護者)の庇護から離れる、成長の瞬間だった。

            映画『アリータ:バトル・エンジェル』チラシ1

            敵役の“身体性”

            もう一つ興味深いのは、アリータの敵役たち。

            典型的な悪役(ワル)を想起させるキャラクターが勢ぞろいしているのだが、興味深いのは、その“改造”を強調した造形だ。
            アリータとイドが冒頭で遭遇する、チャッキーのような顔の男、蜘蛛女など。人間というよりはバイクのような形をなった極端な者もいるが。彼らは総じて身体の一部が強調されている。

            彼らの改造や一部部位の強調は、現実世界にも見られる。タトゥーや極端な例では人体改造(舌を蛇のそれのように整形する事例)など。広義には美容整形も含められるかも知れない。

            ハンター・ウォリアー(治安維持を名目とした賞金稼ぎ)のライバルであるザパンのサイボーグの背中にある意匠はタトゥーにありそうな柄だった。

            それは変身願望に自己実現だ。
            自信があることを強調、誇張すること、相手に見せたい自分、劣等感のある部位を切り離す、なりたい自分になる……そういった個々人の様々な感情を実体化させる行為と言える。
            そう考えると、悪役の個性が垣間見えてくる。

            体術

            アリータは闘争を通して過去の記憶がフラッシュバックし、 機甲術(パンツァークンスト)と呼ばれる体術を体得していた戦士だったことを知る。
            その動きにヨーガ、合気道、アジア圏の武術を想起する。

            体術に相手の急所を的確に突くイメージを抱く。短絡的に、それを実行できるのは自分の意思で身体をを制御する術を心得ているからと考える。

            身体をコントロールできることを、私はかつて、意思によって身体を制御しているからと考えていた。その極みが体術だと。

            そのイメージを、『銃夢』然りマンガやアニメを通して多くの人は共有していたように、私は思う。
            究極的に研ぎ澄ませれば、身体の苦痛や限界を超えられるのではないか、そもそも超えられる身体さえあれば己の志は実現できるのではないか、と。

            到底生身にはありえない様相を見せて読者の潜在的な願望を満たす。手足の損傷は意に介さず、上半身だけになっても攻撃をやめないその闘争の意思は、私たちが常に願う、意識の身体への優先を映像化したものと言える。幾重にも保護された脳だけが自己でほかの身体部分はすべて「乗り物」という場合、彼は脳以外の身体損傷を恐れる必要がなくなる。そして意志のために身体を犠牲にできる者には、かつてヘーゲルが『精神現象学』で告げた死を恐れない「主人」の特性が見え始める。
            それは超越の映像化なのだ。またそれは生身の身体の呪縛から解放されることへの夢とも言える。

            高原英理『ゴシックハート』2004 p.96

            ゴシックハート

            唯脳論

            『銃夢』が描かれた90年代頃まで、人体の解釈は脳が司令塔でありトップダウン形式で他の臓器に指令を送っているものと解釈されていた。
            SFの世界でも「脳さえ維持できれば人間は半永久的生きる」あるいは「ハイスペックなボディに変換し生身の人間を凌駕する兵士を生み出す」……という設定は枚挙にいとまが無い。士郎正宗『攻殻機動隊』もその一つだ。
            だが、現代の医学は懐疑的になっている模様。
            昨年のNHKスペシャル シリーズ「人体」では、メッセージ物質と呼ばれるタンパク質を介して、臓器は相互に影響しあっていることが取り上げられていた。
            ……つまり人間は、脳だけで物理的に生きられても、脳以外の臓器からの刺激やメッセージ物質が無いと“生きられない”のではないか?

            アリータのボディの換装は、漫画やアニメでは意志の身体の超越を意識させたが、この実写映画では意味が転じたように思えた。CGで再現されたリアリティを伴い、身体の重要性、必要性を強調しているようだった。

            身体の必要性

            『アリータ』における身体は『銃夢』のものとは真逆の価値観のように思える。

            義体のモノ化(取り換えがきく身体)ではなく、少女の成長を暗示させ、滑らかな動きで生身以上に身体の存在感を映像で強調しているようだった。
            体術もまた、身体を鍛えることで己と向き合い、心身を整える要素のひとつとも考えられる。

            押井守『ひとまず、信じない』でも、空手をするようになって、身体が心に影響を与えることを実感した旨を語っている。

            僕の若いころは、人間にとって一番大事なものは意識であり、首から上だけが重要だと思っていた。だから、究極に深化した人間は、自己を決定付けるものとしては脳だけがあって、体は機会に置き換えることが理想のようにも思っていた。
            その究極の形が『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』現れる登場人物たちである。ただ、作品ではその意識ですら自分のものであるのかどうかがあいまいになっていく。機会に置き換わった自分とは何者かという思いテーマに向き合うことになった。
            だが、空手を始めて、肉体を鍛えることを知ってからは、肉体こそが意識をコントロールしていることを感じるようになった。

            押井守『ひとまず、信じない - 情報氾濫時代の生き方』2017 p.37

            ひとまず、信じない - 情報氾濫時代の生き方 (中公新書ラクレ)

            それは自己の回復、ではなかろうか?

            アリータはイドに発見された当初、自分の名前も、何者かもわからずにいた。
            与えられた白い義体から、本来のバーサーカーボディを得て、本来自分が目指していたことを思い出す。

            前述の『ゴシック・ハート』において、『銃夢』『攻殻機動隊』人体改造やサイボーグ化が、肉体の限界という呪縛を超越という羨望があることを指摘していた。それは巡り巡って身体への情景に立ち返る。
            それが90年代と2010年代の時代の変化だと実感する。

            思えばジェームズ・キャメロン監督作品でも『ターミネーター』シリーズは、機械の身体という生身の人間を“圧倒する”存在と対峙する。(最終的には生身の人間が勝利するが)
            それが映画『アバター』では人造の生体を通して、戦争で負傷し下半身不随した兵士が活躍する。
            『アバター』では身体を通し、五感で感じることに重点を置いた描写、それを通して主人公が生きる力を取り戻すような描写が多かった。

            身体の必要性は食事の描写にもうかがえる。
            90年代ごろの遠未来設定にありそうな、たとえば脳に必要な栄養素の摂取を栄養剤で行っているような描写は無く、人間らしく経口摂取によって、生のオレンジやチョコレートなどを食している。
            “味覚”という、身体でしか感じることができない“五感”のイメージを刺激させられた。

            単純に私たちが普段から目にして食べているものを描写することによって、鑑賞者が共感しやすくしているだけかもしれない。
            その描写が必要なのは、ジブリ映画において食事の描写が生身の人間への生きることへの想起であるのと同じ描写だと、私は思った。

            身体を維持し鍛えることで整えるという、生身の人間でも必要なことが強調されている。

            映画『アリータ:バトル・エンジェル』チラシ2

            都市の情景

            押井守で思い出されたが、映画『攻殻機動隊』で“記憶の外部化”の延長として、映画『イノセンス』では「都市は巨大な外部記憶装置」として都市景観の描写に重点が置かれていた。

            『アリータ』では、それがより分かりやすい形で表現されていたのではないだろうか?描写された都市景観は、調和した世界の街並みの闇鍋だった。
            ヨーロッパの石造りと、トタン板で作られたスラムのような突貫工事、アジアのごみごみした街並みがさも当たり前のように混在している。
            戦争のあとの突貫工事あるいは違法建築は、世界崩壊後の混乱とその爪痕を如実に物語る。それを当たり前として人々が存在している。彼らもまた、多種多様な人種が入り混じっていた。
            人種の坩堝が都市景観として表現されていた。


            細部のクオリティも徹底的に再現、独自解釈も含めて作り込まれていたし、良作だった!

            しかし、若干時代に合わない?世界観だったかもしれない……SF的斬新さが無いという意味で。
            当然だが、世界観がどうしても2000年以前のSF……

            このクオリティで、あと5年、10年早ければ……そう思わずにはいられない。
            あ、でも10年前は『アバター』だったか……

            1. https://ja.wikipedia.org/wiki/銃夢#登場人物 > ガリィ

              https://ja.wikipedia.org/wiki/アリータ: バトル・エンジェル > アリータ

            参考文献
            【対談】押井守×最上和子『身体×義体の行方』前編 | 日本美学研究所
            http://bigaku-labo.jp/190211/talk/oshii_mogami
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            映画『ジェーン・ドゥの解剖』感想

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              JUGEMテーマ:映画

              ジェーン・ドウの解剖 [DVD]

              公式サイト:
              http://janedoe.jp/

              本来、真相への手掛かりを掴むためのポジションである検死解剖が、事件の真相“そのもの”に繋がる。それが斬新だった。
              解剖して死因を究明する「だけ」のはずが、目の前にある死体が霊障の原因で、事件に巻き込まれてしまうという皮肉も。

              解釈が何重にも入れ子になっていて、真相にたどり着いても真意にはたどり着けない。
              素晴らしき密室ホラーサスペンスだった。

              物語は不可解な殺人?事件現場の地下で、身元不明の女性の遺体(ジェーン・ドゥ)が発見され、地元の葬儀屋に検死依頼と遺体が運び込まれることから始まる。

              ❗❗以下、ネタバレあり❗❗

              解剖

              今まで見たサスペンス系の映画で、検視解剖のシーンはあっても、その手順や目的について解説したものはなかった。
              実際の職業でなければ知る機会もないであろうと思っていたので、驚いた。
              同時に、知的好奇心を刺激される。

              普段、知ることがない検死解剖の手順。
              「あくまで死因を突き止めるのが検死解剖であり、推測で判断してはいけない」と監察医の父親は語る。
              そうした台詞に従事する人のプロとしての意識を垣間見る。

              しかし、あまりにも不可解な遺体、不自然な状態に、死因を特定することができず、次第に死因の解明という推理へとシフトしてゆく。

              推理

              解剖という、身体の中を開けて死因を知ろうとする行為が、事件の真相を暴こうとする行為と深く結びついている。

              “真実”を暴く“時”の格言の如く、時間の経過とともに進む解剖が真実を暴こうとするのだが、
              解剖が進むほど、周りで霊障がひどくなる。まるでパンドラの壺(箱)を開けてしまったかのように。

              爪に付着していた土や布に記述されていた記録などから、彼女はセイラム魔女裁判(※1)の犠牲者だったことが判明する。

              美しい死体

              映画『エイリアン:コヴェナンド』のショウ博士然り。ムラージュのイメージだった。
              一瞬、眠っているかと見紛うような艶っぽさ。白い肌や滑らかな肢体の美しさに色を添えるような血の赤に……それを開いて中を見る、好奇心を満たすような行為に陶酔するような……言葉は悪いが、一種の征服欲のようなものを匂わせる。それは同時に危うさ、破滅の雰囲気もある。

              美しい容姿……外皮は、生前のそれであると同時に、彼女が受けた、魔術?のような凄惨な拷問を包み隠すものだった。
              皮を剥いで真実を暴くと同時に、噴出する悪意。

              真相にたどり着ければ霊障が収まるのではないかと考えていた父子だが、むしろ悪化する。
              セイラム事件の凄惨な歴史と犠牲者の無念に思いを馳せ(これはあらゆる事件に巻き込まれた犠牲者を検死する医師たちが一度は抱える思いかもしれない)、赦しを懇願する父親の犠牲も虚しく、息子も死んでしまう。

              ジェーン・ドゥは憎悪しているのだろうか?
              それが彼女の意識なのかは判断できない。

              私には魔女裁判で魔女を封じて悪魔を退けようとして、魔女を生み出してしまったように思えた。

              一夜明け、検死解剖を行った葬儀屋では、警察官らによって現場検証が行われていた。
              ラジオで言われていた嵐があった形跡はなく、死体が歩いた形跡もない。だが、映画の冒頭にあった前日の事件現場と似た雰囲気――脱出を試みた形跡――がある。

              地域の安全を守る保安官の伝統か。
              賢明な保安官は、手に終えないと悟ったジェーン・ドゥを他の地域の大病院に送る。
              その救急車の中で、彼女の足に括りつけられた鈴の音がする。――霊障は既に始まっていた。

              音楽

              霊障が起こるとラジオから流れてくる素朴な歌。次第に不安の代名詞、霊障の象徴になる。
              冒頭で流れる耳障りなロックがかえって恋しくなるというか、元気をくれるものにすり替わっていた……

              この子供たちの楽しげな歌は"Open Up Your Heart"という、ジャズだった(1955)。(※2)
              ジェーン・ドゥと同時代(1692)の曲ではないのか……

              本来は楽しい曲のはずなのに、不気味な雰囲気にしてしまう……
              映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』で使徒と識別された参号機解体に〈今日の日はさようなら〉が使われた時の戦慄を思い出す。

              魔法陣

              ジェーン・ドゥがのみ込んでいた、自身の歯をくるんでいた布に描かれていた魔法陣。
              一瞬、 ソロモン英霊72柱の紋章にありそうな図紋だと思っていたが、それはソロモンの大鍵。魔除けのひとつだった。(※3)

              しかし何故、彼女の歯が抜かれ魔法陣を描いた布に包まれ、飲み込ませてあったのか……
              父親は彼女が受けた処遇を「拷問」と言っていた。
              だが……手足の骨を折るというのは拷問というより、死者の復活を妨げるための儀式だったように、私は記憶している。墓から這い出てこないようにするために。例の布も死後の復活を妨げる まじな いだった可能性がある。

              幻覚

              映画『オキュラス』のような幻覚作用による怪異は最近のホラー映画のトレンドなのだろうか?
              ポルターガイストをはじめとする具体的な霊障ではなく、当事者(巻き込まれた人々)しかわからない状態。

              セイラムの事件での少女たちの奇行には幻覚、すなわち“当人しかわからない現象”もあったようだ。(※4)それを踏まえているかもしれない。

              真相の解釈

              生来から魔女であったか、無実の女性であったか……多様な解釈ができる仕立てだった。ジェーン・ドゥ(名無しの権兵衛)が何者か分からないのと同様に。

              私はセイラムの魔女裁判が、無実の人々が犠牲になったという前提で鑑賞したため、ジェーン・ドゥも犠牲者であり魔女(悪意の塊)となってしまった、と考えていた。
              字幕版を鑑賞したのだが、字幕では父親の発言に「無実」という字幕が充てられていた。

              しかし、他の人の感想などを拝見すると、彼女は元々魔女であった、と考える人もいる模様。
              最近のハリウッドホラーでは、結局親玉が古代の悪魔だったりする傾向が多いので、その文脈もありうるだろう。
              記録に残っていない、セイラム魔女裁判の真犯人――魔女であり悪魔――で、秘密裏に葬られ遠く離れた地に埋められていたものが、時が経ち冒頭の事件があった家で誤って掘り起こされてしまった、という……

              どちらかは作中で明言されず、判然もしない。
              観る人によって判断が分かれる、判断を委ねられている、なかなかの良作だった。

              1. セイラム魔女裁判
                https://ja.wikipedia.org/wiki/セイラム魔女裁判
              2. McGuire Sisters- Open Up Your Heart And Let The Sun Shine In
                https://www.youtube.com/watch?v=GTGq3lnR14o
              3. ジェーンドゥの解剖 感想と解説 - シエスタ
                http://occulticsiesta.hateblo.jp/entry/2018/02/07/ジェーンドゥの解剖_感想と解説
              4. 魔女狩りで19人が処刑された「セイラム魔女裁判」の原因は幻覚剤「LSD」かもしれない
                https://gigazine.net/news/20151030-salem-witch-trials-lsd/
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              映画『GODZILLA 星を喰う者』感想

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                JUGEMテーマ:映画

                映画『GODZILLA 星を喰う者』チラシ2

                公式サイト:
                http://godzilla-anime.com/

                アニメゴジラ3部作最終章。
                虚淵玄氏らしい脚本で、私は満足している。
                時代に合わせてその役割も変えるゴジラ。『シン・ゴジラ』とも当然違う。

                !!以下、ネタバレあり(というか、ほとんどあらすじ)!!

                迷信/盲信

                前作のラストで気になっていた――ハルオの味方を殺害し、任務遂行を妨害・破綻させた――ことで、移民船内が分裂する。
                ゴジラを斃す好機を失ったことを糾弾しハルオへの処罰を求める異星人種族・ビルザルト。志願兵以外の兵士をナノメタルに同化しようとした戦術の非人道さを非難しハルオを擁護する人間。
                ビルザルド側はハルオへ処罰を求め、移民船のライフラインを凍結してしまう。

                極端な言い方をすれば、どりらも正しい。
                あまりにも難しい舵取りに、船長はどちらの顔も立てれず、対処ができない。

                自分達ではもはやどうすることもできなくなり、追い詰められ絶望した人間は、もう一方の異星人である宗教種族・エクシフの“神”にすがる……

                同じ時、地球では討伐部隊の一部が、ナノメタルに呑み込まれなかったのはエクシフの“神”への信仰が篤かったため、と言葉巧みなメトフィリスに傾倒する。

                不遇の境遇に“終焉”をもたらす“神”であるという――ギドラを。

                「迷信は弱者の宗教である」という趣旨の言葉は、国や時代を問わずいくつかあったと思う。
                「救われたい」という信心が盲信となり身を滅ぼす人間たちの姿が端的に示されていた。

                ギドラ

                エクシフによって呼び出されたギドラは高次元生物……高次元からの怪獣だった。

                エクシフの目的は、ギドラを使ってゴジラを斃すことではなく、ギドラにゴジラも人類を含む自分たちをも喰いつくさせてあらゆる事を”終わらせる”ことだった。

                ギドラに遭遇した移民船は、ビルザルドがライフラインを停止させていたこともあり、離脱ができない。
                そのうえギドラによる高次元の干渉から時間がバラバラになってしまい、指揮系統が混乱する。
                リアルタイムで話していたと思っていた相手は、既に爆破に巻き込まれて死んでいた……さらにオペレーターは‘過去’となってしまった――当事者としては‘未来’の――自分たちを観測してしまう……

                「私たち……もう……死んでる……?」

                確定した避けられない過去/未来に戦慄する。

                移民船を破壊したギドラは地球にも影響を及ぼし、遂にゴジラとギドラという、怪獣同士の対決になる。

                といっても、ギドラは高次元生物。
                破壊光線は空間を歪めて軌道をずらし、ゴジラがギドラに噛みつこうとしても、まるで存在しないように透かしてしまう。
                にもかかわらず、ギドラはゴジラに噛みつきその身体を拘束して牽引する。

                ……上記、起こっている現象を私たち鑑賞者に伝えるように、ハルオと行動を共にしている環境生物学者のマーティン少佐が分析する。
                苦肉の策というか、面白い表現方法だと思った。
                SF的に面白い設定だが誰にもわかるように伝えるのはちょっと難しい。

                ギドラがゴジラに干渉できるように仕向けているのはメトフィリスにあると判断したマーティンの助言に従い、ハルオはメトフィリスと対峙する。

                エクシフの宗教は未来予測の高い技術――ゲマトロン演算と呼ばれる数学体系――から信頼されていたことが以前仄めかされていた。
                メトフィリスによるとゲマトロン演算をはじめとするエクシフの技術は高次元に繋がるものだったため(もし四次元が三次元+「時間」だったら、時間の流れを俯瞰で見る技術ということになる)、その力が行き過ぎてギドラを呼び寄せたらしい。
                彼らはその技術によって、未来にどんな“滅び”を見出してしまったのだろうか?

                行き着くところは死であると――メトフィリスは華々しく散ることを是とし、ハルオにその引導を渡す役割を与えようとする。それを呑ませるために、ハルオに陰湿な精神攻撃を与えて……

                若干、ハルオの葛藤の時間が長かった気がした。
                メトフィリスが語る本質と未来とは、あくまでエクシフの過去であり、地球の未来ではないのに……

                信仰も科学技術も人類を発展させたが、行き過ぎたそれらは人間をも滅ぼす……
                エクシフとビルザルドがその象徴だった。

                フツアの民のマイナの機転で、フツアの神・モスラを媒介としたテレパシーを使い、マーティンの助言によってメトフィリスの精神攻撃から逃れ、ギドラの干渉からゴジラを解き放ち、ギドラを退ける。

                映画『GODZILLA 星を喰う者』チラシ1

                怒り

                人を捨ててゴジラを倒すか、人としての尊厳を維持して死に絶えるかという、二者択一ではなく“別の道”――たとえ自身が死しても命を繋ぐ世代交代という命の循環――をフツアの民に見出し、そちらに託すことにしたハルオ。

                しかし安息もつかの間、マーティンが脳死状態のユウコのナノメタルを解析しバルチャー(前作のナノメタルの機体)を起動することに成功する。

                科学者であるマーティンは、データとして遺されている技術力の抽出に関心があるだけで、ナノメタルがもたらす悪意には関心が無かったと思う。それ故にハルオは危惧する。

                メトフィリスの言葉と、ミアナが「毒」と言わしめたナノメタルが再びもたらす破滅的な未来を予感し、全てを断ち切る決意をする。

                同時に、ハルオは“復讐心”という自身の負の感情――両親を殺したゴジラを赦すことはできない“憎しみ”――があったのかもしれない。それ囚われたままの自身の心はまさに怪物であり、エクシフやビルザルドの負の遺産の一部だった。それらを包括した二次感情の“怒り”として脳死状態のユウコと共に、バルチャーををゴジラに向けて特攻する。自身もろとも破棄するために。

                ゴジラの熱線で自身ごと焼き払う。

                ゴジラにとってハルオが敵だったかは曖昧にとらえる。というより、見るものに解釈を委ねる仕立てだった。
                単純に敵とみなしているナノメタルに反応しこれを焼き払う、
                憎しみを向けられている自覚があったのか、(肉眼でハルオを見たゴジラは第一章で斃されているため、ハルオを目視していないので)

                怒りという概念がなかったフツアの民。
                ハルオの“憎しみ”という感情を理解できず、“いかり”の意味するところを理解できなかったマイナによって、ただの言葉の形骸があった。
                それは“いかり”という言葉が本来の意味を失い、あらゆる厄を乗せて焼かれることで浄化するものとしてフツアの民に残った。

                特撮の『ゴジラ』シリーズにおいて、怪獣対決や世相を反映していったゴジラは、初代の破壊神から予定調和され地球の守護神のようになっていった。

                しかしアニゴジではそれらを踏まえた上で、徹底した役割分担をしたように思う。 大地母神的な性格はモスラに。
                暴食的な破壊をギドラが担ったようだ。
                ゴジラは……地球の生態系の頂点に立つ。それは一作目の『怪獣惑星』から一貫して“KING OF MONSTER”だった。 徹底して、人間の敵でも味方でもない。

                人類の末裔、フツアの民はゴジラと共に共生する。
                しかし、彼らはゴジラの守護下にいるわけではない。
                フツアの民を守っているのはモスラだった。

                もう語られることは無いが、遠い未来にフツアの民が滅びずモスラが再び復活する時、ゴジラとモスラの間で何か決着するのだろうか?

                映画『GODZILLA 星を喰う者』前売り券

                今年はハリウッド版ゴジラが公開される!
                三つ巴かと思ったら、四つ巴だった!
                日本では今年の夏休み映画だろうか……
                まさかのモスラも現れる模様。(でも大地母神的な性格持ち合わせてなさそう……)

                最後に一言……
                アニゴジモスラがシルエットだけだったのが解せぬ。

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                スペイン国立バレエ団 2018年日本公演〜創立40周年記念公演〜

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                  JUGEMテーマ:バレエ

                  スペイン国立バレエ団 2018年日本公演〜創立40周年記念公演〜

                  公式サイト:
                  https://www.spain-ballet.com/

                  3年ぶりの来日公演。
                  前回見逃したので、楽しみだった。

                  本当はプログラム両方とも見るべきだったのだろうけど……都合が合わず断念。
                  鑑賞したのはBプログラム。初心者でもわかりやすい“スペインらしさ”溢れる構成だった。

                  バレエにフラメンコの要素を取り入れたもの、と端的に言っていいだろうか。
                  私はフラメンコとバレエの重心が異なる方向――前者は下方へ、後者は上方――に向かうので、相反すると思っていたが、今回の公演を見て、それらは対立するものではなかった。
                  そもそもフラメンコでもバレエの要素を取り入れているものがある。シェネ(※1)とか。

                  《カンティーニャス・デ・コルドバ》(「サグアン」より)はフラメンコらしい衣装、動きで、男女の駆け引きの物語を描き、

                  次の《ビバ・ナバーラ》はフラメンコの源流のひとつと言われるホタ(※2)をオーケストラと共に、パリージョ(フラメンコで使われるカスタネット)が乱れの無い美しい音を奏でていた。指が腱鞘炎になりそうだと思う、力強い音とスピードに圧倒されてしまう。

                  曲全ての感想を書くには私の力は至らないので、特に気に入った2曲、《ボレロ》《セビリア組曲》内“マエストランサ”について、感想を書きたいと思う。

                  《ボレロ》

                  一番見ごたえがあったような気がする…馴染みのある、覚えやすい曲であるためか。

                  バレエのために作曲された曲。東急ジルベスターコンサート 2015-2016で引退するシルヴィ・ギエムが舞い、『銀河英雄伝説』の艦隊戦のシーンでも使われた曲。
                  同じリズムで一定の旋律を繰り返す構成、徐々に楽器編成が増えてゆくことで倍音の効果を取り入れたものだという。(※3)

                  元々、スペイン舞曲から着想を得たものだったことを、今回初めて知った。

                  ボレロの3拍子にフラメンコのサパテアード(足)の3連が入る。決してずれない。
                  映画『ラ・チャナ』でも語られていた、フラメンコのコンパスの重要性が遺憾なく発揮されていた。

                  サパテアードとアバニコ(扇子)を使った音が合わさり倍音となり、《ボレロ》は次第に力強くなってゆく。


                  休憩を挟んで、後半は《セビリア組曲》。今回は新バージョンだったようだ。
                  ‘日本人にはあまり馴染みのない聖週間にまつわる場面を除いた(※4)’との事……私はそのシーンを見たかった……
                  映画『フラメンコ・フラメンコで9番目の群舞のようなものだったのだろうか……映画では長いヴェールを被り舞う姿は、まるで異界のような、神聖で静謐な世界だった。舞い終わった時に静かに十字を切る姿がとても印象的だった。

                  《セビリア組曲》“マエストランサ”

                  雄牛と闘牛士……本来、男の戦いである闘牛は、女(雄牛)と男(闘牛士)の駆け引きのようになっていた。

                  「牛は闘牛士にとって、敵ではなく協力者だ。ひとつのアートを実現するための協力者」という闘牛士マノロ・バスケスの言葉を思い出していた。

                  雄牛=女性の表現が興味深かった。
                  両の上腕を肩まで掲げ、両肘を90度曲げて雄牛の角と見立てている。
                  その腕を掲げた状態で、頭から闘牛士に突進して――挑んで――ゆく。
                  雄牛=女性の黒いボディスーツには、赤い血の刺繍があしらわれている。
                  それは雄牛=女性の決定的な死別、敗北に思えた。(現実の闘牛でも雄牛は斃される存在であり、闘牛士以上にその死は確定的なため※5)
                  同時に、死別を額面通りの“死”と捉えるのではなく、“男女の別れ”やその後の“忘れられなさ”“未練”といったもの、心の傷を彷彿させる。フラメンコのソレア(※6)に通じているようにも思えた。


                  他、民族的なアイデンティティを強く打ち出した演目だった。
                  スペインと言えば情熱的なイメージが容易に想像できる男女の駆け引きといったもの。そして南スペイン――イスラームの文化の影響を色濃く受けたムデーハル様式の意匠など――の雰囲気が鑑賞者をその世界に誘う。魅せられる。

                  バレエなのでとても軽やかに思えた。しかしフラメンコの要素を取り入れているためか、そちらに学ぶものがとても多かった。
                  私はそれにただ圧倒されていた。

                  1. シェネのやり方や意味、うまく回るコツを調べてみました。
                    https://ballet-ambre.com/chaies/ (2018/12/24確認)
                  2. ホタ・アラゴネサ(Jota Aragonesa): 北スペインのアラゴンが発祥の地。速いテンポと手を高く上げカスタネットをたたきながらカップルで踊るのが特徴。

                    スペイン舞踊史
                    https://www.enforex.com/japanese/culture/spanish-dance-history.html (2018/12/24確認)

                    映画『J : ビヨンド・フラメンコ』公式サイト
                    http://j-beyond-flamenco.com/ (2018/12/24確認)

                  3. ボレロ (ラヴェル)(Wikipedia / 日本語)
                    https://ja.wikipedia.org/wiki/ボレロ_(ラヴェル) (2018/12/24確認)
                  4.  『スペイン国立バレエ団 2018年日本公演〜創立40周年記念公演〜』プログラム p.26
                  5. 闘牛とは人間vs雄牛の殺し合いではなく、屠殺の延長としてみている。闘牛士はその解釈を否定するが、歴史を調べるとその一環であることが色濃い。牛は人間が食べるために屠殺されるが、人間はそれを戦っているように見立てていると解釈している。

                    【過去日記】闘牛批判考

                  6. SOLEA ソレア フラメンコ曲種解説|フラメンコガイド|フラメンコのイベリア
                    https://www.iberia-j.com/guia/solea.php (2018/12/24確認)
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                  仙冦藥

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                    JUGEMテーマ:展覧会

                    『仙冦藥勝戰船薀

                    公式Facebook:
                    https://www.facebook.com/sengai2018/

                    またしても、終わってしまった展覧会。
                    最近、会期内にブログを書けないことが残念なのだけど……
                    丸の内・出光美術館( http://idemitsu-museum.or.jp/ )にて。

                    禅画を鑑賞するのは、2013年の白隠展以来だった。
                    禅とはとっつきにくいものではないと、庶民にもわかりやすく伝わるように普及に努めた、仙僂硫莇箸魍栖峺る展覧会。

                    充実したセカンドライフ?

                    展覧会の冒頭から、広告にも使われている《老人六歌仙画賛》など、老いを面白おかしく表現し、ありのままの自分であることを肯定するような印象の作品だった。

                    老いることの恐怖がありながら、それを笑いとするユーモアがあることに驚く。
                    現代人は老いを悲観しているのに、この江戸時代の高僧は歌の中で驕りを戒め、逆説的に肯定していた。

                    こんな発想の源泉はどこにあるのだろうか?

                    仙僂榔5鏝紊暴国を旅していた様子。旅をしながら創作へのインスピレーションをまとめ、それを後に清書している。
                    その備忘録(アイデア帳)と清書した掛け軸などが展示されており、仙僂虜邁莠蟒腓鯀杼する。

                    仙僂虜酩雰欧魎僂道笋蓮△修Δ靴織罅璽皀△慮酸瑤、ご隠居坊主の充実したセカンドライフ故だと思っていた。
                    現役を引退してから諸国行脚して絵を描く……現代を生きる私にも羨ましいレベルの老後だと思っていたが、引退した僧侶の余生を楽しむ趣味としてだけではなく、禅の思想を極めるため、その普及のためのものだった。

                    仙僉坩豈濮蟆荵拭

                    《一円相画賛》の哲学的な真理を極めたような図像は大福に見立てられ、「食ってしまえ」と言ってのけられ、《座禅蛙画賛》は若い坊主に傲りを諌めるため蛙に見立てられていた。
                    禅を志す者には禅の教えを、そうでなければ一時の心の和みを、見るものに与える。


                    私が特に興味を持ったのは、《一円相画賛》や《〇△□》にみられる、美しい正円。
                    美しい正円を一筆書きできる技術と集中力もさることながら、サブカルチャーに現れた元ネタ、そこに込められた意味に思いを巡らせてしまった。

                    映画『メッセージ』(※1)で宇宙船内の知的生命体が使うコミュニケーションツールの筆書きされた円形のような〈文字〉。
                    ホラー漫画家として有名な楳図かずおによるSF作品『私は真悟』で、それまで“四角”だったコンピューターの真悟が通信衛星とアクセスし、“三角”(知識、関係性、自我の獲得)へと進化してついに“マル”(地球そのもの)になった、という件がある。 その元ネタとの遭遇でもあった。

                    わたしは真悟 文庫版 全7巻 完結セット (小学館文庫) [コミックセット]

                    〇△□

                    仙僉圈拶あ◆

                    古くから様々な解釈が試みられてきた。真言と天台と禅、神道、儒教、仏教であるとか、ストゥーパ(卒塔婆)に見る仏教的宇宙観の水と火と土である(※2)とか……

                    衛藤吉則氏が指摘されているように、〇から描いたと見えるが、図形が重なった部分の墨のにじみ方からすると、薄墨の□から描き始めて少し濃い墨で〇を描いたことがわかる。そして最後に、〇と同じ濃さの墨で一番左に空けておいたスペースに落款を入れたのである。衛藤氏は、だから「〇△□」ではなくて「□△〇」であるとされる。ただ、自然な見え方は「〇△□」である。少なくとも仙僂蓮△修Ωえることを想定していた。

                    中山喜一郎「儔荳蚤腓離淵勝,気泙兇泙焚鮗瓩鮴犬澆世杭酩

                    中山喜一郎監修『仙(せんがい):ユーモアあふれる禅のこころ (別冊太陽 日本のこころ)』p.108

                    仙(せんがい):ユーモアあふれる禅のこころ (別冊太陽 日本のこころ)

                    手紙に□から△、〇への到達の道筋が、仙僂砲箸辰討量槁犬世辰拭ならば何故そう描かなかったのか?〇△□は自然の流れで、自分は逆に進むことで真理に至る道であるというような意図ではないかと中山氏は解釈していた。

                    仙僂鮴祥亮匆颪望匆陲靴仁詭畋臉曚蓮屐拶あ◆廚鬟罐縫弌璽垢伐鮗瓩靴討い(※3)

                    狩野派のテイストを再現できるほどの画力がありながら、「それでは禅の本質が伝わらない!」とゆる〜い禅画を描いた仙僉
                    見ている人が絵の内容に関心を持たないことを懸念した考えに、仙僂禅僧であることを強く意識させた。

                    会場片隅のパネルで紹介された、参考資料の想像の豹は迫力がある。
                    それは小さな画像にもかかわらず、細密な描写が見て取れる。
                    なぜ画才に重きを置かなかったのか……
                    欧州の画家たちとは違う発想に、私は驚かされた。

                    ヘタウマ絵

                    仙僂發修鵑文遜な姿勢から禅画を描いていた訳ではなさそうだ。

                    《龍虎画賛》は、龍虎図からイメージされる迫力からは程遠い……その上ご丁寧に、龍図には 是何曰龍 人大笑吾亦大咲(これは何かと問われ龍だと答えたら、大笑いされ自分も一緒に大笑いした) 、虎図には 猫乎虎乎 将和唐内乎 (猫か虎か まさに和唐内(※4)か)という賛まで添えられている。

                    酒の肴?か、商人が幽霊画を床の間にかけて招いた客人を驚かせて楽しんだように、自身の絵を笑いのネタにしていた。

                    収集品

                    神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界展』でのルドルフ2世の蒐集癖に驚かされたが、仙僂發泙燭舛腓辰箸靴進舒Α⊆集癖があった模様。
                    もっとも、ルドルフ2世とは違い、珍しいものは何でも集めるという支配的なものではなく、会場に展示されていたものは、愛着を持った道具といった風だったが。

                    独自の美意識で集めたものは、茶碗や不思議な形をした自然の石をそのまま硯として使ったというものまで。

                    仙僉壘載竸沺

                    「やほよろづ」への愛情は、仙僂さまざまなモノを愛したことにも繋がっているははずである。
                    変わった形の石や貝、あるいは硯(すずり)や落款(らっかん)、矢立(やたて)、茶碗、茶碗箱なども、仙僂歪垢いとおしむように使い、触り、また眺めていたものと思える。「豊侈(ほうし)を尊ばず」と自ら書くように、それらはけっして高価なのではなく、むしろ珍奇なのだ。こうした趣味と、権威を求める傾向は、私の経験ではけっして両立しない。

                    仙僉〔桔,料』p.117

                    仙僉覆擦鵑い) 無法の禅

                    その極みは展覧会会場の最後に掛けられていた。《涅槃図》はその名の通り、仏陀の涅槃図に擬(なぞら)えた自身の今際。
                    身近な人々と大好きな物品に囲まれ、悲しみよりも、ここでもまたユーモアが溢れる。
                    年齢だけでなく、人生そのものが大往生だったんだな……と思うと、微笑ましい。

                    1. 映画『メッセージ』 | オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ
                      http://www.message-movie.jp/(2018/12/2確認)
                    2. 仏塔・五重塔・塔婆
                      http://tobifudo.jp/newmon/tatemono/sutupa.html(2018/12/2確認)
                    3.   中山喜一郎監修『仙(せんがい):ユーモアあふれる禅のこころ (別冊太陽 日本のこころ)』p.109
                    4.   近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」の主役・和藤内のこと。
                      和藤内が、日本人でも中国人でもないとうそぶくことになぞらえている。また和唐内が「わからない」とも読めるという洒落も入っている。
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                      JUGEMテーマ:日々徒然

                      登録してから1年半くらいしかお世話にならかったが、サービスが10月に終了した。

                      JUGEMブログはタグクラウドが実装されていない。
                      長くブログをやっていると自分のblogにどんな傾向があるのか知りたくなり、キーワード分析が面白かっただけになくなってしまうのが残念だった。
                      ……といっても、基本偏ったテーマしか上げていなかったのだけど。

                      blogramでの解析

                      登録してからの集計だったので、映画と展覧会しかない。 昔の記事とか含めてくれたら、また変わったのかも知れない。
                      何気に「エヴァンゲリオン」が抽出されているし。

                      • このところ、映画と展覧会の感想ばかり書いていたので、そのキーワードばかり大きいw
                      • 出かける所が美術館だけになってる…おかしいな、博物館も行っているのにww
                      • 芸術鑑賞は、結構、頭を使っていると思っているのだが、blogramの分類ではそうではなかった……(他ブログを拝見すると、PCとか資格の話がそれに分類されるようだった)

                      他の人のブログを拝見して、このキーワードの種類がいつか増えるのを楽しみにしていた。
                      ……キーワードをどう含めるかで変わったと思うけれど。

                      始めた当初は3日坊主で終わると思っていたこのブログ、気づけば10年経っていた……
                      このブログは、私の外部記録媒体と知の集積場として今後も更新されていくと思ってる。

                      多分、JUGEMが存在する限り。

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                      大人向けダークファンタジー。
                      しかし、子供の頃を思い出させるディティール。
                      現実と幻想、決して交差せずとも互いに影響しあう。
                      そこで彼女は何を得るのか。

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