映画『グリーン・インフェルノ』感想――カール・ホフマン『人喰い』に寄せて

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    JUGEMテーマ:Horror

    グリーン・インフェルノ【期間限定価格版】[DVD]

    公式サイト:
    http://green-inferno.jp/

    よくあるゴア・ホラー。

    同時に、あらゆる抗議活動に関する冷笑とも受け取る映画だった。


    あらすじ

    国連に勤務する父を持ち、人権問題に関心がある大学生・ジャスティンが(色んな人権問題?の抗議活動に参加している)活動家・アレハンドロの活動に参加する。
    彼らは南米ペルーの未開の熱帯雨林で、地下天然ガスを狙う会社が開拓を始め、原住民・ヤハ族の暮らしが脅かされているのを防くため、現地で開発業者の不正を暴き、ネットで世界に発信することを計画し、現地に赴く。活動は一定の効果を上げるが、そのための過激な抗議活動(パフォーマンス)は問題視され、強制送還されることになる。
    しかし、帰路につく彼らが載ったセスナ機にエンジントラブルが起こり、熱帯雨林に墜落してしまう。生き残った学生たちを助けたのはヤハ族だったが、ヤハ族は食人族だった……

    考察

    自分たちが生活している世界から遠く離れ、言語も文化も異なり、(衛星経由を抜きにして)スマホも使えない密林という場所――異界――を舞台にしたものと言える。
    隔絶され、幽閉された状態や迫る危機をどのように対処するかの冒険譚的な要素や、ゴア表現の多様さが“見せ場”だが、ゴア表現と食人シーンがこのホラー映画の恐怖ではない。

    怖いのは幽霊や化け物ではなく生きた人間……それも文明人だと自負している人間の悪意だった。

    過激な抗議活動の最中、命の危険に晒されるジャスティン。それは国連勤務の父を持つジャスティンが窮地に追い込まれることを撮影し、ネットで公表することで世界から注目されることも目的だった。自分がダシにされている事に気づいたジャスティンはアレハンドロに不信感を募らせる。

    赤 ――ヤハ族

    映画の宣伝も、恐怖は彼ら食人族のヤハ族であるように見せかける。しかし映画本編でヤハ族の描写は、人間を凌駕する力を持つ圧倒的な自然中での“営み”を強く意識させる描写が多かった。
    人体の解体ショーのシーンを抜きにすれば、ヤハ族の人々は、獲物を調理し共同体で分けあう普通の生活描写だった。

    白 ――ジャスティン

    ホラー映画にはいくつか“お約束”があるが、「処女は死なない」というものがある。
    割礼を施されそうになるのも、そのフラグを強調する。それらはジャスティンの“無原罪”、潔白を象徴させる。(赤いペインティングを施すヤハ族の中で白が神聖さを強調する狙いもあると思う。)

    川で罪人を地獄に送るという神聖な動物である豹が彼女を襲わなかったことで追跡を止めるヤハ族。実際、彼女は誰も殺していない。

    ジャスティンがヤハ族の食人文化を告発しなかったのは、パフォーマンスとは違う活動があることを世の中に示したかったためなのか、ヤハ族とアレハンドロをアマゾンに閉じ込めておきたかったからなのか……

    黒 ――アレハンドロ

    日常生活の描写を見せられたヤハ族を悪魔的に見るのは少し難しい。しかしアレハンドロは悪意そのものとして映る。

    ヤハ族に捕らわれ檻に入れられた学生達が、メンバーのひとりがが喰われるのを目の当たりにし、脱出する方法について検討していると、アレハンドロが衝撃の事実を告白する。活動はただのヤラセで、開発を妨害した企業のライバル会社から多額の報酬を得る約束をしていた。自然保護と現住民族の生活(人権)を守るというのは建前だった。そして3日後にはそのライバル会社がここに到達するであろう事……。

    脱出のために男性陣が背に腹は代えられない検討をする中、マスターベーションに耽っていたり、さらにヤハ族の檻から脱出し助けを呼びに行く際、アレハンドロは一緒に残ったラーズを負傷させる。自分が先に食べられないようにするために。こうした行為にアレハンドロが悪意の象徴であることを決定的にする。

    アレハンドロだけが最後まで喰われない。字幕ではヤハ族の会話には「神からの贈り物だ!」という言葉以外、字幕が当てられていないのだが、その言葉から鑑みるに、喰われず、ジャスティンのように(されてないが)通過儀礼を受けなかったアレハンドロは神からの贈り物ではない、ということか。

    映画冒頭アレハンドロが語る「衛星写真でしか見れない先住民族」が映画中盤から恐怖の対象だった訳だが、それを想起させるように彼自身が衛星写真に写り込んでいる。こちらを睨みつけて。身体は黒い影に覆われているなかで顔が浮かび上がり、その目が白く鋭く光って見える。

    におい(臭/匂)

    ヤハ族の村で、捕らわれた活動家のメンバーは一人、また一人と喰われていく……
    最初の犠牲者が調理されているとき、「匂いがする――友達が調理されてる」と呟く。その字幕は不快な“臭い”という表記ではなく、美味しい、香ばしい事を指す“匂い”であることが興味深い。

    その時、あまりの恐怖からか牢に囚われているメンバーの女性は便意を訴え、檻の隅で腹を下してしまう。その音と“臭い”に顔をしかめるメンバーたち。

    それをヤハ族の子供たちが嗤い、部族の人々が「臭い、臭い」と自分たちの鼻の前で手を仰ぐジェスチャーをする。

    この匂いの対比が立場の逆転を如実に物語る。

    だいたい人間が耐えられないほどの悪臭というのは、糞便か遺骸が放つ臭いに大別でき(※1) るという。

    にもかかわらず、食人を行うヤハ族が調理した遺骸のにおいは良い「匂い」で、被害者であり生きている人間の生理現象である排泄が嫌な「臭い」。

    ペルーの熱帯雨林の開発現場へ向かう途中立ち寄った、欧米的な設備と衛生管理が行き届いたレストランの描写から、自覚は無くとも自分たちの文化が進んでおり優位であると認識していた彼らは、それが存在しない世界で(文明の進歩から取り残され遅れていると認識し、無自覚に見下していた文化圏で)下賤な存在になってしまう。

    映像では伝わらないにおいの表現を、音や周りの人間の感情表現で観客に伝えることも、意図的に仕組んである対比がとても興味深かった。

    ロックフェラー失踪事件

    この映画を見たいと思ったのは、カール・ホフマン『人喰い』を手に取ったため。

    人喰い (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズIII-8)

    ロックフェラー失踪事件(※2)は、オランダ領ニューギニア(1961年当時)で、当時首狩りの風習が残っていたアスマット族の研究と現地の工芸を収集していたロックフェラーの御曹司・マイケルが消息を絶ち、大規模な捜索を行なわせたが発見出来ず行方不明となった事件。
    しかし、当時から一部で「首狩り族に殺され食べられた」と言われていた。

    この本は事件の真相を追求するサスペンスではなく、現地のフィールドワークが主体だった。
    しかしそれに並行して、当時の報道や証言――うわさ話や現地民の動向などの記録――を調査し、“誰が”という断定はしないものの、マイケルはアスマット族の部族のひとつ、オツジャネップの戦士に食べられた確信を強くする。

    第二章の冒頭から、いきなりマイケルがどの様に殺され、解体され食べられたかが描写される――具体的な事実の証言を基にしているというよりは、他の習慣としての証言や記録にある手順を基にしている。

    それと『グリーン・インフェルノ』の食人描写はフィクションなので手際が悪く、違和感にしか見えない。大して抵抗もせず四肢をもがれ、ビクビクと動く描写は嘘っぽさを強調していた。(すごい言い方かもしれないが、リアルじゃない故に私はゴア描写を安心して見れる。)
    最も、そのフィクション性がゴア表現の醍醐味なのだが。

    人喰い』で描写されたカニバリズムは、宗教的な理由であるためか食べる部位は決まっていて『グリーン・インフェルノ』のように全てを無駄なく食べる訳ではなさそうだった。

    カニバリズム

    ゴア・ホラーのギミックとして使われるカニバリズム。
    食物連鎖の頂点であると認識している人類が、同族に捕食される。蛮行と片付けられない事実が現実社会にはある。

    BSE問題から、カニバリズムで人間のプリオン病が発生して部族存続の危機になってしまうのでは?と思ったが、必ずしもそうとは言い難いようだ(※3)……

    カニバリズムの動機は大別して飢饉などによる極限の飢餓、性的欲求、究極の美食、そして宗教的理由がある。

    人喰い』では欧米社会とは異なるアスマット族の“宇宙観”から、彼らがそれに基づいてマイケルを“殺ろし、食さねばならなかった”事を指摘する。

    アスマット族には、報復による因果応報ともいうべき“円環”の概念があり、オランダ植民地下であった当時、原住民殺害に対する白人への不満と怒りがくすぶっていた。そして部族の通過儀礼として敵を殺す(そしてその遺体を解体、一部を食し、骨は戦利品兼武器にする)習慣があった。これら2つが絡み合い、ある時、偶然その場に居合わせた白人のマイケルに白羽の矢が立った……

    それを知らない(自分で知ろうともしなかった)ロックフェラー家の御曹司は、自分が属する欧米社会の価値観をそのまま持ち込む。
    金にモノを言わせれば大概の事は解決する、自分に不可能は無いという尊大な思いを胸に、その価値観が通用しない世界に。
    マイケルの身に起こった出来事はまるで、自分自身、個人の力でもない金の力に頼る傲慢な御曹司が自業自得で身を滅ぼしているようにも思う。

    この自分の所属する価値観の尺度の違い、その本質を知りもせず勝手に近づくことによって身を滅ぼしてゆくところが、『グリーン・インフェルノ』と『人喰い』の恐怖――後味の悪さ――、それは問題提起だった。

    抗議活動は何のため?

    『グリーン・インフェルノ』の描写で、観光客向けのレストランの前で現地の人達の様子を見た活動家のメンバーの女性は文句を言う。
    「シートベルトも無いバイクに子どもを乗せるなんて児童虐待だわ」
    現地の事情をよく知らず、自分の文化や生活環境を基準に相手を非難する。そこに見え隠れする優越感――自分は相手の悪しき習慣を是正しに来た正義の人である――という、相手を見下した姿勢がある。

    ドキュメンタリー映画『おクジラさま』で、他に産業も少ない大地町の人々と自分たちの価値観を押し付けるだけの捕鯨反対の活動家との討論会のシーンがある。
    土地の事情(農作物を作るのに適さない土地、物流も限られ高コストになりかねない)も知らず、ただ「捕鯨は悪だ!反対‼」と叫ぶだけの活動家人々に辟易した大地町の人は言う。「大地町のことは大地町で決める」と。
    過激な活動は結局のところ自己顕示欲のパフォーマンスに過ぎないと理解した。

    『人喰い』は対照的で、著者は“現地の人々との交流、生活習慣に入り込んで”いった。
    著者はその全てを肯定はしないまでも、アスマット族の宇宙観を理解することで、彼らの信頼を得、彼らは事実を語らないまでも、真実に繋がる片鱗が語られる。(さらに著者は当時のニュースや調査資料にも目を通し裏付けをとってもいる)

    テロでしかない過激な抗議活動も、現地でもない場所でのデモも、「それは一体“誰(何)”のため?」かと、自問させてくれる映画だった。

    1. 一条真也『香をたのしむ ―ハートフルフレグランスのすすめ』 現代書林 2010 p.49

      香をたのしむ ―ハートフルフレグランスのすすめ (日本人の癒し4)
    2. マイケル・ロックフェラー
      https://ja.wikipedia.org/wiki/マイケル・ロックフェラー
    3. なぜ共食いする生物がいるのか? カニバリズムのメリットとデメリット - ログミーBiz
      https://logmi.jp/business/articles/240662
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    映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』感想

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      JUGEMテーマ:映画

      映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ1

      公式サイト:
      https://godzilla-movie.jp

      良くまとまっていたと思う。ジェットコースターのような怪獣バトルのオン・パレードで、飽食気味になったけど……

      20年前に日本人が見たかった“GODZILLA”だった。
      90年代のアレは破壊光線を吐かなかったこともあって、"GOD"を取って”ZILLA”と揶揄されているけれど……(当時の価値観でのリアル路線と怪獣“パニック”映画の定番設定だったけれど)

      !!一部、ネタバレあり!!


      ゴジラ』へのリスペクト

      どこまでも東宝の歴代『ゴジラ』へのリスペクトだった。
      日本ゴジラが歩んだ道を踏襲している。すなわち、初代『ゴジラ』が反戦・反核の意味を込めた怪獣スペクタクルであったものの、時代の変化を受けて次第に対決モノと化し、大人向けから子供向けになったことも含めて。ただ、今作は子供向け(幼稚)にならないように配慮されていると思った。

      前作、ギャレス・エドワーズ版『GODZILLA(以下、『ギャレゴジ』)が現実世界寄りだったが、今作は完全にフィクション寄りを強くしていた。
      怪獣の調査機関に過ぎなかったはずのモナークの規模が実は大きく、前作での時間軸での事もあって資金が潤沢になっているようだった。大規模な研究施設を持っていたり、洗練された大型ステレス爆撃機を持っていたり……後付け設定で、実は今までシェルター作っていたなど。
      前作の雰囲気から突然の変容ぶり――フィクションっぷり――に驚きつつ……それを当然のようにキャラクター達は動き、俳優たちは演じていた。

      『ギャレゴジ』よりも家族関係のやり取りを描き、ファミリー層向けのような描き方だったが、昨今の社会における家族関係の問題をクローズアップしているとは言い難く、添え物程度のものだ。主軸は怪獣たちなので、致し方ない。人間は完全に脇役だった。

      映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ2 - RODAN映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ2 - MOTHRA

      怪獣たちのキャラクター設定も然り。意思の疎通があるのか無いのかわからないゴジラが、シリーズ化して次第に擬人化されたように。
      人間とのコミュニケーションを取るものや、目が合って敵意を向けるものなど。個体の特徴にも現れていた。

      私はアニメ版映画『GODZILLA 星を喰う者で、このハリウッド版ゴジラにおけるモスラが、東宝ゴジラのように大地母神的な性格持ち合わせてないだろうと予想していた。しかし今回のハリウッド版ゴジラはそこをちゃんと意識して、女性原理的な存在として描写していた。(そのため作中で"She"と性別が固定化されてしまっていたが、これは言語的に仕方無いのかも知れない。)

      これはいつかのようにスライディング土下座しなければならないレベル……
      ⊂(゚□゚*⊂⌒`つ≡≡≡

      ギドラもといキングギドラは言わずもがな……絶対的な“敵対者”。設定的に古代の巨大生物ではなく、宇宙から来た“部外者”であり、侵略者という位置づけ。欧米的な聖書の赤い竜(悪魔)の要素を被せていた。……顔は比較的東洋竜なのに。

      ラドンは『三大怪獣 地球最大の決戦(1964)』のように、ゴジラ、モスラと共闘することなく一体でギドラに挑み(おそらく敗れて)ギドラの子分になっていた。
      個人的には、メキシコ上空をラドンが飛んだ時、通り過ぎた後に人家が暴風に巻き上げられるリアリティに圧倒された。(※1)

      終盤の見せ場での“バーニングゴジラ”……歩く度に周りが熱線で融解しているのを見ると、アニメ版映画『GODZILLA 決戦機動増殖都市の赤線ゴジラだった。

      さらに初代『ゴジラ』でゴジラを斃した兵器オキシジェン・デストロイヤーまで出てきた!

      往年のファンにはたまらない濃縮ぶりだった。


      そうした諸々のリスペクト描写が詰め込まれて面白かった。私が特に気になった、原水爆の描写と音楽に表現されたゴジラについて、したためておく。
      物語の感想というよりは、今作を見て『ゴジラ』という映画、存在についての考察と感想になってしまった。

      "GODZILLA"と原爆 ――日米の認識の違い

      ゴジラが戦争、自然災害、何よりも原水爆の化身であるという見方は、多くの人が共有していると思う。
      『ギャレゴジ』はその意図を汲んで、“原爆を怪獣に使わせない”(海上で爆発させたけれども)という表現をした。

      今回は原爆をゴジラに使う。ただし斃すためではなく活力をあたえるために。

      原爆核の平和利用としての原発……戦後の未来志向・平和志向のオマージュとしてだろうか。しかしチェルノブイリ、スリーマイル島そして福島のこともあり、不測の事態に陥った時の悪影響の大きさ、場合によって長期にわたる環境への影響が認識されるようになると、その楽観は幻想に過ぎないという現実を突きつけられた。

      オキシジェン・デストロイヤーは対怪獣兵器の域を出ず、初代『ゴジラ』のような核兵器以上の兵器とは位置づけられていない。

      『ギャレゴジ』で父の形見である 8:15で時を止めた懐中時計を見せ反原爆を暗示した茅沢博士が、ゴジラを蘇らせるために原爆で死亡する……
      ついでにゴジラの寝床であった海中遺跡も破壊して。初代『ゴジラ』におけるオキシジェン・デストロイヤーと共に初代ゴジラを葬った茅沢博士へのオマージュだろうが、反原爆の茅沢博士を原爆で引導を渡すのはどう解釈したら良いのだろうか……?

      その答えとなりそうなことが、池田淑子編『アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ』にあった。

      ハリウッド映画の「原子怪獣現わる」(The Beast from 20,000 Fathoms,1953)や『放射能X』(Them! 1954)などに現れる空想上の生物がその好例である。しかしながら、アメリカ人は、核に対する不安を処理するには、深刻な反省というよりも、現実逃避の空想を好み、それによって核兵器をめぐる道徳的責任を回避しようとしたのだった。

      池田淑子編『アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ』 2019 p.47

      第二次世界大戦の終結をもたらしたとしても、アメリカでは原爆の下の惨劇―― 戦場ではなく非戦闘員がいる ・・・・・・・・・・・・・ 街ごと焼き、人々が火の海を焼けただれた皮膚と出血が止まらない状態でさ迷い歩いていたことは伏せられていた。
      それは戦後も続き、核に関する検閲があったことが伺えた。
      そのため、制作された映画や広告では、原水爆の爆発による破壊力、放射線による健康被害について言及するシーン描写は不自然に避けられていたらしい。
      それらを無視して、原子力の平和利用……原発の効率的な発電から得られる電力の恩恵をクローズアップしたような描写が多いのだ。

      実際、マーベル・コミックスおよびその実写映画の『ファンタスティック・フォー』も宇宙線(放射線)を浴びたことで超能力を身につけている。

      原爆投下後のきのこ雲の下の惨状、放射能の後遺症についてなど、アメリカ映画で描かれている事は殆どない。強いて言えばジェームズ・キャメロン監督映画『ターミネーター2』でサラ・コナーが見た――未来のヴィジョン――公園で遊ぶ母子たちが一瞬で炎に包まれ灰と化したヴィジョンくらいだろう。

      今作で原爆の爆発をもってゴジラが活力を得るのは、アメリカ視点の延長に過ぎないと、私は思った。
      そもそも核エネルギーをゴジラが得るために爆発などさせる必要はなく(火薬いらない)、原爆の放射性物質を経口摂取させれば済む話のはず。
      爆発させたことで海中に沈んだ古代遺跡、ゴジラの寝床は無くなってしまう(この展開は東宝ゴジラにもあったはず)。ゴジラにとっても迷惑な展開である。

      映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ2 - GODZILLA映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ2 - GHIDORAH

      "GODZILLA"の音楽

      興味深かったのは音楽。
      重要なゴジラ復活のシーンで、伊福部昭氏の往年のテーマソングが流れた瞬間の、高揚感……!
      初代『ゴジラ』のテーマと比べて、テンポが速くオーケストラの厚みが増しているのは、今風のアレンジだが。
      怪獣たちの個性を表している。往年からのゴジラテーマ然り、モスラの歌は言わずもがな。ラドン、ギドラにも主要怪獣たちには各々のテーマ曲があった。

      映画『シン・ゴジラの感想でも書いたが、『シン・ゴジラ』の音楽を担当した鷺巣氏は「伊福部氏の音楽を超えることはできなかった」と言っていた。そういった理由というより、往年の(特に日本の?)ファンのためにそこはあえて崩さなかった、が理由だとは思う。『ギャレゴジ』では、独自のテーマ曲があったのだから。

      マーベル映画『ブラック・パンサーでもアフリカン・ミュージックを取り入れていた。トレンドと言えばそこまでだが、日本や、特に中国での興行収入を念頭に置いた時、東宝『ゴジラ』へのリスペクトを念頭に置かないと失敗するということがあったためだろう(※2)。

      そのためか、音楽――曲というより「音」――に日本的なるもの、アジア的なものとして含まれていた。
      シリーズを代表する3体の怪獣……ゴジラには日本のお囃子が重ねられ、モスラには中国の弦楽器の音が加わっている。そしてギドラには読経が重なっている。

      配給元のレジェンダリー・ピクチャーズに中国資本が入っていることもあって、小美人が中国人女優(研究者役)に置き換わっている事、インドネシア語?の歌詞は無くなり、架空の南の島ではなく雲南省にいるの事を、私は残念に思う。架空のその島は、ビキニ環礁を彷彿させるものだから。

      ギドラのテーマソングにベースとして組み込まれている読経は般若心経だった。
      その上に重なる、不穏なものの来訪を意識させるオーケストラによって、悪魔的になっている。
      葬式で読経されること(そこからジャパン・ホラー、怪談のイメージに?)、平坦な音階から、力強いお囃子の対として採用されたのだろうか?
      ギドラは般若心経の意味(※3)……救済や悟りとは対極に位置する存在なので、そこに違和感を覚えた。

      エコテロリストの存在

      少し話は逸れるけれども……エコテロリストについて。
      映画『ジュラシック・ワールド』の感想で私は、終盤の少女の行為に“エコテロリスト”という言葉を使ったが。この映画は直接的なテロリズムをするエコテロリストを描いていた。

      映画では「地球を守るため、怪獣を呼び起こし、適切な管理化で人間を減らす」という大義名分を抱える過激思想連中が現れる。
      現実の世界では、怪獣がいないだけで人間を攻撃することで自然保護を訴えるエコテロリストたち。
      環境問題、野生動物保護などの大義名分を掲げながら、その実やっていることはパフォーマンスの域を出ず、選民思想の延長で対立する相手を“自分より劣った悪い人間”として相手を非難している。

      エコテロリスト問題はハリウッド映画のトレンドなのだろうか……?2008年に“THE COVE”がアカデミー賞を取り賞賛されたが、シー・シェパードの代表ポール・ワトソンはICPOの国際指名手配犯となっている(※4)。その事と関連があるのではないかと勘ぐってしまう。


      怪獣たちと人類の共生はあり得るのかという未来への不安――次作への余韻――を残し、物語は終わる。
      エンドロールには怪獣たちの襲撃の後、怪獣たちが何をもたらしたのかを情報媒体を通して表現していた。それによると怪獣が破壊した後の場所では自然が回復している(うろ覚えだが、怪獣の糞が良い堆肥になるとか……)。
      エコテロリストの事も含め、環境問題を意識しながら手をこまねいている人間の無力さを揶揄しているのだろうか。
      映画『パシフィック・リムのKaijyuがその強酸性の青い血液で環境汚染をもたらす描写があったオマージュのようにも受け取れた。

      また、映画『キングコング』の舞台だった髑髏島に怪獣たちが集結している事が語られ、『ゴジラ vs キングコング』への布石があった。
      縄張り意識か誤解が発端になって、対決するのだろうけど……優劣を決めるような決着をつけるのは憚られると思う。
      破壊光線を出すゴジラに、道具を使えるけどコングは不利だと思うし。1962年公開の『キングコング対ゴジラ』は日本版では引き分けをにおわせ、アメリカ版ではナレーションでコングの勝利を宣言しているけれど。
      エンドロール後のギドラの首のこともあるので、ゴジラとコングらは共闘しそうな予感がある。

      1. モスラが羽ばたくと、猛風が起こる!|空想科学研究所 x 巨影都市|巨影都市|バンダイナムコエンターテインメント公式サイト
        https://knst.bn-ent.net/kusokagaku/articles/article03.php
      2. 【北米興行成績】『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が期待を下回る興収でトップに ( 2019年6月4日)
        https://jp.ign.com/godzilla-2/35907/news/

        日本と中国で大ヒット、アメリカで苦戦 ハリウッド版『ゴジラ』最新作の興行を読む|Real Sound|リアルサウンド 映画部(2019.06.06)
        https://realsound.jp/movie/2019/06/post-370655.html

      3. 般若心経の全文と意味、効果と仏教における位置づけとは?
        https://true-buddhism.com/practice/heartsutra/
      4. シーシェパード(Wikipedia / 日本語)
        https://ja.wikipedia.org/wiki/シーシェパード#cite_note-sankei-20141212-16
      参考文献
      池田淑子編『アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ
      アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ
      Pen+(ペン・プラス)『完全保存版 ゴジラ、再び。
      Pen+(ペン・プラス)『完全保存版 ゴジラ、再び。』 (メディアハウスムック)
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      映画『アリータ:バトル・エンジェル』感想 ――強調される、身体性

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        JUGEMテーマ:SF映画 一般

        映画『アリータ:バトル・エンジェル』チラシ3

        公式サイト:
        http://www.foxmovies-jp.com/alitabattleangel/

        原作がそうなので、この映画もガジェットSFだが、身体性を意識させる映画として昇華されていた。

        物語の感想というよりは、身体性についての考察。


        映画宣伝のポスターでも、目を強調したアングルの宣伝が多かった。その際立った特徴。
        不気味の壁のようなものかと思ったが、見ているうちに払拭される。
        原作に忠実に再現されている訳だが、もっと異なる意図があるように思えた。

        その大きな目だからこそ、幼さ、少女性が際立つ。

        身体性

        少女――球体間接人形

        アリータが当初与えられる、エングレービングが施された白いボディは、球体関節人形のような白く線の細い身体。
        エキゾチックな紋様が施された、神秘的なものだ。
        元はアリータを拾った医師・イドの亡くなった車椅子の娘のためのものだったためか、非常にか弱く少女的なものだった。

        四谷シモン、天野可淡ら……最近のものではスーパードルフィーなどを想像すれば良いだろうか?
        球体関節人形の可動性を持たせる関節の切れ目は、そこから解体できることを強調し、脆さ、儚さを暗示させる。
        また、この可動性は(モーターとか、内部に仕込んでいないこと前提にすると)外からの力によって動く。
        そこに介助を必要とした少女の面影、あるいは親の庇護を必要とする子供のイメージがある。

        戦闘に向いたものではなかったため、敵役・グリシュカに破壊される。

        成熟した女性――バーサーカーボディ

        300年前の地球と宇宙戦闘艇で導かれるように発見したバーサーカーボディ。アリータのためにある身体だった。

        ボディだけの状態だと男性的な身体つきをしていたものが、アリータの頭部を付けると彼女の身体に合うように女性的に変化する……
        両性具有的な表現にも惹かれた。

        元々、原作『銃夢』で主人公の名前はガリィ。
        ただ、英語圏での商業展開の際に"gully(雨裂)"になること、男性的な響きの名前であるため、“アリータ”に変更されたという。()
        そういう点では、本来の両性具有的な意味合いが暗示されているようで、私は納得してしまった。

        バーサーカーボディを得たアリータの力強くしなやかな動きは新体操そのもので、身体の筋力の強さ、柔軟さを見せる。
        球体間接人形の、動くこととはまた違う感動があった。
        球体間接の身体はイドの娘(私ではない誰か)の身体であり、アリータ自身ではない。それがようやく本来の身体(自己の主体性)を獲得する。主体性の獲得のヴィジュアル化とも解釈できる。
        これをアリータの少女から大人の女性への変化ともとれる。未熟でか弱い少女が、イド(保護者)の庇護から離れる、成長の瞬間だった。

        映画『アリータ:バトル・エンジェル』チラシ1

        敵役の“身体性”

        もう一つ興味深いのは、アリータの敵役たち。

        典型的な悪役(ワル)を想起させるキャラクターが勢ぞろいしているのだが、興味深いのは、その“改造”を強調した造形だ。
        アリータとイドが冒頭で遭遇する、チャッキーのような顔の男、蜘蛛女など。人間というよりはバイクのような形をなった極端な者もいるが。彼らは総じて身体の一部が強調されている。

        彼らの改造や一部部位の強調は、現実世界にも見られる。タトゥーや極端な例では人体改造(舌を蛇のそれのように整形する事例)など。広義には美容整形も含められるかも知れない。

        ハンター・ウォリアー(治安維持を名目とした賞金稼ぎ)のライバルであるザパンのサイボーグの背中にある意匠はタトゥーにありそうな柄だった。

        それは変身願望に自己実現だ。
        自信があることを強調、誇張すること、相手に見せたい自分、劣等感のある部位を切り離す、なりたい自分になる……そういった個々人の様々な感情を実体化させる行為と言える。
        そう考えると、悪役の個性が垣間見えてくる。

        体術

        アリータは闘争を通して過去の記憶がフラッシュバックし、 機甲術(パンツァークンスト)と呼ばれる体術を体得していた戦士だったことを知る。
        その動きにヨーガ、合気道、アジア圏の武術を想起する。

        体術に相手の急所を的確に突くイメージを抱く。短絡的に、それを実行できるのは自分の意思で身体をを制御する術を心得ているからと考える。

        身体をコントロールできることを、私はかつて、意思によって身体を制御しているからと考えていた。その極みが体術だと。

        そのイメージを、『銃夢』然りマンガやアニメを通して多くの人は共有していたように、私は思う。
        究極的に研ぎ澄ませれば、身体の苦痛や限界を超えられるのではないか、そもそも超えられる身体さえあれば己の志は実現できるのではないか、と。

        到底生身にはありえない様相を見せて読者の潜在的な願望を満たす。手足の損傷は意に介さず、上半身だけになっても攻撃をやめないその闘争の意思は、私たちが常に願う、意識の身体への優先を映像化したものと言える。幾重にも保護された脳だけが自己でほかの身体部分はすべて「乗り物」という場合、彼は脳以外の身体損傷を恐れる必要がなくなる。そして意志のために身体を犠牲にできる者には、かつてヘーゲルが『精神現象学』で告げた死を恐れない「主人」の特性が見え始める。
        それは超越の映像化なのだ。またそれは生身の身体の呪縛から解放されることへの夢とも言える。

        高原英理『ゴシックハート』2004 p.96

        ゴシックハート

        唯脳論

        『銃夢』が描かれた90年代頃まで、人体の解釈は脳が司令塔でありトップダウン形式で他の臓器に指令を送っているものと解釈されていた。
        SFの世界でも「脳さえ維持できれば人間は半永久的生きる」あるいは「ハイスペックなボディに変換し生身の人間を凌駕する兵士を生み出す」……という設定は枚挙にいとまが無い。士郎正宗『攻殻機動隊』もその一つだ。
        だが、現代の医学は懐疑的になっている模様。
        昨年のNHKスペシャル シリーズ「人体」では、メッセージ物質と呼ばれるタンパク質を介して、臓器は相互に影響しあっていることが取り上げられていた。
        ……つまり人間は、脳だけで物理的に生きられても、脳以外の臓器からの刺激やメッセージ物質が無いと“生きられない”のではないか?

        アリータのボディの換装は、漫画やアニメでは意志の身体の超越を意識させたが、この実写映画では意味が転じたように思えた。CGで再現されたリアリティを伴い、身体の重要性、必要性を強調しているようだった。

        身体の必要性

        『アリータ』における身体は『銃夢』のものとは真逆の価値観のように思える。

        義体のモノ化(取り換えがきく身体)ではなく、少女の成長を暗示させ、滑らかな動きで生身以上に身体の存在感を映像で強調しているようだった。
        体術もまた、身体を鍛えることで己と向き合い、心身を整える要素のひとつとも考えられる。

        押井守『ひとまず、信じない』でも、空手をするようになって、身体が心に影響を与えることを実感した旨を語っている。

        僕の若いころは、人間にとって一番大事なものは意識であり、首から上だけが重要だと思っていた。だから、究極に深化した人間は、自己を決定付けるものとしては脳だけがあって、体は機会に置き換えることが理想のようにも思っていた。
        その究極の形が『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』現れる登場人物たちである。ただ、作品ではその意識ですら自分のものであるのかどうかがあいまいになっていく。機会に置き換わった自分とは何者かという思いテーマに向き合うことになった。
        だが、空手を始めて、肉体を鍛えることを知ってからは、肉体こそが意識をコントロールしていることを感じるようになった。

        押井守『ひとまず、信じない - 情報氾濫時代の生き方』2017 p.37

        ひとまず、信じない - 情報氾濫時代の生き方 (中公新書ラクレ)

        それは自己の回復、ではなかろうか?

        アリータはイドに発見された当初、自分の名前も、何者かもわからずにいた。
        与えられた白い義体から、本来のバーサーカーボディを得て、本来自分が目指していたことを思い出す。

        前述の『ゴシック・ハート』において、『銃夢』『攻殻機動隊』人体改造やサイボーグ化が、肉体の限界という呪縛を超越という羨望があることを指摘していた。それは巡り巡って身体への情景に立ち返る。
        それが90年代と2010年代の時代の変化だと実感する。

        思えばジェームズ・キャメロン監督作品でも『ターミネーター』シリーズは、機械の身体という生身の人間を“圧倒する”存在と対峙する。(最終的には生身の人間が勝利するが)
        それが映画『アバター』では人造の生体を通して、戦争で負傷し下半身不随した兵士が活躍する。
        『アバター』では身体を通し、五感で感じることに重点を置いた描写、それを通して主人公が生きる力を取り戻すような描写が多かった。

        身体の必要性は食事の描写にもうかがえる。
        90年代ごろの遠未来設定にありそうな、たとえば脳に必要な栄養素の摂取を栄養剤で行っているような描写は無く、人間らしく経口摂取によって、生のオレンジやチョコレートなどを食している。
        “味覚”という、身体でしか感じることができない“五感”のイメージを刺激させられた。

        単純に私たちが普段から目にして食べているものを描写することによって、鑑賞者が共感しやすくしているだけかもしれない。
        その描写が必要なのは、ジブリ映画において食事の描写が生身の人間への生きることへの想起であるのと同じ描写だと、私は思った。

        身体を維持し鍛えることで整えるという、生身の人間でも必要なことが強調されている。

        映画『アリータ:バトル・エンジェル』チラシ2

        都市の情景

        押井守で思い出されたが、映画『攻殻機動隊』で“記憶の外部化”の延長として、映画『イノセンス』では「都市は巨大な外部記憶装置」として都市景観の描写に重点が置かれていた。

        『アリータ』では、それがより分かりやすい形で表現されていたのではないだろうか?描写された都市景観は、調和した世界の街並みの闇鍋だった。
        ヨーロッパの石造りと、トタン板で作られたスラムのような突貫工事、アジアのごみごみした街並みがさも当たり前のように混在している。
        戦争のあとの突貫工事あるいは違法建築は、世界崩壊後の混乱とその爪痕を如実に物語る。それを当たり前として人々が存在している。彼らもまた、多種多様な人種が入り混じっていた。
        人種の坩堝が都市景観として表現されていた。


        細部のクオリティも徹底的に再現、独自解釈も含めて作り込まれていたし、良作だった!

        しかし、若干時代に合わない?世界観だったかもしれない……SF的斬新さが無いという意味で。
        当然だが、世界観がどうしても2000年以前のSF……

        このクオリティで、あと5年、10年早ければ……そう思わずにはいられない。
        あ、でも10年前は『アバター』だったか……

        1. https://ja.wikipedia.org/wiki/銃夢#登場人物 > ガリィ

          https://ja.wikipedia.org/wiki/アリータ: バトル・エンジェル > アリータ

        参考文献
        【対談】押井守×最上和子『身体×義体の行方』前編 | 日本美学研究所
        http://bigaku-labo.jp/190211/talk/oshii_mogami
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        映画『ジェーン・ドゥの解剖』感想

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          ジェーン・ドウの解剖 [DVD]

          公式サイト:
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          本来、真相への手掛かりを掴むためのポジションである検死解剖が、事件の真相“そのもの”に繋がる。それが斬新だった。
          解剖して死因を究明する「だけ」のはずが、目の前にある死体が霊障の原因で、事件に巻き込まれてしまうという皮肉も。

          解釈が何重にも入れ子になっていて、真相にたどり着いても真意にはたどり着けない。
          素晴らしき密室ホラーサスペンスだった。

          物語は不可解な殺人?事件現場の地下で、身元不明の女性の遺体(ジェーン・ドゥ)が発見され、地元の葬儀屋に検死依頼と遺体が運び込まれることから始まる。

          ❗❗以下、ネタバレあり❗❗

          解剖

          今まで見たサスペンス系の映画で、検視解剖のシーンはあっても、その手順や目的について解説したものはなかった。
          実際の職業でなければ知る機会もないであろうと思っていたので、驚いた。
          同時に、知的好奇心を刺激される。

          普段、知ることがない検死解剖の手順。
          「あくまで死因を突き止めるのが検死解剖であり、推測で判断してはいけない」と監察医の父親は語る。
          そうした台詞に従事する人のプロとしての意識を垣間見る。

          しかし、あまりにも不可解な遺体、不自然な状態に、死因を特定することができず、次第に死因の解明という推理へとシフトしてゆく。

          推理

          解剖という、身体の中を開けて死因を知ろうとする行為が、事件の真相を暴こうとする行為と深く結びついている。

          “真実”を暴く“時”の格言の如く、時間の経過とともに進む解剖が真実を暴こうとするのだが、
          解剖が進むほど、周りで霊障がひどくなる。まるでパンドラの壺(箱)を開けてしまったかのように。

          爪に付着していた土や布に記述されていた記録などから、彼女はセイラム魔女裁判(※1)の犠牲者だったことが判明する。

          美しい死体

          映画『エイリアン:コヴェナンド』のショウ博士然り。ムラージュのイメージだった。
          一瞬、眠っているかと見紛うような艶っぽさ。白い肌や滑らかな肢体の美しさに色を添えるような血の赤に……それを開いて中を見る、好奇心を満たすような行為に陶酔するような……言葉は悪いが、一種の征服欲のようなものを匂わせる。それは同時に危うさ、破滅の雰囲気もある。

          美しい容姿……外皮は、生前のそれであると同時に、彼女が受けた、魔術?のような凄惨な拷問を包み隠すものだった。
          皮を剥いで真実を暴くと同時に、噴出する悪意。

          真相にたどり着ければ霊障が収まるのではないかと考えていた父子だが、むしろ悪化する。
          セイラム事件の凄惨な歴史と犠牲者の無念に思いを馳せ(これはあらゆる事件に巻き込まれた犠牲者を検死する医師たちが一度は抱える思いかもしれない)、赦しを懇願する父親の犠牲も虚しく、息子も死んでしまう。

          ジェーン・ドゥは憎悪しているのだろうか?
          それが彼女の意識なのかは判断できない。

          私には魔女裁判で魔女を封じて悪魔を退けようとして、魔女を生み出してしまったように思えた。

          一夜明け、検死解剖を行った葬儀屋では、警察官らによって現場検証が行われていた。
          ラジオで言われていた嵐があった形跡はなく、死体が歩いた形跡もない。だが、映画の冒頭にあった前日の事件現場と似た雰囲気――脱出を試みた形跡――がある。

          地域の安全を守る保安官の伝統か。
          賢明な保安官は、手に終えないと悟ったジェーン・ドゥを他の地域の大病院に送る。
          その救急車の中で、彼女の足に括りつけられた鈴の音がする。――霊障は既に始まっていた。

          音楽

          霊障が起こるとラジオから流れてくる素朴な歌。次第に不安の代名詞、霊障の象徴になる。
          冒頭で流れる耳障りなロックがかえって恋しくなるというか、元気をくれるものにすり替わっていた……

          この子供たちの楽しげな歌は"Open Up Your Heart"という、ジャズだった(1955)。(※2)
          ジェーン・ドゥと同時代(1692)の曲ではないのか……

          本来は楽しい曲のはずなのに、不気味な雰囲気にしてしまう……
          映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』で使徒と識別された参号機解体に〈今日の日はさようなら〉が使われた時の戦慄を思い出す。

          魔法陣

          ジェーン・ドゥがのみ込んでいた、自身の歯をくるんでいた布に描かれていた魔法陣。
          一瞬、 ソロモン英霊72柱の紋章にありそうな図紋だと思っていたが、それはソロモンの大鍵。魔除けのひとつだった。(※3)

          しかし何故、彼女の歯が抜かれ魔法陣を描いた布に包まれ、飲み込ませてあったのか……
          父親は彼女が受けた処遇を「拷問」と言っていた。
          だが……手足の骨を折るというのは拷問というより、死者の復活を妨げるための儀式だったように、私は記憶している。墓から這い出てこないようにするために。例の布も死後の復活を妨げる まじな いだった可能性がある。

          幻覚

          映画『オキュラス』のような幻覚作用による怪異は最近のホラー映画のトレンドなのだろうか?
          ポルターガイストをはじめとする具体的な霊障ではなく、当事者(巻き込まれた人々)しかわからない状態。

          セイラムの事件での少女たちの奇行には幻覚、すなわち“当人しかわからない現象”もあったようだ。(※4)それを踏まえているかもしれない。

          真相の解釈

          生来から魔女であったか、無実の女性であったか……多様な解釈ができる仕立てだった。ジェーン・ドゥ(名無しの権兵衛)が何者か分からないのと同様に。

          私はセイラムの魔女裁判が、無実の人々が犠牲になったという前提で鑑賞したため、ジェーン・ドゥも犠牲者であり魔女(悪意の塊)となってしまった、と考えていた。
          字幕版を鑑賞したのだが、字幕では父親の発言に「無実」という字幕が充てられていた。

          しかし、他の人の感想などを拝見すると、彼女は元々魔女であった、と考える人もいる模様。
          最近のハリウッドホラーでは、結局親玉が古代の悪魔だったりする傾向が多いので、その文脈もありうるだろう。
          記録に残っていない、セイラム魔女裁判の真犯人――魔女であり悪魔――で、秘密裏に葬られ遠く離れた地に埋められていたものが、時が経ち冒頭の事件があった家で誤って掘り起こされてしまった、という……

          どちらかは作中で明言されず、判然もしない。
          観る人によって判断が分かれる、判断を委ねられている、なかなかの良作だった。

          1. セイラム魔女裁判
            https://ja.wikipedia.org/wiki/セイラム魔女裁判
          2. McGuire Sisters- Open Up Your Heart And Let The Sun Shine In
            https://www.youtube.com/watch?v=GTGq3lnR14o
          3. ジェーンドゥの解剖 感想と解説 - シエスタ
            http://occulticsiesta.hateblo.jp/entry/2018/02/07/ジェーンドゥの解剖_感想と解説
          4. 魔女狩りで19人が処刑された「セイラム魔女裁判」の原因は幻覚剤「LSD」かもしれない
            https://gigazine.net/news/20151030-salem-witch-trials-lsd/
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          映画『GODZILLA 星を喰う者』感想

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            映画『GODZILLA 星を喰う者』チラシ2

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            http://godzilla-anime.com/

            アニメゴジラ3部作最終章。
            虚淵玄氏らしい脚本で、私は満足している。
            時代に合わせてその役割も変えるゴジラ。『シン・ゴジラ』とも当然違う。

            !!以下、ネタバレあり(というか、ほとんどあらすじ)!!

            迷信/盲信

            前作のラストで気になっていた――ハルオの味方を殺害し、任務遂行を妨害・破綻させた――ことで、移民船内が分裂する。
            ゴジラを斃す好機を失ったことを糾弾しハルオへの処罰を求める異星人種族・ビルザルト。志願兵以外の兵士をナノメタルに同化しようとした戦術の非人道さを非難しハルオを擁護する人間。
            ビルザルド側はハルオへ処罰を求め、移民船のライフラインを凍結してしまう。

            極端な言い方をすれば、どりらも正しい。
            あまりにも難しい舵取りに、船長はどちらの顔も立てれず、対処ができない。

            自分達ではもはやどうすることもできなくなり、追い詰められ絶望した人間は、もう一方の異星人である宗教種族・エクシフの“神”にすがる……

            同じ時、地球では討伐部隊の一部が、ナノメタルに呑み込まれなかったのはエクシフの“神”への信仰が篤かったため、と言葉巧みなメトフィリスに傾倒する。

            不遇の境遇に“終焉”をもたらす“神”であるという――ギドラを。

            「迷信は弱者の宗教である」という趣旨の言葉は、国や時代を問わずいくつかあったと思う。
            「救われたい」という信心が盲信となり身を滅ぼす人間たちの姿が端的に示されていた。

            ギドラ

            エクシフによって呼び出されたギドラは高次元生物……高次元からの怪獣だった。

            エクシフの目的は、ギドラを使ってゴジラを斃すことではなく、ギドラにゴジラも人類を含む自分たちをも喰いつくさせてあらゆる事を”終わらせる”ことだった。

            ギドラに遭遇した移民船は、ビルザルドがライフラインを停止させていたこともあり、離脱ができない。
            そのうえギドラによる高次元の干渉から時間がバラバラになってしまい、指揮系統が混乱する。
            リアルタイムで話していたと思っていた相手は、既に爆破に巻き込まれて死んでいた……さらにオペレーターは‘過去’となってしまった――当事者としては‘未来’の――自分たちを観測してしまう……

            「私たち……もう……死んでる……?」

            確定した避けられない過去/未来に戦慄する。

            移民船を破壊したギドラは地球にも影響を及ぼし、遂にゴジラとギドラという、怪獣同士の対決になる。

            といっても、ギドラは高次元生物。
            破壊光線は空間を歪めて軌道をずらし、ゴジラがギドラに噛みつこうとしても、まるで存在しないように透かしてしまう。
            にもかかわらず、ギドラはゴジラに噛みつきその身体を拘束して牽引する。

            ……上記、起こっている現象を私たち鑑賞者に伝えるように、ハルオと行動を共にしている環境生物学者のマーティン少佐が分析する。
            苦肉の策というか、面白い表現方法だと思った。
            SF的に面白い設定だが誰にもわかるように伝えるのはちょっと難しい。

            ギドラがゴジラに干渉できるように仕向けているのはメトフィリスにあると判断したマーティンの助言に従い、ハルオはメトフィリスと対峙する。

            エクシフの宗教は未来予測の高い技術――ゲマトロン演算と呼ばれる数学体系――から信頼されていたことが以前仄めかされていた。
            メトフィリスによるとゲマトロン演算をはじめとするエクシフの技術は高次元に繋がるものだったため(もし四次元が三次元+「時間」だったら、時間の流れを俯瞰で見る技術ということになる)、その力が行き過ぎてギドラを呼び寄せたらしい。
            彼らはその技術によって、未来にどんな“滅び”を見出してしまったのだろうか?

            行き着くところは死であると――メトフィリスは華々しく散ることを是とし、ハルオにその引導を渡す役割を与えようとする。それを呑ませるために、ハルオに陰湿な精神攻撃を与えて……

            若干、ハルオの葛藤の時間が長かった気がした。
            メトフィリスが語る本質と未来とは、あくまでエクシフの過去であり、地球の未来ではないのに……

            信仰も科学技術も人類を発展させたが、行き過ぎたそれらは人間をも滅ぼす……
            エクシフとビルザルドがその象徴だった。

            フツアの民のマイナの機転で、フツアの神・モスラを媒介としたテレパシーを使い、マーティンの助言によってメトフィリスの精神攻撃から逃れ、ギドラの干渉からゴジラを解き放ち、ギドラを退ける。

            映画『GODZILLA 星を喰う者』チラシ1

            怒り

            人を捨ててゴジラを倒すか、人としての尊厳を維持して死に絶えるかという、二者択一ではなく“別の道”――たとえ自身が死しても命を繋ぐ世代交代という命の循環――をフツアの民に見出し、そちらに託すことにしたハルオ。

            しかし安息もつかの間、マーティンが脳死状態のユウコのナノメタルを解析しバルチャー(前作のナノメタルの機体)を起動することに成功する。

            科学者であるマーティンは、データとして遺されている技術力の抽出に関心があるだけで、ナノメタルがもたらす悪意には関心が無かったと思う。それ故にハルオは危惧する。

            メトフィリスの言葉と、ミアナが「毒」と言わしめたナノメタルが再びもたらす破滅的な未来を予感し、全てを断ち切る決意をする。

            同時に、ハルオは“復讐心”という自身の負の感情――両親を殺したゴジラを赦すことはできない“憎しみ”――があったのかもしれない。それ囚われたままの自身の心はまさに怪物であり、エクシフやビルザルドの負の遺産の一部だった。それらを包括した二次感情の“怒り”として脳死状態のユウコと共に、バルチャーををゴジラに向けて特攻する。自身もろとも破棄するために。

            ゴジラの熱線で自身ごと焼き払う。

            ゴジラにとってハルオが敵だったかは曖昧にとらえる。というより、見るものに解釈を委ねる仕立てだった。
            単純に敵とみなしているナノメタルに反応しこれを焼き払う、
            憎しみを向けられている自覚があったのか、(肉眼でハルオを見たゴジラは第一章で斃されているため、ハルオを目視していないので)

            怒りという概念がなかったフツアの民。
            ハルオの“憎しみ”という感情を理解できず、“いかり”の意味するところを理解できなかったマイナによって、ただの言葉の形骸があった。
            それは“いかり”という言葉が本来の意味を失い、あらゆる厄を乗せて焼かれることで浄化するものとしてフツアの民に残った。

            特撮の『ゴジラ』シリーズにおいて、怪獣対決や世相を反映していったゴジラは、初代の破壊神から予定調和され地球の守護神のようになっていった。

            しかしアニゴジではそれらを踏まえた上で、徹底した役割分担をしたように思う。 大地母神的な性格はモスラに。
            暴食的な破壊をギドラが担ったようだ。
            ゴジラは……地球の生態系の頂点に立つ。それは一作目の『怪獣惑星』から一貫して“KING OF MONSTER”だった。 徹底して、人間の敵でも味方でもない。

            人類の末裔、フツアの民はゴジラと共に共生する。
            しかし、彼らはゴジラの守護下にいるわけではない。
            フツアの民を守っているのはモスラだった。

            もう語られることは無いが、遠い未来にフツアの民が滅びずモスラが再び復活する時、ゴジラとモスラの間で何か決着するのだろうか?

            映画『GODZILLA 星を喰う者』前売り券

            今年はハリウッド版ゴジラが公開される!
            三つ巴かと思ったら、四つ巴だった!
            日本では今年の夏休み映画だろうか……
            まさかのモスラも現れる模様。(でも大地母神的な性格持ち合わせてなさそう……)

            最後に一言……
            アニゴジモスラがシルエットだけだったのが解せぬ。

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            映画『MEG ザ・モンスター』感想

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              JUGEMテーマ:映画

              映画『THE MEG』チラシ

              公式サイト:
              https://warnerbros.co.jp/movie/megthemonster/

              久しぶりのサメ映画。
              元祖『JAWS』、本家『DEEP BLUE SEA』以降、サメ映画で超大作は特に無く、B級(むしろZ級?)映画の定番になっていた気がする。(※1)

              このサメ映画は、お約束の流血や喰い千切られるシーンが無い。メガロドンが大きすぎて、犠牲者は丸呑みされてしまう……
              ショッキングな描写が無い分、気楽に見れる映画だった。

              ❗❗問答無用でネタバレあり❗❗

              あまりまとまった感想にならない俳優語りは以下。

              • 水泳選手だったというジェイソン・ステイサム。特技を遺憾なく発揮していた。
              • テレビドラマ『HIROS』でワープができる能力者・ヒロ役を演じたマシ・オカ氏を久しぶりに見た。相変わらずいい役者。

              海洋問題

              映画というものは基本、時事問題をそれとなく盛り込む。今回強く意識されるのは海洋問題だった。
              物語に関わるというよりは、取って付けたような感じが否めなかったけれど……

              ハリウッド映画にも中国資本が積極的に入ってきているので、今回の舞台は主に中国海域だった。
              日本とは近隣国のため、私には非常にデリケートな問題を孕んでいるものを突きつけられた……

              研究施設が中国から沖合200海里先ーー公海上と言いたいのだろうけれど、日本の200海里と重なる部分もあり、海底資源開発で揉めている。海洋研究施設は、海面上がどうみても海洋掘削施設で……東シナ海の日中中間線にあるガス田開発施設を思い出された。
              キーワードだけ、ネタ程度で取り上げられた捕鯨問題。私個人の解釈は映画『おクジラさま』で考えた通り……思い出してまた怒りがこみ上げた。

              サメ映画なのでフカヒレ密漁問題も上げていた。こちらもキーワード程度だったけど。
              密漁者はメガロドンに喰われた後で、手だけだったけど……密漁問題の裏側については台詞でさわりだけだった。

              様式美

              サメ映画鑑賞の魅力とは、様式美――死亡フラグをはじめとするお約束――にあると思う。
              それを踏まえ、フラグを適度に折っている映画だった。

              つまり鑑賞者がサメに関する知識を“知っている”前提で話が進む。
              医療責任者のヘラー博士は転覆した船から離脱しわざと波を立てて泳いで自ら犠牲になる。
              サメに囲まれた時は出血しないこと、波音を立てないこと、じっとしていることが危機回避につながることを、説明しない。(※2)

              死亡フラグを折る、海のプロフェッショナルたち

              海に関わるプロ達で構成されたキャラクター。考えもなしにバカな行動をとって当人または誰かに死亡フラグが立つという展開が、無かったこと。
              例外は海に関わらない投資家・モリス(レイン・ウィルソン)だろうか。彼はひたすら道化役に徹していて、それ故の死亡フラグもしっかり立っていた。
              あまり泳げないDJ(ペイジ・ケネディ)も道化役だが…彼にはフォロー役が必ずそばにおり、どの助言に従うため、助かる。

              トシ(マシ・オカ)の死も自己犠牲ではなく、外部から衝撃を受けることは目に見えていたため、ハッチを閉めて衝撃に備えるのは普通の手順だ。
              ただ相手が想定外に悪かったため、トシ自身それは予測していたし、殉死してしまうのがだが……

              全てが淡々と正しく運ぶ。

              それは定番の死亡フラグを折っているだけの話なのだが。

              最終的には斃す訳だが、メガロドンの遺骸は他のサメに喰われ、全ては海の藻屑となる。
              サメが海の掃除屋であることもしっかり描写して、綺麗に終わらせた映画だった。


              ツッコミどころ

              それにしても…なぜ、メガロドンはクジラの歌に惹かれたのか……確かにクジラを襲ったけれど……
              隔絶された深海の古代海の中にクジラはいないと思うのだが?
              救助の際に空いた“穴(GATE)”――温水の水の流れ――から出てきたメガロドンだというなら、クジラの鳴き声を知らないと思うのに……
              ジェイソン・ステイサムが潜水艦救助作戦でメガロドンに遭遇した可能性を示唆しているので、隔絶した古代海から、何かの拍子に度々メガロドンが出てきたりしていたのかもしれない。(妄想)

              そんなツッコミどころがあるのがサメ映画の魅力。
              ご愛嬌、ということで。

              ジェイソン・ステイサムが頑張ってメガロドンの背中に付けたビーコン。
              海水浴場襲撃前に外れるシーンがあったけれど、意味があったのだろうか?
              捜索隊がメガロドンを見失ったようではなさそうだったし……本編でカットされたシーンがあるのだろうか……?

              そういえばチラシのメガロドン、本編のそれより大きすぎ。
              これもサメ映画のお約束だった(笑)

              1. サメ映画35連発!『MEG ザ・モンスター』公開記念特集|U-NEXT
                https://video.unext.jp/feature/cp/shark35/ (2018/10/26確認)
              2. 相次ぐサメの襲撃、防衛策は? | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
                https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/062200153/ (2018/10/26確認)
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              映画『ラ・チャナ』感想

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                JUGEMテーマ:フラメンコ

                映画『ラ・チャナ』チラシ1

                公式サイト:
                http://www.uplink.co.jp/lachana/

                伝説的バイラオーラ(女性フラメンコダンサー)のドキュメンタリーではなく、ラ・チャナという“女性”のドキュメンタリーだった。


                叔父に才能を見出だされ舞台に立ってから、テレビ、メディアへの露出を積極的に行い、人気絶頂にいたラ・チャナ。
                ハリウッドデビューの声もかかったにも関わらず、彼女は突然、舞台、メディアからも姿を消す……

                ラ・チャナが偉大である理由――踊りの技術もさることながら、それまで男の踊りであったサパテアード(フラメンコの足を鳴らす技術)を、女性でも行った先駆者だった。

                インタビューと当時の映像から、彼女の反省とその功績を追ってゆくスタイルだったが、華やかな軌跡の所々に黒い棘のような存在がいる……
                それはプロデューサーであり、ラ・チャナの夫だった男性だ。

                #metoo ――抑圧からの脱出

                ラ・チャナの口から語られる、ドメスティックバイオレンス(DV)があったこと。
                ハリウッドから声がかかった途端、彼女を舞台から引きずりおろし、“家庭”に縛ってしまう。(DV男の自分勝手なプライドの死守と嫉妬のためか) しかも、その夫は彼女と娘を捨て、金を持ち逃げしてしまう……

                当時のヒターノ(ロマ)社会の、保守的で男尊女卑な空気に抗えず、従うしかなかったと回想するラ・チャナ。
                その元夫の事を語る時の彼女は、どこか遠くを見つめていた……
                私はその表情に元夫への怒りよりも、諦念や失望、寂しさを見ていた。

                それらを払拭する、対抗して自分自身であろうとするために舞台に立っていた。
                ラ・チャナの芸術性は、DVや社会的なヒターノの抑圧に端を発していても、それを乗り越える彼女自身の力、慟哭だった。

                現在、ラ・チャナは再婚し、今はやさしい旦那様と生活している。
                映画の中で「書かないと覚えられないわ」と言うラ・チャナに「君はいつでも忘れるだろ」と言って、軽くどつかれる。夫婦漫才を見た(笑)
                その姿が微笑ましい。
                日常を追うカメラが写し出していたのは、 愛嬌があるワガママおばあちゃんだった。

                コンパスの重要性

                現在のフラメンコの女王といわれるカリメ・アマヤへのレッスンシーンは、フラメンコ好きには見逃せない。
                「あなたの踊りに憧れていたの」と語るカリメ・アマヤは、ラ・チャナからサパテアードの指南を受ける。
                マイクで音を拾っているようだが、鋭くかつ重い音に、舞台で観るフラメンコの圧や振動を想起する。

                ラ・チャナが強調するのは、コンパス(フラメンコのリズム)の重要性だった。
                ラ・チャナのメトロノームのように安定したコンパスはブレることが無い。

                これは私が習っているフラメンコ教室でも言われた。
                ……私は相変わらずリズム感無い。

                映画『ラ・チャナ』チラシ2

                舞台

                加齢による筋力の減少、糖尿病を患っていることもあってか、今は立って踊ることはできないようだ。
                それでも、彼女のコンパスの正確さは健在で、それに憧れる若手や、伝説的バイラオーラの姿を、踊りを見ようと観客が訪れる。

                椅子に座った状態で“踊る”……初めて見たスタイルだった。
                立ってサパテアードを打っていなくても、圧倒される。
                それはラ・チャナが正確なコンパスに基づく、パサデアートの確かな技術とパルマ(フラメンコで手を打つこと)が奏でる音の力強さだった。
                身体を楽器にしている。
                フラメンコは踊りだけではないことを実感した。

                舞台を終え、楽屋を片付けた後、彼女はゆっくりと階段を下りてゆく。
                そのエンディングは、昨年見た映画『パッション・フラメンコ』のエンターテイナーとして感動の余韻を与えるサラ・バラスの姿とは異なるものだった。
                普段表舞台しか見えない観客が垣間見た“普通”の姿――舞台という非日常ではない――バイラオーラの一日の終わりだった。

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                映画『ジュラシック・ワールド 炎の王国』感想――エコテロリスト?物語

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                  JUGEMテーマ:映画

                  映画『ジュラシック・ワールド 炎の王国』チラシ1

                  公式サイト:
                  http://www.jurassicworld.jp/

                  今年は『ジュラシック・パーク』初公開から25周年という、節目の年だった!!🦖

                  恐竜好きな子供だった私は、図鑑でみた恐竜たちが動くことに感動し、ワクワクしていた。
                  大人になってもそれは変わらなかったw

                  前作では、かつての『ジュラシック・パーク』(以下、『パーク』)シリーズへのオマージュをしつつ、全く別の世界へと変化してしまった……
                  『パーク』では考古学者・ジョン・ホーナー博士を招き、極力?リアルな恐竜映画としたが、『ジュラシック・ワールド』(以下、『ワールド』)は怪獣映画だった……

                  ❗❗以下、ネタバレあり❗❗


                  ホラー映画!?

                  映画の表現手法がホラーだった。

                  登場人物の背後にある配管の中や影に潜む恐竜の姿を、観客は一瞬の閃光の中に垣間見る。
                  登場人物が気づいていない、恐竜が徐々に近づいてきていることを想像し、観ているとハラハラしてしまう。

                  極めつけが中盤〜ラストの屋敷のシーン。

                  雷が鳴り響く窓の外、屋根の上の不気味な影。
                  ベッドの中で息を殺す少女。
                  窓から忍び込み、恐竜の鋭い鉤爪が少女にゆっくりと伸びてくる――

                  これが「フレディ」と言われても違和感が無いと思った。
                  否、むしろ人里離れた深い森の屋敷の地下に研究室や檻があるといった設定は、ゲーム『バイオハザード』を思い出してしまう。

                  この恐竜映画というジャンル?自体、“怪獣映画”の変化系なのだが(※1)。前作で“ハイブリッド恐竜”なる空想の恐竜が出たのを見て、私は完全に怪獣映画化してしまったと思ったのだが、想像の斜め上を突いてきた……(;゚д゚)ゴクリ…

                  『ワールド』の ウー博士は新種(架空の)恐竜(私にはもはや怪獣にしか見えない)の創造にこだわっているが、それは「自分はこんな風にすごいものを創れる」という優越感にすぎない。
                  『パーク』における、古代恐竜への情景からジュラシック・パークを造った映画版のハモンド氏とは異なる発想。これが『パーク』と『ワールド』の世界観に大きな差を生んでいる。

                  思えば原題は"FALLEN KINGDOM"――“落ちる世界”とは恐竜の滅亡よりも、人間の堕落の方に掛けようとしていたと思う。
                  邦題は映画前半の火山噴火――それによる恐竜絶滅という、古い学説(ステレオタイプ)イメージ――に沿ったものだった。
                  日本での集客的には一般人が想起するイメージが結びついて、そちらの方が良いのだろう。
                  邦題に関わっているかは分からないけど、字幕は戸田のなっちゃんだった……

                  2つの世界

                  今回の映画を通して、『パーク』と『ワールド』では、本的な思想に大きな違い、隔たりがあると思った。

                  『パーク』シリーズでは(『ロスト・ワールド ジュラシック・パーク』(以下、『ロスト・ワールド』)でアメリカ本土でT-REXが大暴れすれど)恐竜の世界と人間の世界は、交わらず、共感しない。
                  人と恐竜が心を交わさないことで、互いの“距離”を守った。人にルールがあるように、自然には自然のルールがある。

                  恐竜たちの世界は、人間が再生した世界であっても制御できないことを示し、端的に表した。
                  そもそも、ジュラ紀〜白亜紀という、人間が関わる以前に滅んだ自然――それは転じて“人間が介入できない不可侵な自然”ということの表れでなないだろうか?と私は考える。

                  手つかずの自然、あるいは人間が不可侵な自然の代名詞である『ジュラシック・パーク』。
                  人間の手に負えない圧倒する自然――ひいては人間の矮小さ――を意識させたが、『ワールド』にそれが無い。

                  そして『ワールド』シリーズでは人間と恐竜が心を交わしている。

                  共感?する人間と恐竜

                  果たして、恐竜に共感能力は存在するのだろうか?

                  私は爬虫類に共感能力がある想像ができない……

                  カモノハシ竜のマイアサウラは子育てをしていたのではなないかと言われているが、結局のところホーナー博士らの推測の域を出ないし……

                  しかし、現代の生物で恐竜に近い種と言われるワニには鳴き声を使ったコミュニケーション能力があるというし、恐竜の子孫ともいえる鳥類のコミュニケーションは多種多様だ。

                  もしかしたら、そういうこともあり得るのかも知れない。
                  今まで人間とのコミュニケーションをとる存在では無かった恐竜との共感が、『ワールド』という物語の鍵になるのだろう。

                  自然から逸脱した人間と、自然の関わり

                  パーク崩壊から3年後、元パークがあるイスラヌブラル島では火山活動が活発化し、恐竜存続の危機にさらされていた。

                  パークの管理責任者だったクレアは、恐竜保護を訴える活動家グループの責任者になっていた。映画冒頭でその巧みな話術を駆使して、政治家を支持者にする辣腕ぶりを発揮していた。

                  前作での罪悪感もあるのかも知れない。
                  好奇心、探求心を刺激されたことに端を発しながらもうけ主義に至ったこと、そこから生み出してしまったという自責の念から。

                  その尽力もむなしく、国は「恐竜の命運は自然に委ねる」という方針を打ち出し、火山活動が活発な島にのこす決定を下す。
                  責任の丸投げともとれるが……人間はあらゆるものを制御できていないのは事実だ。
                  「自然に委ねる」という言葉に、ふとアメリカのイエローストーン国立公園の自然火災の方針を思い出した(※2)

                  映画『ジュラシック・ワールド 炎の王国』チラシ2

                  エコテロリスト?

                  しかし、 物語が進むにつれて恐竜との関わり方も多様になってゆく。
                  保護目的だけでなく、儲け主義、ハンティング、金持ちのコレクションとしての競売から生物兵器としての利用まで……

                  沢山の思惑と価値観が交差する中、『ジュラシック・パーク』の根源的な問題とも解釈できる、遺伝子工学への問題提起にも言及される。

                  とはいえ遺伝子工学への警鐘――キリスト教の聖書的解釈もあってだろうか?人間を創った神の領域に踏み込もうとしている、という罪の意識――を語るとしたら、それは狭義な気がする。現実世界でも……

                  恐竜保護に協力的であるロックウッド財団の代表。彼の孫娘・メイジーは亡くなった自分の娘(メイジーの母となっている)のクローン人間だった。

                  人間の都合で生み出された恐竜に(『パーク』の頃よりもより現実味をおびた)クローン人間問題を絡め、個としての生命の尊厳を尊重する結末を、『ワールド』は提示する。

                  しかしその行動――檻内で瀕死の恐竜と救うため、ゲートを開放し恐竜たちをアメリカの森林に解き放つ。
                  その行為に、私は(言葉の定義的には違うかも知れないけれど)エコテロリストではないかと思ってしまう。
                  メイジーの、子どもの無垢とも言える動機、己の出自に関することから恐竜の代弁者のように振舞うのはどうなのか?まるで贖宥状(免罪符)になっている気がしてならなかった。

                  感情論を前面に押し出す動物保護活動ほど、たちが悪い。私はそう考えるようになった。
                  過激なパフォーマンスについては言わずもがな、特定の種類だけという選民思想的な人間のエゴでしかない。

                  人間の世界、それも人口密集地に近い場所で恐竜を放ったら、人間に危害を加える可能性が高い“害獣”扱いを受けて、駆除される可能性が高いのに……
                  次作は『ロスト・ワールド』のような、『キング・コング』のように都市を舞台にしたパニック映画となってしまうのか?
                  それは無いと思うけど……

                  自然と人間の世界の“境界”を守る、それが一番良いのではないか?
                  そういう視点から、私は『パーク』シリーズの方が良いと思った。

                  今回の映画冒頭で、『パーク』シリーズからのキャラクター・カオス理論のマルコム博士が姿をみせる。
                  自然をコントロールしようとする人間のエゴを糾弾するキャラクターだ。
                  映画の最後では、人間が犯した罪(恐竜)との共生について言葉を残すが、その真意と共に、物語がどの様な結末へ至るのか、興味深い。

                  1. レイ・ハリーハウゼン 特殊効果の巨人 (原題”Ray Harryhausen: Special Effects Titan”)にて、スティーブン・スピルバーグ監督は『ジュラシック・パーク』のシーンがストップ・モーションによる特撮『原子怪獣現わる』に影響を受けていたと語る。トイレに逃げ込んだドナルド氏がT-REXの餌食となるシーン。食らいついて首を左右に振るのは、ワニの習性と『原子怪獣現わる』のシーンにインスパイアされている。

                    レイ・ハリーハウゼン 特殊効果の巨人 [DVD]
                  2. 正式には 1972年から、火災を発見したら直ちに消火するという従来の方針を改め、条件を満たすものは自然による制御に委ねる方式を 採用した。その時点でイエローストーンを含めて 12の国立公闘が落雷による火災で条件を満たすものを管理火災として受け入れるようになっていた。

                    これらの地域で管理火災を導入した理由は大きく 3つある。第ーに、この地域の植生遷移には 火災が不可欠であること。、第こには、利用の点からも、燃えやすい落葉落枝の堆積による危 険な大火が防げるとともに、動植物の多様性が維持できるということがあげられる。第三に、火災が安価な白熱環境管理手法であるという点も無視できない。しかし、イエローストーンでは (略) 、処方された焼き払いではなく、自然発火による火災を利用する方式が採られた。すなわち、落雷によって発生した火災は、所定の条件を満たせば自然に鎮火するのに任せることになった。

                    伊藤 太一『アメリカにおける自然環境保全空間の成立過程に関する研究』第9章 理想と現実:イエローストーン地域におげる大火災の影響と意義 > 4 .イエローストーン地域の火災への対応の変遷 > 2 )国立公園における取り扱い p.136
                    http://hdl.handle.net/2433/78040

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                  映画『GODZILLA 決戦機動増殖都市』感想

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                    JUGEMテーマ:SF映画 一般

                    映画『GODZILLA 決戦機動増殖都市』チラシ

                    公式サイト:
                    http://godzilla-anime.com/

                    前回、ゴジラ史上最大の大きさのゴジラ――ゴジラ・アース体高300m――との邂逅により、壊滅した対ゴジラ戦術部隊。

                    もはや対抗手段が無いと思われていたが、人類最後の希望としてあのメカゴジラが起動する。
                    ディザーポスターのメカゴジラはデザインが刷新され、メカというよりは鋭利な刃物を重ねたようなデザインが斬新だった。

                    とはいえ、発見したメカゴジラは二万年のゴジラに合わせた体高(50m)……一体どうやってそれを用いて戦うのかと疑問に思っていた。

                    デザインが刷新されたゴジラはナノメタル――自律思考金属体――でできており、ゴジラと共に二万年の時間を経ていた。
                    ナノメタルはゴジラ・アースの遺伝子から生まれた亜種を迎撃し取り込み、自己増殖をしていた。
                    まるで共に進化して対抗手段を身に着けたニホンミツバチとスズメバチの関係を想像してしまう。

                    ナノメタルを手に入れた主人公・ハルオたちは、史上最大のゴジラとの戦いに挑む。

                    戦略は前作と同じだが、規模が違う。
                    前回の調査隊は装備を揃えて挑むが、今回は装備を造る所から始まる。
                    前線でゴジラの動きを予測しながら進め、刻々と変化する事態に合わせ、必要最低限の装備で出撃する等、リアリティのあるものだった。

                    自然の地形ではなく、人工物――ナノメタルによる増殖都市――が作り上げた対ゴジラ戦を目的とした巨大要塞。

                    自己増殖した巨大な空間は人工物のようなのに、何処か有機的な印象もある。

                    その造形に映画『プロメテウス』を想起された。造形が似ているのではない。その空間が醸す雰囲気が似ている。
                    冷たく、全てを飲み込んでしまうような、圧迫感がある、同じ造形の反復。
                    ナノメタルに取り込まれた、逃げ遅れた人間の遺骸からも。

                    ナノメタルは人間をも取り込み、同化することができた。

                    ナノメタルを造り出した人型異星人・ビルザルドたちは自らの意思でナノメタルと同化し(人間では無くなってまで)、特攻してゴジラ・アースを斃そうとする。

                    命令を遂行し、敵を撃破することは兵士として正しい。
                    だが、行き過ぎた合理主義、スポ根、感情の否定がたどり着く、未来の無さ――人間存在の否定。
                    「ゴジラを斃すためには、ゴジラのようなものにならなければならない」
                    そういう考えに至ったビルザルドの人々は、人としての生を否定する。

                    その言葉に、私は平野耕太『HELLSING』の吸血鬼アーカードが言った、「化物を斃すのはいつだって人間だ。人間でなければいけないのだ!」という慟哭を思い出した。

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                    人であることを棄てることを望まなかったハルオの行動で、ゴジラは斃せず、またしても犠牲を払う……ただしゴジラが齎した破壊ではなく、追い縋った“毒”――フツアの少女はナノメタルをそう呼んだ――によってもたらされた、人間としての存在の危機だった。

                    衛星軌道上にいる帰還した人類からの支援も期待できない上に、ビルザルド達を殺害したのが人間のハルオであることで、船内で暴動が起こってしまうのではないだろうか…現状維持を望む人間と老人ばかり残っているあの船内の人々に、未来はあるのだろうか?

                    もう一つの人型異星人・エクシフのメトフィエスは、故郷を滅ぼした怪獣をギドラと呼んでいた――次作ではキングギドラが来てしまうのか!?
                    エクシフに予言をもたらす石の存在とビルザルドの力を借りて復元させた聖遺物のようなコインがある。メトフィエスはギキドラの来訪を知り、毒には毒を持って征すという考えのもと、邂逅させようとしているのだろうか?

                    怪獣惑星となった地球に残った人類の末裔と思われるフツアの民。
                    公式サイトでは“昆虫の遺伝子”とあった。
                    残った人類が生体工学をもって生き残る術を身に付け、適応したのかと思った。

                    だが、フツアの民と彼らの里にいた人間たちにだけに着いていた、キラキラしたものが燐粉だという……そのキーワードで想像してしまう。
                    それってモスラではないか?

                    特撮でもモスラと意思疎通ができる小美人は双子設定だった。
                    フツアたちの会話のなかで“怪獣に挑み敗れた存在”があり、“卵”が残され、そこからの応答を待っているようだった。
                    特撮のモスラが孵化する前の卵の発見から始まるように、もしかしたら次作で“卵”が孵るかもしれない。

                    もし、ゴジラ、キングギドラ、モスラが現れるのなら――
                    かつての三つ巴映画へのオマージュは、二万年の時を経て戻ってきた人類と、二万年の時を共に地球にいた人々に、どんな結末をもたらすのか。
                    とても楽しみだ。

                    メトフィリスが持っていた、聖遺物のようなコイン。
                    不思議な図形だった。
                    これはエクシフを象徴する図形らしい。(前作では私は気づかなかった)
                    七芒星のような、しかし鋭角が互いに向かい合うようになっているため、十四芒星というべきだろうか?
                    図形として、非常に興味深い。

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                    映画『ブラックパンサー』感想――渾身のアフリカン・カルチャー・リスペクト

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                      JUGEMテーマ:SF映画 一般

                      映画『ブラックパンサー』チラシ

                      公式サイト:
                      https://marvel.disney.co.jp/movie/blackpanther.html

                      前回?映画『シビル・ウォー/キャプテン★アメリカ』で存在感のあるキャラクターだったブラックパンサー。
                      満を持してその映画が登場。

                      マーベル映画『アベンジャーズ』シリーズへの布石でもあるわけで、物語は堅苦しいことを抜きにして娯楽映画なのだが、最近の傾向らしく“社会派”な要素も含まれていた。
                      アメリカ社会における低所得者層になりやすい、人種差別的な問題も含め……しかし、今回は割愛。

                      この映画について感想を書こうとすると、実験的であり革新的にも感じた、アフリカ・カルチャーへのリスペクトについて、言及せざるをえないだろう。

                      主要登場人物が白人以外

                      2016年の第88回アカデミー賞は“白すぎるオスカー”と揶揄された(※1)。その反動ともとれる。
                      寧ろ、今までこんなに黒人を起用した映画があっただろうか?
                      それもアメリカ農奴制度や南北戦争、アパルトヘイトなどをテーマにした映画以外で。
                      アクションシーンでは黒人特有の身体能力を遺憾なく発揮しているようにみえ、見ごたえがあった。

                      水がない世界

                      動物は水が無いと生きられない。命を繋ぐ存在だ。
                      しかし、この映画で水は命を支える存在とは違う立ち位置にあるようだった。
                      まるで死の象徴だった。

                      決闘の場所が滝で、主人公ティ・チャラ(ブラックパンサー)が敵役・エリックによって王位をはく奪され、滝壺に落とされた。死に瀕したティ・チャラが蘇生する際は、正当な手続きとは異なる通過儀礼として、赤い土とは対を成すような白い雪(氷)に包まれていた。
                      それにエリックは黒人が奴隷船での航海中に己の尊厳を守るために海に投身自殺したというエピソードを語る。

                      流血禁止のディズニー映画なので一滴も流れないわけだが、そのため全体的に“乾いた”印象があった。
                      エンドロールの映像はR&Bにのせて、ビビットなカラーの上に砂絵でアフリカン・テキスタイルに見る幾何学文様が展開されている点でも、水気のあるものを徹底的に排除したのだろうか。

                      ……よく考えたら、アフリカの水事情は未だに良いとは言えないし、現実的ではないためかもしれない。水を引いたら象さんが水を飲むためにトイレを破壊しに来るらしい。(※2)

                      アフリカン・カルチャー

                      デザイン ――テキスタイル、装束、意匠

                      映画全体の特筆すべきことだろう。
                      ビビットなカラーとアースカラーのコントラスト、シンプルで素朴感がある幾何学文様。それが映画全体に彩を添える。
                      ティ・チャラの妹・シュリの地下研究室に続く螺旋階段は、まるでDNAの二重螺旋構造のようだった。人類発祥の地であるアフリカへのリスペクトだろう。

                      それはキャラクターの衣装にも表れている。(※3)
                      ワガンダを支える五部族の装束は多様で興味深かった。それらは現実のアフリカ民族衣装がベースである事は言わずもがな。川の部族と呼ばれる族長は、スリ族やムルシ族のように皿を唇にはめていた。(あの装束は女性だけではなかったか?※4)

                      ミュージック

                      エンドロールではヨーロッパの古典音楽的なエピック・ミュージックと掛け合うように、アフリカのリズムが交差する。
                      まるで二重螺旋構造のように、並列して合いそうで合わないリズム。
                      アフリカ音楽に疎いので、私は聞いていると拍子(ビート)が奇数のように聞こえた。そのため、ヨーロッパ音楽の偶数の拍子の間を縫っているようだった。
                      合致しそうでそうならない。そのもどかしさが気になる。
                      日本は一拍一音の拍子でリズムに弱いと言われているためだろうか……(個人的な経験だが、このためフラメンコのリズムを理解するのに凄く時間がかかった)
                      この拍子は何なのだろうか?

                      アフリカの子どもたちに三拍子の曲を聴かせると,二拍の手拍子を叩く.曲が「1.2.3.1.2.3.」とリズムをとる間を,「1.2.1.2.」のタイミングで手拍子を入れる.音そのものではなく,曲と手拍子がぴったり一致しないことでできる微妙なタイミングのズレが,アフリカ人にとっての「リズム」そのものなのだそうだ.
                      (中略)
                      昔から,二拍子や四拍子は,歩くリズムだから体に染み付いている自然なリズムだが,三拍子という割り切れないリズムが,なぜ無理なく聞こえるのか不思議だったが,これは心臓の脈拍なのだそうだ.「心臓がドキドキする」という言い方をするが,実際の心音は「ドッキドッキ」という,三拍の真ん中を抜いたような三拍子を刻んでいる.心臓の筋肉が全身に血液を送り出す時の,やや時間をかけてギュッと絞りだす動き.逆に心臓に血液が流れこむ時の,一瞬の動き.心音は,その動きに合わせて動く心臓の弁の音なので,自然に三拍子を刻んでしまう.
                      そして,心臓が三拍子を刻むと同時に,足が二拍子をとる.心臓を動かしながら歩き続けるのが,人間の基本的なリズムだと,アフリカ人は考える.だから上述のような手拍子を合わせるのだ.

                      リズムとズレ – oldbadboy.com
                      https://oldbadboy.com/2016/04/25/リズムとズレ/

                      ボザノバなどのラテン音楽をよく聞くと,背後で主にクラベスという拍子木が,このケニケニのリズムを刻んでいるのがわかるはずだ.アフリカから奴隷として連れ去られ,南米で生きることになっても,故郷の心臓と足のリズムまで奪うことはできなかったのだ.

                      リズムとズレ2 – oldbadboy.com
                      https://oldbadboy.com/2016/06/20/リズムとズレ2/

                      音楽の中にもそうした敬意を込めている、その力の入れようが見ている私にも強く伝わってきた。


                      リスペクトしているとはいえ、消化不良気味な点は否めない。
                      アフリカ・カルチャーといっても、どこか“なんちゃって感”がある。私が気になったのは壁の落書きとか、都市構造とか。

                      壁の落書きに関しては、個人的には“治安の悪さ”の象徴が出発点のため、ダウンタウンのイメージと架空国家“ワガンダの歴史のイメージ”が結びつかない面があった。
                      そこから“ストリートアート(※5)”として創造性や情報発信としての力の強さが見出され、“コミュニティーアート”として地域再生や可能性が模索されてきた昨今なので、もちろん“アート”として見れるのだが。
                      ……比較的治安の良い都市でも、歴史ある街でも、世界のどこかには必ずスプレー落書きがあるからいいのか?

                      都市構造に関して言えば、アフリカ大陸でも現代的な高層ビル群化が進んでいるところもあるので仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、西洋文化の焼き直し的でアフリカの都市情景という印象が無い。
                      そう思わせるのは、単に私が広大なアフリカの大地に高層な建物のイメージが結びつかないためだろう。
                      もし外界から遮断され地下資源を活用する都市なら、私だったら地上は平屋づくり(高くても3階建てとか)で地下都市が広がっているとか考えてしまう。その方が灼熱の陽射しから逃れられるし、ある意味隠れられるし。

                      王のあり方 ―― 一国の指導者として

                      映画終盤、ティ・チャラはヴィブラニウムを人類共通の財産としてシェアすることを公表する素振りを見せている。
                      ただ、自国の国益を第一に考えるのも、王の姿勢として必要なことだ。
                      ヴィブラニウムを放出するよりも、寧ろ農業国としての掘削技術や、治水技術を先に提供すべきではないだろうか?

                      ……とは言え、現在公開されている映画『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の予告編を見る限り、世界規模の戦闘になる以上、対抗手段としてのヴィブラニウムを人類が手にしていないと人類は壊滅してしまうから、そのための布石だろう。

                      さて、先日『インフィニティ・ウォー』も公開。
                      ドクター・ストレンジも合流して、マーベルドリームチームが最強の敵に挑む……
                      何だかスケールが大きすぎて、消化不良を起こしそうなんだけど……

                      1.   アカデミー賞は人種差別? 白人俳優しか候補にならず - BBCニュース (2016年01月22日)
                        http://www.bbc.com/japanese/video-35379137 (2018/5/)
                      2.  アフリカで水洗トイレをつくったら象が水を飲みに来る問題 | netgeek
                        http://netgeek.biz/archives/95740
                      3.  

                        トリビア満載!『ブラックパンサー』イースターエッグ・小ネタまとめ | Fan&'s Voice〈ファンズ・ボイス〉| ポップカルチャーのファンメディア
                        http://fansvoice.jp/2018/03/30/blackpanther-easter-eggs/

                        マーベル映画『ブラック・パンサー』の衣装を徹底解剖! | FUKROO [フクロー]
                        https://fuk-roo.com/originals/1732

                      4.  唇に大きな皿をはめたムルシ族!【少数民族巡りハイライト】 > 3 なぜ唇に皿を入れるのか?
                        http://daiki55.com/mursi1/#i-3
                      5.  「違法な」アートが街や企業を惹きつける理由−−ストリートアートで活気付く欧州の街を巡る | AMP[アンプ] - ビジネスインスピレーションメディア
                        https://amp.review/2017/09/28/street-art/
                      参考文献
                      塚田健一『アフリカ音楽の正体』 音楽之友社 2016
                      アフリカ音楽の正体
                      福田明男『アフリカン・エスニック・デザイン』 柏書房 1992
                      アフリカン・エスニック・デザイン
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