映画『おクジラさま ふたつの正義の物語(A WHALE OF A TALE)』感想

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    映画『おクジラさま』チラシ

    公式サイト:
    http://okujirasama.com/

    映画『ハーブ&ドロシー』『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』の佐々木監督の新たなドキュメンタリー。
    映画公開後、「捕鯨問題を取り上げる」と、アートとかけ離れた内容なので驚いたが、「公平な視点をもって撮りたい」とおっしゃっていたので、楽しみだった。


    映画の中で監督・佐々木氏の姿をほとんど見えない。
    元IP通信社のジャーナリストが多く出てくるのだが、“主人公”のような立ち位置にはいない。
    彼は“客観性”“中立”を具現化したような存在だった。

    シー・シェパードの活動家、太地町の漁師たち、何故か仲裁に入ってきた怪しい右翼団体の男性……
    登場する人物、誰もが主人公ではないが、誰もが主人公である映画だった。

    結論ありきのドキュメンタリーではなく、観る人に多角的に考えさせるドキュメンタリーだった。
    残念ながら人間というものは、自分の信じているもの以外受け付けないものだけど。(※1)

    捕鯨、反捕鯨の主張共に、言い分には不完全なものがある。
    人間は結局、物事をそのちっぽけな尺度でしか測ることができない。

    正しいことなど、どちらにもなかった。
    寧ろこの映画を観て、結論……模索しなければならない事は、捕鯨を肯定する人も否定する人も「折り合いをつけて共生する方法」あるいは「距離感」を見つけることだった。

    このブログでは前提知識として、クジラ類ハクジラ亜目の成体の体長が約4m以下のものをイルカとし、イルカ・クジラ漁を特に明確な線引きをしない場合、総じて「捕鯨」として記載していく。

    “アクション”、その先

    映画『ザ・コーヴ』(以下、『ザ・コーヴ』)の公開以降、イルカ漁の町・太地に押し寄せてきた反捕鯨活動家たち。
    彼らの「イルカを守れ」は、間違ったことは言っていない。
    しかし映画を観ていると、実態に即していないことが分かってくる。

    「イルカ(クジラ)は絶滅危惧種だから保護したい」のであれば、漁の対象になっているイルカは絶滅危惧種の種類では無い。

    そしてシー・シェパードが現場で訴えることはパフォーマンスを超えることができない。

    私が一番気になったのはその手法。

    シー・シェパード側の活動家は、イルカ漁の動画を撮っている人はイルカに「レイプされている」という擬人化を用い、漁師には「殺人鬼」とするナレーションを入れている。
    この手法――言葉という人間のコミュニケーションでダイレクトなもの――が、聴く人に人間同士の殺し合いのようなイメージを起こさせ、他の視点から見る“客観性”を排除する。
    それはイルカを救う活動をしているというよりも、漁に携わる人間への個人攻撃――誹謗中傷に聞こえてしまう。

    またシー・シェパード側が提案した別の方法にも疑問を覚える。
    「捕獲したイルカを買い取る」というが、それは漁師に言うべき話ではない。
    彼らには既にクライアントがおり、ビジネスである以上、それを覆せない。信頼に関わることなのだから。
    もしそれをするなら、漁師だけでなくビジネス相手――クライアントとも交渉すべきではないか?
    何より太地町のイルカ漁はスポーツハンティングとは違う。
    漁師の漁業で、彼らの生活がかかっている。

    グローバリズムと情報リテラシー

    反グローバリズム傾向が強まる現在――ナショナリズムの台頭への懸念――が叫ばれるなか、排他的になること、中傷することではないだろう。
    それは結局、人間のちっぽけな尺度に過ぎない。

    何故、イルカ漁がダメなのか?
    反捕鯨活動で取り上げられる様々な“論拠”――「知能が高い生き物だから食べちゃダメ」「水銀があるから食べちゃダメ」……

    知性が高い生き物を食べてはならないという発想(※2)が欧米にある。
    しかし、動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか?
    人間は確かに動物の知性が分かる。しかし、未だに全ての動物の知性を科学という小さな尺度で測り切れていない。(※3)
    まるで家畜にその知性が無いからと殺して良いともとれる価値観は人間の欺瞞に思える。
    これは私の想像だが、動物には人間とは違う知性に基づいて判断で行動していること、人間とは違う造形であるがゆえにとれる手段が限られているだけ――それが人間よりも劣っているとは言えないだろう。家畜も然り。

    その論拠の一つに、脳が人間に次ぐ大きさを持っているイルカは人間と同格と見なされる。
    まるで選民思想――ひいては自身の優位性という傲慢を促し、他を差別するもの――の延長のようで、不快なのだ。

    生き物を殺さないと私たちは食べれない。
    日本の価値観では動物と人間が同等な“命のサイクル”の上にあると見なしている。命の価値は何一つとして特別なものはない。
    汎神論的な命の繋がりを信じている私は、食物連鎖から逸脱した人間が優位であるという考え方は欺瞞に覚える。

    「他のものを食べればいい」というが、太地は農作物を作るには不適切な地理だった。農地・牧草地にする土地が少ない。

    また、クジラやイルカの体内の水銀保有から、水俣病と関連させて健康被害の可能性を論じられる傾向がある。
    しかし太地町に住む人たちが水銀中毒で短命であるという話は聞かない。


    映画を観る前に、この映画の書籍版を購入、読了。

    おクジラさま ふたつの正義の物語

    佐々木監督自身の視点・感想や、映画では描かれなかった諸々の経緯とデータが文章化されている。
    その中でも、人間中心主義問題、水銀問題について、佐々木監督が取材や調べてわかったことを簡単に書いている。

    歯クジラ類がメチル水銀(※4)の毒性を抑えるセレン(※5)を体内で準備し、結合させて無毒化する事故防衛力が備わっていたことを指摘していた。(※6)
    『ザ・コーヴ』ではそのことが一切触れられていない模様。

    映画『おクジラさま』書籍、パンフレット、プレス

    日本の問題点

    映画の中でも書籍でも語られているが、海外への情報発信の下手さを指摘している。
    情報発信が少なすぎること、日本語サイトしか無いこと……
    もっとも、イルカ漁に関わる人たちは漁師。情報発信の人手もなければ時間もない。

    よく比較に出されるフェロー諸島(ノルウェー)の捕鯨の場合、自治政府が捕鯨の専門サイトを立ち上げたり(※7)、警察や海上保安庁だけでなく海軍出動も派遣され、シー・シェパードの動向を監視したとか。

    日本も学ぶことが多いが、他にも問題がある。
    フェロー諸島の捕鯨はノルウェー国内で完結しているが、国外(南極)へ行ってミンククジラを調査捕鯨するのは日本くらいだ。
    調査捕鯨の目的、水産調査の結果は公開されていたが、PDFだった。(※8)凄く見づらい。
    こういった情報をhtml形式にしてもっとアクセスしやすくしないと、世界に対して誤解を招いたままになってしまうのではないか?

    調査がクジラである理由は、クジラが食物連鎖の頂点であるためらしいが、他の方法ではダメな理由が分からなかった。
    調査によってクジラが種類によって食べる魚の種類が異なること、更に季節によって食べるものが変わるという。
    日本食ブームで国家間の水産資源の争奪戦も懸念され、さらにクジラもライバル視しなければならないのか……(´・ω・`)
    ではこのデータ、‘生態系アプローチから見る海洋生物資源の管理’とはどんなもので、何を世界に対して提言しているのか、明言されていなかった。


    そもそも『ザ・コーヴ』は問題を混ぜこぜにしているのではなないか?
    地産地消をしていた太地町のイルカ漁と、日本政府の調査捕鯨を。これは全く別物と考えるべきだろう。
    太地町のイルカ漁の場合、日本の食卓を支えるものでは無く、地産地消として一定の地域の人々を支えているものであるというのが実態だった。

    調査捕鯨のクジラの場合、「もったいない精神」から、その肉は一部クジラ肉は食肉として提供されていた。
    それは絶滅危惧種ではないクジラで、捕獲量を厳しく管理して行われている。

    太地町の今後について

    野生のイルカを見ることができる観光施設としての入り江の活用を考えている模様。
    産業が乏しい小さな町の、人口減少に伴う漁師の不足と町おこしからの選択肢のひとつだった。
    それはシーシェパードのためでもなく、『ザ・コーヴ』で非難されたからでも無い。太地の人々が考えて導き出された結果だった。
    因みに捕鯨を完全に止めるとは言っていない。
    これが上手くいくことを切に願う。


    正直、この映画を見終わった後しばらく ( はらわた ) が煮えくり返っていた。
    それは『ザ・コーヴ』の2010年アカデミー賞受賞の時からあった蟠り……反論であれ分析であれ、それができない私自身の情報の少なさもあった。

    世界を良くしたいと願って参加する活動は、寧ろ何の役にも立たないどころか”お門違いなお遊び”状態の“不都合な事実”。
    本質を見誤る情報リテラシーの無さ、情報発信力の低さ。

    自国の尺度を自国ではない国に持ち込み非難するだけの外国人。
    理解されないと無視する、ある意味ムラ社会な日本人。(この問題を「文化の違い」という尺度で片付けている事は、情報発信の放棄ともとれる)

    『おクジラさま』を拝見して、映画『ザ・コーヴ』のおかしなところを理解した。これで安心して『ザ・コーヴ』を観れる。
    「イルカが可哀想」ではダメなのだ。それはただの感情論なのだから。つまり理性的……客観性も、公平さもない。


    クジラの天ぷら

    映画を観た後、イルカではなくミンククジラ(調査捕鯨のもの)に感謝を込めて「いただきます」
    独特の野生動物の味がした。
    それは家畜にはない深みのある味だった。
    ジビエの肉に近い。
    身が締まっていて、力強い。噛み応えがある。
    凄く“私は命を頂き生かされている”ことを、より意識させられた。
    私にはとても美味しかった。

    1. 1 

      我々の偏見(バイアス)は思った以上に強固。事実ですら完全に無視をする(フランス研究) : カラパイア / 2017年09月10日
      http://karapaia.com/archives/52245557.html (2017/11/7確認)

      Confirmation bias in human reinforcement learning: Evidence from counterfactual feedback processing / August 11, 2017
      http://journals.plos.org/ploscompbiol/article?id=10.1371/journal.pcbi.1005684#sec010 (2017/11/7確認)

    2. 2 人は動物をどのように観てきたか | 愛玩動物飼養管理士@試験対策ノート
      http://pet-breeding-man.com/2014/11/article9-1/ (2017/11/7確認)
    3. 3 

      フランス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』
      動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか

    4. 4 メチル水銀(Wikipedia / 日本語)
      https://ja.wikipedia.org/wiki/メチル水銀 (2017/11/7確認)
    5. 5 セレン(Wikipedia / 日本語)
      https://ja.wikipedia.org/wiki/セレン (2017/11/7確認)
    6. 6 

      佐々木芽生『おクジラさま ふたつの正義の物語』 集英社 [第5章] p.185

      坂本 峰至『メチル水銀毒性とセレン』第43回日本毒性学会学術年会 (公開日:2016/8/8)
      http://doi.org/10.14869/toxpt.43.1.0_S8-1 (2017/11/7確認)

    7. 7 

      『シー・シェパードVSデンマーク 日本が学ぶべきフェロー諸島の対策』 WEDGE REPORT (公開日:2015/7/31)
      http://wedge.ismedia.jp/articles/-/5223 (2017/11/7確認)

      WHALES AND WHALING IN THE FAROE ISLANDS(フェロー諸島自治政府の捕鯨専門サイト / English)
      http://www.whaling.fo/ (2017/11/7確認)

    8. 8 

      『捕鯨問題の真実』(pdf)
      http://www.icrwhale.org/pdf/04-B-k.pdf (2017/11/7確認)

      (一財)日本鯨類研究所 : パンフレット( http://www.icrwhale.org/04-B-l.html ) > 捕鯨問題の真実 English, Français, Español (2017/11/7確認)

      この情報、捕鯨反対派も肯定派も気になる日本側の主張、内容が良くまとまっているはずなのに、たどり着くまでに時間がかかった……
      まず、Google検索では出てこなかったし、pdf形式だからwebブラウザからではとても見づらい。
      おまけにpdfのタイトル名がどの言語ヴァージョンでもついてなく、あっても「スライド1」となっていた。(要するにパワーポイント使って作ったことが一目でわかる、編集してない。さらに現在、Google検索エンジンは、タイトルと本文が一致していないものを省く傾向がある。)
      つまり、一般の人に周知させる気、全くないという印象がある。
      これだから諸外国の何も知らない人にネタとして叩かれたりするんだよ……

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    映画『エイリアン:コヴェナント』感想

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      JUGEMテーマ:映画

      映画『エイリアン:コヴェナント』チラシ2

      公式サイト:
      http://www.foxmovies-jp.com/alien/

      !問答無用でネタバレあり!
      ……というより、映画を観ていないと、ここに書いてあることが伝わりにくいかも汗


      第1作目『エイリアン』の原点に立ち返るようなパニックアクションだった。

      今回の登場人物たちはフェイスハガーやその原因を客観的に目撃した人間がいないので、突然体調を崩した人間の体内から、凶暴なものが現れる。
      何処に潜んでいるのかわからない、何故襲われるかもわからない。

      最善は、それに遭遇したらにげること――
      エイリアンが何物かよく知らないで下手に武器を手にして対抗すると、余計に自身に危害が及ぶ。

      勿論、全てが『エイリアン』の焼き直しではく、新しいデザインの外郭に覆われていない白く生々しいネオモーフに、黒いいつもデザイン(ゼノモーフ?)のエイリアンまで。
      エイリアンが知性のある生き物であることは分かっていたが、今回は頭を使うようになって、頭突きで強化ガラスを割ろうとしていた。

      前作『プロメテウス』以上に後味の悪いエンディング――前作からのアンドロイド・デヴィッドの罠にかかってしまった事――は、エイリアンが誕生する絶望よりもはるかに絶望的な臭いがする。

      死の芸術

      この映画で一番印象的だったのは、その芸術的な空間描写だった。

      ギーガーのドキュメンタリー映画『DARK STAR』を観たので、ギーガーの死を意識させる作風が、『エイリアン』に相応しいことを理解する。ギーガーの急逝で、どうなるのかと思っていた。

      今回は美術史におけるメメント・モリを強く意識させられた。

      • ディヴィットがショウ博士を埋葬したという場所は、明らかにベックリン《死の島》(※1)。

      • ディヴィットの研究施設はヴンダーカンマー(驚異の部屋)を彷彿させる。
        この世界を丸ごと捉えようとしたルネサンス的な一切智、万能主義のあり方を示したこの部屋は、同時に世界の全てをその手中に収めんとする野心の現れでもあった。(※2)

        愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎 (集英社新書ヴィジュアル版)
      • 元の“エンジニア”の用途は不明だがディヴィットが描いた巻物が積まれた書庫は古代ギリシア、ローマの図書室だろう。
        外の広場に転がる“エンジニア”の遺体の姿が、ポンペイの遺跡の石膏型を連想させて、そのイメージを強固にする。
      • ショウ博士は“エンジニア”の惑星へ向かう途中のコールドスリープ中に実験体にされ、その遺体はムラージュ(※3)か剥製(死蝋化?)にされていた。
        アナトミカル・ヴィーナス 解剖学の美しき人体模型
      • ショウ博士の墓で供えられた花はまるで鬼灯のよう。花の形は子宮のようだが堕胎のイメージにも結び付くし、それは前作『プロメテウス』でのことも暗示させる。……彼女の遺体の細胞が後のエイリアンエッグの材料となったのなら、デヴィッドはそれも踏まえて居るのだろうか?

      『エイリアン』はSFだが、ディティールは新しさよりも懐古趣味に満ちている。
      それが過去の遺物として“死”を連想させるのかも知れない。

      デヴィッドの名前の由来からも、聖書的な図像解釈は避けられない。
      『コヴェナント』公開前の公式ツイッターには、聖書の暗号を込めた数字がツイートされていた(※4)ようだし……
      映画全編を通して、そういうディティールに満ちている。

      違約

      映画タイトル「コヴェナント」の意味は“聖約”。
      侵しがたいイメージに反して、映画の中では入れ子のように様々な“約束”が違える。
      映画冒頭で、ダニエルズと船長の「湖畔に小屋を作る」ことが船長の死によって違えるのをはじめとし、人類移住計画のための惑星・オリガエ6への旅路は死の惑星への寄港により、クルーの殆どを失う。
      前作からの延長として、ディヴィットはショウ博士の「エンジニアは何故人類を滅ぼそうとしたのか?」の解答を得させず、ショウ博士の遺骸は墓にも納められず、実験体にしていた。

      そして冒頭の「湖畔の小屋」のキーワードが、エピローグでアントロイドがウォルターではなくディヴィットであることを確定させ、“違約”の不吉さを決定的にする。
      コヴェナント号は植民計画を遂行できず、ウォルターの研究・実験場と化し、コールドスリープ中の男女約2000人と人間の胚がエイリアンの宿主となるのだろう(クィーン・エイリアン誕生の布石か?)。

      人間そしてアンドロイドの誤解、勝手な解釈によって、“聖約”はどんどんかけ離れたものとなった。
      それはまるで、聖書に書かれた神との契約が人間の勝手な解釈で本来の意味を見失われ、失われていく過程に即しているように思えた。

      デヴィット / ウォルター

      前作からのアンドロイド・デヴィッドとその後継機であるウォルター、同じ顔(デザイン)で兄弟のような2体は、やはり意図的に関係があったのではないだろうか?
      デヴィッドとウォルターが繋がっていた、という意味ではない。

      ウォルターという名前は古語ゲルマン語の“支配”に由来し(※5)、デヴィッドはダビデ像――神の寵を賜り、羊飼いから身を起こした古代イスラエルの王――に由来する。

      古代イスラエルの初代王・サウルが神の寵を失いダビデが王になるように、ウォルターに替わってデヴィッドがコヴェナント号を支配できるのは、初めから仕組まれていたのではないかと……

      "My name is Ozymandias, King of Kings;
      Look on my Works, ye Mighty, and despair!"
      Nothing beside remains. Round the decay
      Of that colossal Wreck, boundless and bare
      The lone and level sands stretch far away.

      「我が名はオジマンディアス 王の中の王
      全能の神よ我が業をみよ そして絶望せよ」
      ほかには何も残っていない
      この巨大な遺跡のまわりには
      果てしない砂漠が広がっているだけだ

      オジマンディアス OZYMANDIAS :シェリー
      http://poetry.hix05.com/Shelley/shelley02.ozymandias.html (2017/10/9 確認)

      バイロンの詩と引用したデヴィッドに対し、その詩の作者がシェリーであることをウォルターが指摘する。
      この時既にデヴィッドは思い込みによって解釈を誤っていることを、示唆しているのだろう。
      絶対者として意のままに他を圧し、破壊と絶望を謳うようなニュアンスで詩を諳んじているが、意味は違うのかも知れない。

      コヴェナント号を掌握したデヴィッドは、2000人の男女が眠るコールドスリープの部屋に、ワーグナーの曲〈ヴァルハラ入城〉を聞きながら入室する。
      『ニーベルンゲンの指環』第1夜『ラインの黄金』の締め括りに流れるこの曲は、意気揚々と入城する神々の最後尾にローゲ(神々に破滅をもたらす北欧神話のロキ)が入る。そして本来あるべき黄金を奪われ涙する三人の泉の乙女の哀歌が重なっている。
      そしてこの曲は第4夜『神々の黄昏』のヴァルハラ炎上を暗示させる。

      即ち、破滅。

      旧約聖書において、ダビデ王――デヴィッドの名前の由来、ダビデ像――は様々な改革を成すも、それが神の国だったバビロンをダビデ(人間)の国としてしまい、神の寵――自身の権威――を失う。それ故にバビロンは滅んだという解釈をする。

      デヴィッドは数多くの“違約”をした。そのためデヴィッドにも破滅が訪れるのではないだろうか?


      エイリアンの謎が深まってしまった……

      コヴェナントのエンディングからリプリーの時間軸までは20年。もうワンクッションある模様。
      一作目の巨人・エンジニアの遺骸はミイラ化していたように思える。ならば“エンジニア”の種族は何処かで健在なのだろうか?
      あるいは……デヴィッドが行っている“創造”――エイリアンの創造――は、所詮“エンジニア”の二番煎じに過ぎないという象徴なのか?『プロメテウス』のエンディングもあるし……

      コールドスリープの部屋の扉を閉めるときデヴィットのコードが有効で、コヴェナント号の一連の事件はウェイランド社によって仕組まれたものではないかと邪推してしまう。
      ウェイランド社とエイリアンの関係の謎は深まるばかり……

      映画『エイリアン:コヴェナント』チラシ1

      『プロメテウス』を観た後、私はショウ博士とデヴィッドが向かうところは“死後世界”だと考えていた。(※6)
      ショウ博士たちがエンジニアの惑星にたどり着いても、既に全てが死に絶えているものと……
      そしてその遺跡から人類を滅ぼそうとした理由(それが例えば『プロメテウス』冒頭で黒い水を煽った“エンジニア”が何かの罪人で、その贖罪のために人類は生まれた、とか※7)が分かってから、デヴィッドが暴走するとか、エイリアンの卵を発見してしまう……などと想像していた。

      しかし”エンジニア”達の死はディヴィットによってもたらされてしまった……
      『プロメテウス』の冒頭、ショウ博士が夢で“死後世界”について父と話していたことを回想していた。
      『コヴェナント』で死の後にあった世界――それは現世の苦しみを癒す天国でも、行いについて裁かれる地獄でもなく、ただ暗い死だった。

      “エンジニア”による人類創造の理由は失われ、エイリアンと人類の関係とは人間の被造物・アンドロイドの違約によって生まれたもの、ということが‘人類とエイリアンの関係’なのだろうか?

      1. 1 【完全解説】アルノルト・ベックリン「死の島」 山田視覚芸術研究室[近現代美術の基礎知識]
        https://www.ggccaatt.net/arnold-böcklin/ (2017/10/9 確認)
      2. 2 丁度、アルチンボルド展を観た後だったので、このラボがヴンダーカンマーの様相をしている理由が、デヴィッドのの野心――生命創造の探求心にある、その世界を掌握したような、全能感――があることを見出す。
      3. 3 

        16世紀ルネッサンス時代のイタリアで作られた、解剖した遺体を型どりした蝋の模型。

        ムラージュ(Wikipedia, 日本語)
        https://ja.wikipedia.org/wiki/ムラージュ (2017/10/9 確認)

      4. 4 徹底考察!『エイリアン: コヴェナント』解読記 ─ 謎の数字、聖書のストロングナンバーに置き換えると…? | THE RIVER
        https://theriver.jp/alien-covenant-code/ (2017/10/9 確認)
      5. 5 Walter/さらに怪しい人名辞典
        http://www2u.biglobe.ne.jp/~simone/more/pan_nz/walter.htm (2017/10/9 確認)
      6. 6 【過去日記】『映画『プロメテウス』考察――“信じる”という人間性』
      7. 7 【過去日記】『映画『プロメテウス』考察――神話における巨人の人類創生と人間が失った神性』
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      映画『DARK STAR / H・R・ギーガーの世界』感想

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        映画『DARK STAR / H・R・ギーガーの世界』チラシ

        公式サイト:
        http://gigerdarkstar.com/

        生前からもはや神だった、H・R・ギーガーに密着したドキュメンタリー。
        映画『エイリアン: コヴェナント』を観る前に、敬意をこめて。

        映画『エイリアン』関連のことに言及するのはわずかだったけど……
        エイリアンの卵の割れ目が最初1本筋だったが、「ヴァギナみたい」という理由から、十字架を彷彿させる十文字にしたとか。
        ホドロフスキーの『DUNE』に関してはかすりもしなかった。(仕方ない)


        映し出されるのは、剪定されていない木々に覆われている家。
        鬱蒼とした庭にはギーガーのオブジェ作品が木々に埋もれるように配されている。
        扉が軋む音を立てて、暗い家の中――ギーガーの自宅――へ誘われる。

        まるでホラー映画の冒頭のよう。

        暗い彼の家は、彼の頭の中だった。

        蒐集癖の賜物の汚部屋。究極の秩序ある?混沌。
        彼自身の作品だけではく、地層のように山と積まれた本や書類?紙束。カラーボックスは重みに耐えかね歪んでいる。
        本物の人間の頭蓋骨に剥製など“死そのもの”の物品が、陳列されているのか無造作に置かれているだけなのか、置ける場所に置いてある。

        重苦しく、息ができない。(まるで私の実家のようだ)

        彼女の元パートナーで助手の証言によると、ある日家を訪れたらひどい臭いが充満していたので原因を探し当てたところ、水を貼ったバスタブの中から山羊の頭(本物)が出てきたこともあるそうだ。あと、家のドアを作品に使うライオンの骨が邪魔して開けられなくなったこともあるとか……

        「戦争経験者は収集癖が強い」と映画内でも精神科医が言っていた。
        それは執着、混乱など……人間の影や闇という言葉で表す暗い面だ。
        個人的にはただ「もったいない」という思いだけではなく、かつて手に入れられなかった本当に欲しかったものの“代用品”であるため、満足できないことも一因ではないかと思う事がある。それはもう二度と手に入らないもので……
        その“もの”はもしかしたら物質的なものだけではないかも知れない。

        物に囲まれ、遮光カーテンに覆われ、外の光の侵入を遮られた部屋は闇――悪ではない。人間の深部――の世界だった。

        道徳や秩序によって抑圧、排斥された暗い面。
        死を彷彿とさせると同時に、暗い画面に浮かび上がる赤子の顔の群に象徴されるような「胎内回帰」でもある。
        精神科医のギーガーの分析は的を得ていると思う。ただ、ひとくくりに“悪”という言葉で表して良いかについては、私は難色を示す。
        確かにサタニックなイメージもあるのだが、サタニック故に“悪”なのか?
        《The Spell (呪い )》の両脇にいる、白と黒の女性像の恍惚とした表情に悪意も性的な愉悦に依存しているような素振りもない。
        寧ろ神聖なものとしての荘厳さを漂わせている。

        私のその思いを補完するように、学芸員がギーガーの作品の中には“光”があると言っていた。(実際、ただ闇では何も見えない事になるだろう)

        ギーガーの創作の原点――アフガン戦争と反戦、恋人の死――死の衝撃を昇華するために描き続けた彼を、関係者はその「人間の闇の部分に踏みとどまって作品を作り続けた」と評する。

        人に霊感を与える存在として、多くのクリエイターが猫を飼う傾向がある。ギーガーも例外ではないようだ。
        全編を通してギーガーの飼い猫・ムギ(MÜGEE )が、映画の進行を先導するように映り込んでいる。
        混沌と暗闇の世界をすいすいと歩む姿は、まるでア・バオ・ア・クゥー(導きの獣)(※1)だ。
        ムギのお陰?で鑑賞者もギーガーの世界に飲み込まれずに済む(笑)

        ドキュメンタリー映画だが、この映画もギーガーの作品のように思えた。
        それはあらゆるものを飲み込むようなギーガーの――光を反射するものが無く、吸収してしまう闇の――世界ゆえだろうか?
        否、監督、制作者が映らないよう、さらに制作側の意図や情報が偏向しないように心がけているのだろう。バランスが取れたドキュメンタリーとして素晴らしい。

        私も行ったことがある、スイスのギーガー美術館
        向かいのバーに、私は滞在時間の都合上入れなかったのが残念……

        美術館で行われたサイン会では、タトゥーを入れたパンクな人々が集っていた。本だけでなく腕にペンで書いてもらう人、感極まって涙する人……シャツを脱ぐと背中全体に《Li 供佞彫られている人まで!
        ファンとの交流が心温まる。(そして凄く羨ましい)

        でも…まぁ……私はバーにある脊柱レリーフの製作風景を見れたのは嬉しい。

        美術館開館や自分の作品を使ったバーの制作だけでなく、幼少の頃に衝撃を受け創作のイメージの源泉となった幽霊列車を自宅の庭に走らせ、「好きなこと好き放題した」彼は言う。

        「やり残すことは何もない。満足だ。」

        ミケランジェロのような達観だった。

        ギーガーは彼の死生観――輪廻転生――を否定する。「いちから再びやり直すのは嫌だ」と。
        きっと彼はもう、転生して来ないだろう。


        この映画を撮り終えた後、ギーガーは亡くなった。

        玄関の階段、2階に上がる階段、地下室へ降りる階段――
        どれも年季が入っているため、人が使うとギシッ、ギシッと音がする。
        今にも踏み抜いてしまいそうな音だった。

        ギーガーの訃報を聞いたとき、自宅の階段から転落(※2)とのことだった。
        あれら階段のうち、一体どれだったのか……
        ホラーやサスペンス映画で、階段の軋む音は恐怖の来訪を暗示する。
        私は映画を鑑賞しながら、この音は運命を感じさせるものとして、緊張感のあるものだった。

        映画内でも、生前のギーガーは(シャイすぎて)インタビューを受けることが苦手だったことが窺える。
        そんな彼がドキュメンタリー映画に応じたのは、死に魅せられていた彼は己の死期さえ悟っていたからだろうか?

        1. 1 ア・バオ・ア・クゥー (Wikipedia/日本語)
          https://ja.wikipedia.org/wiki/ア・バオ・ア・クゥー
        2. 2 「エイリアン」デザイナー、H・R・ギーガーさんが転落死 74歳
          https://www.cinematoday.jp/news/N0062938
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        映画『パッション・フラメンコ』感想

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          JUGEMテーマ:フラメンコ

          映画『パッション・フラメンコ』チラシ

          フラメンコ界の巨匠6人への敬意を示した舞台『ボセス フラメンコ組曲』の制作・公演に密着したドキュメンタリー。
          サラ・バラスの活動の軌跡、エンターテイナーとしての姿勢を垣間見るものだった。

          フラメンコ界の巨匠6人――パコ・デ・ルシア(※1 / 昨年、彼のドキュメンタリーを見た)、アントニオ・ガデス(※2)、カルメン・アマジャ(※3)、カマロン・デ・ラ・イスラ(※4)、エンリケ・モレンテ(※5)、モライート(※6)に捧げられた舞台。
          それは6人の巨匠を表しているのではなく、6人の巨匠が表現してきたものを受けてサラが得たものを表現して――“ボセス/声”として――届ける、というものだった。

          • パコ・デ・ルシア――努力
          • カルメン・アマジャ――反骨
          • エンリケ・モレンテ――決意
          • カマロン・デ・ラ・イスラ――自由
          • アントニオ・ガデス――向上
          • モライート――喜び

          巨匠たちのイメージと彼女の半生のイメージが共鳴するドキュメンタリー。
          インタビュー(声/ボセス)もまた、舞台の一部となっていた。

          カウロス・サウラ監督映画『フラメンコ・フラメンコ』で真っ赤な衣装を纏い高速ステップを披露していた彼女。
          現代バイラオーラの女王と形容される彼女が、先人の活躍した女性たち――カルメン・アマジャやフリーダ・ガーロら――に自身を重ね合わせ、女性ゆえの苦悩や故郷にいる幼い息子・ホセのことを想う母親の一面を垣間見せる。

          新人時代の彼女は、来日し伊勢丹会館のエル・フラメンコ(現ガルロチ)の舞台に立っていたとは知らなかった……!
          遠い異国の地(私にとってはこの国)で、バイラオーラとしてのキャリアを始めたということに驚いた。

          「高層マンションに住みたかったけれど」

          訪れたのは彼女が滞在していたらしい、都心の小綺麗な1DK(日当たりよくない?)。 ごめんなさい、日本の都市部住宅事情……

          サラはそこで原点回帰、再認識したようだった。舞台を作るということの。

          それは人に感動を与えるという事だったのだろう。

          私が通っているフラメンコ教室の先生もおっしゃっていた。
          「観客やカンテ、ギターさん、周りの人々から力を貰って、それを爆発させる」
          バイレ(踊り手)ひとりが観客や周りの人間に感動を与えるのではない。

          そしてその感動は力となる。

          レット症候群の啓蒙活動

          それは舞台での表現に止まらない。
          サラはレット症候群(※7)の啓蒙活動にも参加している。

          よく、有名人の慈善活動は売名行為のようにとられるが、己の知名度を活用するのではない。観客の感動に訴えているのだ。
          感動している人間は協力してくれることを、よく知っている。
          拍手が最高潮になったとき、彼女は支援を呼び掛けるTシャツを着る。
          効果的な瞬間を理解しているのは、エンターテイナーのプロ故だ。

          そして私も、レット症候群を認識する機会を得た。

          リアリティの非日常 / 幻想の日常

          興味深かったのは、コントラストが激しい舞台風景とフラットな陰影で写し出される日常の対比。
          パリ、メキシコ、ニューヨーク、東京、そして母国スペインの故郷・カディスの風景は、都市ごとの空気の違いを極力感じさせない。
          スペインにいても、その言葉でイメージされる強烈な日差しは見えない。青い空と黒い影も。
          曇りや雨、雪の日。何処か色褪せたように感じる、アンニュイな都市の情景。それが日常というものなのかもしれないが……

          まるでフェルメールの絵画のような、ちょっとピンぼけしている(※8)街の情景は注視しても掴みづらく、それ故に注視しえしまう。幽玄だった。

          それに対を成すのが舞台の照明。
          黒い影と映し出される彩度がはっきりとした、衣装の色。
          そこに明暗がはっきりするスペインの空気を垣間見る。

          最後を飾る、ステージ中央から拍手喝采の観客席を映すシーン。
          スポットの光と迫ってくる拍手の音に力を貰うような圧倒される光景だった。

          1. 1 Paco de Lucía(1947 – 2014)
            ギタリスト。フラメンコだけでなく、ジャズ分野でも活躍。
            https://ja.wikipedia.org/wiki/パコ・デ・ルシア (Wikipedia, 日本語) (2017/9/12 確認)
          2. ※2 Antonio Gades(1936 – 2004)
            バイラオール(フラメンコダンサー)。振付師、俳優としても多数の映画などに出演。
            https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_Gades (Wikipedia, English) (2017/9/12 確認)
          3. ※3 Carmen Amaya (1913 – 1963)
            バイラオーラ(フラメンコダンサー)。圧倒的な表現力で“伝説”“女王”と呼ばれる。女性で初めてパンツスタイルでフラメンコを踊った。
          4. 4 Camarón de la Isla(1950 – 1992)
            カンタオール(フラメンコ歌手)。
            https://en.wikipedia.org/wiki/Camarón_de_la_Isla (Wikipedia, English) (2017/9/12 確認)
            知ってなきゃ洒落になんないフラメンコ歌手 カマロン・デ・ラ・イスラ| ならんひーた
            http://blog.naranjita.com/?eid=1075244 (2017/9/12 確認)
          5. 5 Enrique Morente(1942 – 2010)
            カンタオール(フラメンコ歌手)。
            https://en.wikipedia.org/wiki/Enrique_Morente (Wikipedia, English) (2017/9/12 確認)
            知ってなきゃ洒落になんないフラメンコ歌手 エンリケ・モレンテ | ならんひーた
            http://blog.naranjita.com/?eid=1075258 (2017/9/12 確認)
          6. 6 Moraíto Chico II(1956 -2011)
            ギタリスト。
          7. 7 レット症候群
            https://ja.wikipedia.org/wiki/レット症候群 (Wikipedia, 日本語) (2017/9/12 確認)
          8. 8 フェルメールの絵画に見られるソフトフォーカスによるピントが合わない絵画を見て、鑑賞者の脳は焦点を合わせようとするが、絵そのものがピンボケしているので、その像は永遠に結ばれない。視神経と脳のズレがもどかしく、人はそれに注視してしまう。
            【過去日記】北川健二『フェルメール絵画の謎の本質を読み解く』
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          映画『BLAME!』感想 ――廃墟美学、人工知能とセキュリティ

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            JUGEMテーマ:SF映画 一般

            映画『BLAME!』チラシ

            公式サイト:
            http://www.blame.jp/

            20年の時を経て、(ようやくまとも?に)アニメ化!

            3DCG描画の技術向上と、『シドニアの騎士』ヒットのより実現……キラキラ

            !下記、ネタばれあり!

            あらすじ

            増殖した機械都市――人工物に閉鎖された世界――の中で、セーフガード“駆除系”に怯えて生きる人間。
            ハイテクがロストテクノロジーとなり、食料確保のため外に出るときに身に付ける装備以外、原始的な営みをしている「電基漁師」たちの“村”の人々。

            食糧確保のため遠征した「電基漁師」の若者達は、セーフガードに襲われる。
            窮地を救った、“ネット端末遺伝子”を探す旅人・霧亥と彼によって村の下層から発見された科学者・シボの進言により、“ネット端末遺伝子”の機械的な代用品を用いれば、“駆除系”を止める事も可能だという。
            窮地に陥っている村の安全と今後を考え、その試みに賭けてみたいと考えた“村”の頭領・おやっさんらと共に、シボの“ネット端末遺伝子”の代用品を製造できる「自動工場」へ向かう……

            廃墟都市情景と人間の生き方

            物語は完全に「電基漁師」たち人間側の視点で描かれる。

            「自動工場」へ向かう間の都市風景は軍艦島を愛でるような廃墟を楽しむ情景――人間の興亡に思いを馳せる、カタルシスがある。
            「文明が発達している・いた」描写は、シボの回想における塊都のみ。

            人が居なくなった巨大都市の廃墟で一夜を明かす電基漁師たち。

            夜営のため「火を見つめていると心が落ち着く」と語るおやっさん。
            “駆除系”が現れるときイオン臭がするという。
            視界を覆うハイテクなゴーグルに頼らず、生きるために五感を研ぎ澄ます。

            窒息してしまいそうな閉塞感の世界。空も大地も、有機的なものが無い世界にありながら、人間が非常に生物らしく生きているような描写だった。

            人間は本来、“ネット端末遺伝子”を持たなくても生きていける力が備わっている。現実世界の“あたりまえ”にはたと気付かされる瞬間でもあった。

            しかし、機械都市――基底現実――において“ネット端末遺伝子”を持たない人間はセーフガードによって「不法滞在者」と見なされ、排除対象だった。
            それが『BLAME!』の世界における戦いの理由だった。

            おやっさんをはじめとする「電基漁師」の人々、“ネット端末遺伝子”を持たない人間は、そのハイテクに触れなれない/触れない。 混沌とした世界の問題の本質を知る由もない。

            入場者特典第2弾 大ヒット御礼弐瓶勉メッセージ入りポストカード

            原作者に再構築されたハードSF

            原作の三つ巴で複雑な要素が削ぎ落とされ、シンプルになった物語設定。
            そのため、有機的な配管や増殖した肉塊、巨大蟲の姿は無かった。
            原作で重要な位置を占める珪素生物達、その他亜人、人種も……

            でもコミックにおける風景がフルカラーになって展開される点で満足。

            建築会社に勤めた経験をお持ちの原作者・弐瓶勉先生の、若干狂っているけれど執念で描かれた手書きパースの世界は、3DCG技術の向上で格段に表現しやすくなった。(セル画、手書きの頃は、動画でそれを再現すること自体にかなりの労力がかかっただろうし。)
            ……でも有機的な物体はまだ難しいのだろうか?動きとか、情報量が多くなってしまうとか、不自然さが残ってしまうとか…?

            単純に、尺の問題なのかも知れないけれど。

            第三者の下手な改編ではなく、原作者・弐瓶勉先生自らリビルド(再構築)した物語は綺麗にまとまっていたし、ファンには堪らないネタ――「シャキサク(※1)」や「でかい娘さんだなー」などちょっと可笑しさを誘う描写――も折り込まれ、原作を“壊していない”ことを意識させられた。
            それにしても「シャキサク」……あんな秘密(?)があったとは!私はてっきり、カロリーメイトみたいなものだと思っていたのに……!

            原作『BLAME!』1巻〜4巻に相当。(新装版では1〜3巻?)

            BLAME!(1) (アフタヌーンKC)BLAME!(2) (アフタヌーンKC)BLAME!(3) (アフタヌーンKC)BLAME!(4) (アフタヌーンKC)

            霧亥がセーフガードと表示されながらも違う理由は原作にチラッと語られるのだが……

            人工知能、ディープラーニング

            現実世界に目を向けると、ここ数年、人工知能の話題に事欠かない。
            その「今」に、『BLAME!』が映画化したことは、ちょっとタイムリーにも思えた。
            『BLAME!』は人工知能だけでなく、生体工学や極度に発達したユビキタス社会も出てくるけど……

            原作でも映画でも、統治局が管轄している都市管理システム・ネットスフィアにアクセス(進言とも言えるか?)できるのは“ネット端末遺伝子”を持つ人間だけ。
            セーフガードは本来、“ネット端末遺伝子”を持つ人間(正規ユーザー)を守るために、不法アクセスをする“ネット端末遺伝子”を持たない人間を排除する存在だった。 しかし“感染”による変異によって人類は“ネット端末遺伝子”を持たなくなってしまう。
            統治局から完全に独立しているセーフガード(セキュリティシステムの在り方から見たら、それは正に完璧なシステムと言える)は、人類を不正アクセスする存在――不法滞在者と見なしている。
            統治局はその事態を重く見ているが、セーフガードに干渉できない。
            だからこそ、ネットスフィアに正規アクセスできる“ネット端末遺伝子”の発見が必要不可欠である――
            霧亥の旅の目的だ。

            同時に、こうも考える。
            セーフガードという人工知能は“感染による変異”というイレギュラーな事態に対して、臨機応変に対処しきれなかった。すなわち、
            人工知能にプログラムされた命令を超えることは出来るのか――?

            映画『マトリックス レボリューションズ』の終盤、“ゼウス・エクス・マキナ”はオラクルとの会話では「私は機械だ。約束は守る」と言っていた。一度決めたことは反故にしない、機械故の融通の利かなさと取るべきか?
            それに似た判断か、裏目に出た『BLAME!』の世界では人類が滅びかけている。

            それを解決しそうな気がするのが、今注目されている人工知能の機械学習――ディープラーニング(※2)かも知れない。
            人間がプログラムを組むよりも、事態に素早く、被害を最小限に抑える対応が求められるのだから。

            そう考えたが、統治局はディープラーニングができているのか“感染による変異”という事態を理解しているが、セーフガードは愚直なまでに初期の命令を遂行している。セーフガードにはディープラーニングが組まれていないのだろうか?

            ソフトウェアは常に更新されていかなければならない。私たちの現実の世界で、ディープラーニングのその先にあるシンギュラリティ(技術的特異点)を人工知能が獲得するとき、セキュリティは臨機応変に対応できるプログラムが成されるのだろうか?

            しかし、セキュリティでもあるセーフガードが独自に排除対象を選ぶとなると、それは機能を果たしていないことになる。
            完全に独立し、命令を遂行する方が、やはり“セキュリティとして正しい”のだ……

            『BLAME!』、やはりよくできたSFだった。

            1. 1 【ネタバレ有】映画「BLAME!(ブラム)」の感想・あらすじ/原作未読でも楽しめるSFファン必見の作品!
              http://www.birumendesu.com/entry/BLAME%21-Movie
            2. 2 ディープラーニングは何が「ディープ」なのか:日本経済新聞
              http://www.nikkei.com/article/DGXMZO11923100Q7A120C1000000/
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            映画『美女と野獣』感想 ――地続きである自己肯定と愛の成就

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              JUGEMテーマ:映画

              映画『美女と野獣』チラシ

              公式サイト:
              http://www.disney.co.jp/movie/beautyandbeast.html

              現代の風潮に合わせた『美女と野獣』だった。

              “ありのままの自分“でいることを肯定することを強く推すようになった昨今のディズニー映画。

              原作の結末を改変し、ご都合主義的な愛の成就も多かったが、最近はそういった“子供だまし”的な描写が無くなったように思う。

              今回の『美女と野獣』は、自己肯定から自己実現することにより安定した精神がお互いを尊重する“愛”となることを、描写するようになったと、私は考えている。


              音楽――ミュージカル

              アニメもそうだったが、ミュージカル調の場面展開が印象的。同じエリア上にいるはずなのに人物の服装の色味が変わったり花籠が出現して、主要人物の心象、キャラクターを表現している。

              ミュージカル音楽はアメリカの十八番。ディズニーはそれをアニメ作品に積極的に取り入れていたと思う。
              90年代のディズニーアニメーションでは積極的に取り入れていたけれども(※1)、2000年代に入ってからあまり見られなくなったような気がしていた。(単純に私が見なくなっただけだったか?)
              『アナと雪の女王』の"Let it Go"を聴いたとき、心に沁みる音楽で、原点回帰したと思った。

              その原点回帰の象徴か、実写映画の技術がようやく追いついたのか、今回の実写映画化は非常に興味があった。
              かつてビデオで見た映像がほぼ実写化し、懐かしい曲が歌われる――

              リアリティとフィクション、そして時事

              18世紀フランスらしい、ロココ調のデザインが随所に見られる。
              ドレス、化粧、調度品……
              更にはアニメ版には描かれていなかった、パリの風景(屋根裏部屋の窓越し)まで。
              原作の『美女と野獣』が18世紀フランス文学であることを踏まえていると思われる。

              また、ベルが本を借りに行くのが教会だった。
              アニメ版では本屋に本を借りにいっていた訳だが……日本には貸本屋があったけれど、世界にもあったのだろうか?
              18世紀では公共の図書館など普及しておらず、当時、蔵書は貴族か聖職者しか持っていなかった。
              教会の少ない本を借りに行く描写は妥当だと思う。

              リアリティを“ちょっと”混ぜることで、子供だましを大人向けにしているような気がした。

              それ故に気になってしまったのが、人種の問題……
              勿論、アメリカが多人種・多民族の国家であること、映画業界が表現に人種、性差別をしてはならない方針を打ち出した理由は承知している。
              しかし……ステレオタイプなイメージを持っているためか、違和感として写ってしまった……
              社交界に有色人種が華やかな服を纏っていることに……

              それは前述のリアリティとの齟齬として、私が受け止めてしまったためだろう。

              ……!
              “映画”ではなく、アメリカの“ミュージカル”を観劇していると思えば良かったんだ!

              親子関係と自己肯定感

              パリの場面で、ベルが父子家庭である理由――恐らくペストにより母親が亡くなったこと、同じく野獣も病弱な母を亡くした事が描写される。
              同じ境遇でありながら、雲泥の差がある二人。
              自分の望みを自覚し邁進するベルと、自身の望みを知らず心の飢え・渇きを表面的な美の追求で補おうとした野獣(王子)。今回の映画はその対比を強調する。

              それは父親の存在が大きく寄与しているように思われる。

              惜しみない愛情を受けたベルと違い、 高い教養を受けながらも厳しくしつけ(という名目の抑圧と無関心のネグレクト)られた王子。
              野獣の姿(イメージ)に囚われていたのは、魔女の呪いである以前に、自身のイメージ(人間/等身大の姿)を認識できていなかったためではないだろうか?

              映画の冒頭では、王子はおそらく領地内の美しい人を選び抜き、妻を選ぼうと宴を開いていた。
              愛と所有欲が同義になっていたのではないだろうか?
              それはガストンも然り。

              野獣は愛を知ることで自己を回復し、 自己を回復することで愛を深めた。また「私は野獣ではない」と言う(自己を認識する)ことができた。
              そうした積み重ねを見届けて、魔女は呪いを解く。

              最近、私は自己肯定と自己実現、愛の成就は関連していると考えるようになった。

              聖書にも多くその言葉は表れ(※2)、「隣人愛」という言葉で表現されている。聖書の「隣人を愛せ」の行の前には「汝自らを愛するが如く」とある。

              自分を愛せなければ、他人を信頼し愛することはできず、また愛される事もできないのだ。

              それにしても……最近のディズニー映画は心理学的な内容描写を盛り込むようになったのは、気のせいだろうか……? 『塔の上のラプンツェル』は毒親問題、『シュガー・ラッシュ』の自己啓発セミナー、『アナと雪の女王』は自己肯定感の模索、『ベイマックス』のケア(カウンセラーのような役割)……

              もしかしたら、今回の『美女と野獣』では、魔女がカウンセラーのような役割を担っているといっていいのかも知れない。
              魔法で姿を変えたり季節を変えたり、人の記憶まで操れる彼女。そんな力を持ちながら当事者たちから距離を置きながらも、要所で人知れず力を貸している。
              問題の克服は“当事者”の自主性が必要なこと、それを促すのがカウンセラーの役割なら、魔女は野獣に愛を学ばせるためのカウンセラーだった。

              ありのままの、あるいは囚われない生き方――同性愛、男女同権

              LGBTという言葉が認知されるようになった昨今。それ故に導入された同性愛者の表現が、案の定物議を醸したようだ。

              ゲイであることを公言している俳優、ルーク・エヴァンスが起用されたのも、容姿だけではなくLGBTへの偏見の払拭(とそのアピール)、ダイバーシティへの取り組みの一環があるだろう。

              ルーク・エヴァンス、映画『ハイライズ』もそうだけど、最近ワイルドな悪役を演じる傾向が多く、板に付いてきた気がする……

              そういえば、ガストンのキャラクター性も変更されている。(※3)
              アニメ版で「無作法で自惚れ屋」と評された彼は、ハンターではなく村を守った帰還兵、英雄だった。
              その理想像は男性性の負の面(所有原理は支配欲、英雄願望は他者を救うのではなく傷つける方に特化)に変質し、強調する。
              そこから(男性)社会において抑圧される女性像――家庭に縛られ、女性に教育は不要、「年齢的にも子を産むこと」、そのための「結婚」という価値観を押し付ける――という、少し前の前世紀には“当たり前”だった価値観を思い出させ、今はそれを破戒することを想起させた。

              1. 1 【今週のクローズアップ】特別枠「ディズニー・アニメーション90年の歴史」【後編】 - シネマトゥデイ
                https://www.cinematoday.jp/page/A0004086
              2. 2 レビ記 19章18節
                あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
              3. 3 「美女と野獣」を比較!実写版とアニメの違いは31個もある!ディズニー映画 - アートコンサルタント/ディズニーやミュージカル、ビジネス情報サイト
                http://artconsultant.yokohama/beautyandthebeast-animated-live/
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              映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』感想

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                JUGEMテーマ:フラメンコ

                映画『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』チラシ1

                公式サイト:
                http://www.uplink.co.jp/sacromonte/

                フラメンコの“元祖”を観る映画だった。

                今日明日生きること――
                生活の糧を得るためのフラメンコであり、「今、ここにいる」ため、自己を表現するために踊っている。

                そのフラメンコの技術は、洞窟のコミュニティの中で受け継がれてきた絆にも等しいようだった。

                19世紀、ヨーロッパ圏でも特異なその異国情緒から巻き起こったスペイン・ブーム……そのきっかけとなるフラメンコと闘牛は、共にロマ達――アンダルシアの人々は誇りをもって自らをヒターノと呼ぶ――低所得者の文化だった。

                時々映し出される、サクロモンテの洞窟内部の壁に掛けられた品々は、ヒターノとフラメンコにとって重要なものばかりだ。
                皿などの銀製品、すなわち金属の加工技術は、ロマの人々の生計を支えていたし、ロルカの肖像には彼が発表した詩の数々を想起させられた。

                ドビュッシー、ファリャなど、数多くの芸術家を魅了したフラメンコ。
                それを見るために、多くの人がスペインを訪れた。

                そしてフラメンコ(と闘牛)が観光業としての魅力が注目され、国を挙げて“スペインらしさ”の象徴となった。
                現在は舞台芸術として洗練されてゆくフラメンコ。

                フラメンコを教える専門の学校もある。

                「学校なんか行かなかった」
                「自分で目で見て覚えていった」

                映画に出演するサクロモンテ出身のフラメンコ・アーティストたちは口をそろえる。

                ギルドのように地域コミュニティの中で伝承され、自ずと獲得していったフラメンコの技術。

                そこに垣間見る、自己を律し生きる強い意志――
                インタビューに答えるアーティスト達が時に垣間見せる自身の半生には、色恋沙汰も仄めかされるが、たとえ悲恋であってもそれに打ちひしがれた様子を微塵も見せず、力強い。
                苦悩をはじき返すように。

                ロマの人々は、人が集まれば、老若男女問わずどんな場所でも踊っていた。
                これらがフラメンコの“元祖”だった。

                現在のフラメンコにある、靴音を鳴らす技巧を重視するのではなく、もっと思うままに即興で踊るような様は、黒人音楽としてのジャズにも似ている。

                チラシにも使われている、ラ・クキと呼ばれる老齢のバイラオーラ(女性踊り手)は、踵がたかくしっかりした現在のフラメンコシューズではなく、かわいいスリッパで踊っていた。

                彼らが歌い上げる、泥臭く下世話な歌詞。

                映画『フラメンコ・フラメンコ』にあったような美意識はなく、また、最早意味があるのか分からなくなった、詩的な歌詞とも違う。

                トマトトマトについて(!?)歌い、時にあけすけに下世話な話セクシーを歌い上げていた。

                1963年 
                偉大なバイラオーラ、カルメン・アマジャの死と、その年に起こった大洪水によりサクロモンテの洞窟は水没・崩壊の危険に見舞われる。

                当時の政府の方針で、ロマの人々は強制的に移住させられる。
                それはフラメンコのひとつの時代の終焉だった。

                ロマの故郷喪失――
                自然災害によるコミュニティの崩壊は、現在の日本を生きる私にとって、311のイメージに繋がってしまう。

                コミュニティが散り散りになり、かつてのような盛況を見せなくなってしまうサクロモンテ。
                人がいなくなったサクロモンテは、フラメンコ発祥の地としての価値からか、外国人の買い手(その中には日本人もいたらしい)ついたり、ロマのコミュニティとしての機能が無くなってゆく……

                とはいえ、全てが途絶えてしまったわけではなく、新しい土地で再びフラメンコを行ったり、コミュニティの繋がりを維持していく。
                同時に、閉鎖的・排他的なイメージが強かったロマの人々も、ロマ以外の人々を受け入れ、混血も進むなどの変化を受け入れてゆく。
                それ故に、フラメンコに新しい息吹が吹き込まれていったのだが……

                ロマとフラメンコのひとつの時代の終焉とかつての記憶を記録する――
                パコ・デ・ルシアが晩年、歌謡曲への関心を持ったように、映像に残す試みのように思う。

                フラメンコの学校の話にもつながるのだが、フラメンコの世界では、バレエなど他の舞踏に見られる要素が取り入れられ、舞台芸術として洗練されていっている。
                それでもフラメンコは“フラメンコらしさ”を失わず、世代を超えて受け継がれてゆくのだろう。

                それは映画の最後にサクロモンテの洞窟の一室で、コミュニティの3世代が集い、各々踊りや歌を披露する姿に集約されていた。

                映画『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』チラシ2

                フラメンコやロマの歴史を抜きに、音楽と舞踏を楽しめる面白い映画だった。

                フラメンコを習っている私にとっては、生のリズムを聞く良い機会にもなった。 洞窟に響く、踊り手のパサデアート(足で床を打ち鳴らすこと)やカンテ(歌)は重厚感があり、今、感じることができないフラメンコの“音”があることを知った。

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                映画『沈黙 ―サイレンス―』感想

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                  JUGEMテーマ:映画

                  映画『沈黙 ―サイレンス―』チラシ

                  公式サイト:
                  http://chinmoku.jp/

                  学生の時、授業で一部読んだ遠藤周作『沈黙』が、マーティン・スコセッシ監督によって映画化されると聞いて……ディープな物語で憂鬱になるのではと臆していたのだが、予告編を見ていたら、観たくなった……

                  多様な解釈ができる映画だった。

                  あまりに多くの人間と諸々の葛藤が描写され、胸を打つ。
                  そして鑑賞者はキリスト教義の枠に留まらない普遍的な問題を突きつけられる。

                  人間の“信じる”とはいったい何なのか?という事だった。

                  キリシタン弾圧下の日本で棄教を迫られ、「信仰とは何か?」という問いだけでなく。

                  映画『プロメテウス』考察――“信じる”という人間性にも通じる内容だった。

                  それらは乱反射し多様に輝くプリズムのようで、 多彩な輝きに目がくらみ、掴めない、認識できないもののようだった。

                  何を書いても、それはこの映画の一面に過ぎない。どうしても断片的な書き方になってしまう。
                  でも書かないよりは書きたくなるので、したためておく。

                  以下、!エンディングのネタバレあり!


                  沈黙と音

                  蝉の鳴き声

                  映画の冒頭から聞こえる、晩夏の蝉の鳴き声は、沈黙(無音)に対を成すようにかしましい。

                  ギリシャ出身で、日本に永住した民俗学者・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は「世界中で、蝉の鳴き声を騒音と思わず、美しいと感じているのは古代ギリシャ人と日本人くらいだ」(※1)と言ったという。

                  スコセッシ監督はそれを踏まえているように思えた。

                  日本人の私には(微妙に時間軸に合わない虫の鳴き声が混ざっていたが)時間が流れ、日々が過ぎ、四季の移り変わりがあることを意識させた。

                  同時に、それがロドリゴ神父の心境の変化をも暗示しているのかも知れない。

                  蝿の羽音

                  虫の鳴き声がかしましく感じる中で象徴的な、蠅が飛ぶ音。
                  不快感を呼び起こさせ、更に不潔よりも死の臭いを連想させる。

                  キリシタン弾圧を強める井上筑後守が現れる時と、何度も踏み絵をしたりロドリゴ神父を密告しながら、獄中で懺悔したいというイチジローの姿がある時に、その音がする。

                  ある種の悪意を暗示しているのだろうか?
                  それが井上のものなのか、イチジローのものなのか、はたまたロドリゴ神父が内に秘めたものなのかは、定かではない。

                  読経

                  もう一つ、音で興味深かったのは、寺での読経の声だった。
                  案内された寺で、自然音も聞こえない静寂の中に響く、坊主の読経。
                  日本に既存の宗教観の描写である訳だが、その読み方が私がお寺で聴く読経の仕方とイントネーションの置き方?が異なるため、気になった。

                  同時に、映画の中の読経がキリスト教の讃美歌と通じるもののように描写されているのではないだろうか?と考えてしまう。
                  どこか精神的な落ち着きをもたらすような響きに。

                  キリスト教と日本の仏教の違いを、どこかシンメトリックに表現しようとしたのではないだろうか?

                  宗教音楽に精神的高揚や鎮静作用があるものが多いのは、よく指摘されている。
                  それと同じように音楽ではない読経にそうした側面があると監督は意識的・無意識的に解釈したのだろうか?

                  磯で殉教した日本の信者は、死の間際まで讃美歌を歌っていた。(※2)それと対を成すようにも思えた。

                  彼が何のために歌っていたのか――信ずる神のためだったのか、己への葬送曲、死の恐怖を緩和するためだったのか――を知る由は無い。
                  それ故に、様々な思いを巡らしてしまう。(※3)

                  信仰

                  日本人にとって、キリシタン信仰は何を意味するのか?

                  隠れて信仰する姿は初期キリスト教信者がカタコンベ(地下共同墓地)で祈っていたことを彷彿させるが、それとは似て非なるものだ。(※4)

                  映画本編の中で、聖職者と日本のキリシタンの信仰の“違い”にもどかしさを覚えている事が描写される。

                  十字架にメダイ、さらには神父が持っていたロザリオの数珠まで欲しがる信者たちに、戸惑いつつそれらを与えるロドリゴ神父。

                  隠れキリシタン達は「神社でお参りをした後、お守りを頂いて身に着けるとご利益がある」という感覚だろうか。
                  一種のフェティシズムだ。

                  セム系一神教は、基本的に偶像崇拝を禁止している。
                  しかし、古代からの、あるいは人間の性だろうか……抽象的な存在、概念の“神”を他人に伝える事は難しく、”神の似姿”ではない象徴物や、儀式によって人々は信仰を”形”にしてきた。
                  カトリックでは他のセム系一神教とは異なり、神や聖人を表現する宗教芸術を認めている。人々に信仰を広める、伝えるための“メディア”として有効であるため。(それが西洋美術の発展を促した側面がある。)
                  その対象を拝むこと“だけ”が信仰ではない、という前提のもとに……

                  また、ガルペ神父は日本人の隠れキリシタンと「パライソ(楽園)」に対しての認識の違いに困惑する。

                  日本の“隠れキリシタン”について語るとき、カトリックの本来の姿とは異なり神仏習合の例に漏れず独自の信仰形態をとった特異性ばかり強調される。

                  ただ、日本でそうした“習合”が起こったのは何故なのか?
                  宗教弾圧が時の政治的な争いなら、征服されたものが抹殺されなかった、できなかったのか――は興味深く、様々な推測ができる。

                  私個人の解釈としては、日本人は神道・仏教・キリスト教であれ、それら全ての“ご利益”を得たい、得られると考えていた、“ご利益”を得られる存在であれば信仰の対象となる考えがあったのではないか、と考えている。

                  踏み絵

                  上記の日本人のフェティシズムとご利益の関係にも関わると思うのだが、踏み絵を踏まなかった人は、日本的な信仰の対象を蔑ろにするような後ろめたさだけでなく、それによる“ご利益の喪失”への拒否感もあったのではないだろうか?

                  もっとも、フェティシズムが日本の専売特許ではないし、当時の人と今の日本人の信仰の在り方は異なるのでやっぱり何とも言えない……
                  先祖崇拝の延長のような、信仰が“代々受け継がれた”ものであるが故の畏敬の念もありそうな事も、否定できない。

                  日本の特異性があるとはいえ、あらゆる宗教が、相互に影響しあったり習合していったと思うので、それが日本の専売特許でもないので、海外の人がこの映画を観て、何を見出だすのかも気になるものがあった。(※5)

                  幸福なるかな、貧しき者よ

                  日本版宣伝に使われた、“なぜ弱きわれらが苦しむのか――”というキャッチフレーズの意味を考えてしまう。

                  それがルカ伝の行を彷彿させられるためだ。

                  幸福(さいはひ)なるかな、貧しき者よ、神の國は汝らの有(もの)なり。

                  幸福なる哉、いま飢うる者よ、汝ら飽くことを得ん。

                  幸福なる哉、いま泣く者よ、汝ら笑ふことを得ん。

                  人なんぢらを憎み、人の子のために遠ざけ、謗り、汝らの名を惡しとして棄てなば、汝ら幸福なり。

                  その日には喜び躍れ。視よ、天にて汝らの報(むくい)は大(おほい)なり、彼らの先祖が預言者たちに爲ししも斯くありき。

                  ルカ伝福音書(6章20〜26)

                  貧しき者、虐げられる者を励ますこの言葉。
                  それを“信じ”、死んでいった人々は救われたのだろうか?そもそもそれが信仰なのか?――そんな反語のようなイメージを思い起こさせる。

                  裏切り者

                  物語の重要なキャラクターであるキチジロー。彼にユダを見いだすことは容易だろう。
                  ユダは分かりやすく、“人気のある”存在ではないだろうか。

                  ユダの魅力――
                  それは人間の“弱さ”の象徴のような存在だろう。
                  信仰であれ道徳であれ、「正しい道」を知りながらも、誘惑に負け、道を踏み外す。
                  現実の人間は親近感を覚える。

                  だが、単純にキチジローをただユダと結びつけていいのか?

                  二度目の踏み絵での、ぼろぼろなキチジローの姿は、十字架のキリストに似ていた。
                  キリストは囚われる晩にゲッセマネの祈りの中で、神に遣わされた使命の成就に反してその回避――死への恐怖を口にする。

                  また、何度も踏み絵をする姿に、第一の使徒たるペテロ(初代教皇)を想起してしまう。
                  「汝、今宵の鶏鳴を待たずして三度我を否むべし」とキリスト言われペテロはそれを否定するも、成就してしまう聖書の行を。(※6)

                  このイメージの重ね合わせは、ロドリゴ神父が自身をキリストの受難と照らし合わせる事とも、対照的なものとして存在している気がする。
                  それが、川で水面に映った自分の顔と絵画のキリスト、それが変容して悪魔的な笑みに成ってゆくことと呼応していた。

                  沈黙と本質

                  このタイトルは秀逸だと、常々思う。

                  隠れて祈る隠れキリシタンの“沈黙”
                  神の“沈黙”
                  そして“沈黙”することで信仰を守ったロドリゴ神父。

                  (迫害のため)祈りと儀式、更にはイメージさえも、あらゆる形式が削ぎ落とされる。その無――沈黙の中に残ったものは、確かに“信仰”だった。
                  人間はあらゆる形で何かを“信じる”ことを止めることはできないのだ。

                  そして、それにより導き出される“本質”がある。

                  「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」

                  『沈黙』は権威的で己を高めることに重きを置いたキリスト教の男性原理的な部分ではなく、全てを受け入れ赦す女性原理的な側面を強調する。
                  前者だけがキリスト教の信仰の全てではないと思うのは、現代を生きる私だけの解釈だろうか?

                  よく(当時の)日本の宗教観、文化をリサーチされたものだと思う。
                  特に最後の葬送のシーンなど……
                  現代日本では欧米式の葬儀の影響から、横長の棺桶と黒い喪服だが、古くは死者は桶に座す様に納め、遺族も白喪服だった。それが映画内で描写され、驚いた。

                  棄教の後、天寿を全うし荼毘に付されたロドリゴ神父。 胎内回帰を象徴する桶の中、遺体の手の中で輝くような木製の小さな十字架。

                  彼の魂の本質が何処に帰属するのかを示唆していた。

                  余談

                  後妻の女性は、守り刀と共に、木彫りの十字架をそっと忍ばせる。
                  私の個人的な印象だが、彼女が隠れキリシタンとは思えなかった。
                  ただ、沈黙する夫の信仰に口を挟まず嫌悪せず、夫のありのままを受け入れていたのだろうか?

                  そうだとしたら、私はそれを深い情――あるいはとても精神的な愛――だと思った。

                  蛇足

                  ガルペ神父役のアダム・ドライバー。
                  映画『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』でシス方のジェダイ、カイロ・レンを好演した彼。
                  ロバート・デ・ニーロのように、役作りのために減量したり……(※7)
                  “キモかっこいい”俳優として人気が出ているらしい……(※8)

                  イイネ!グッド

                  1. 1 藤村シシン『古代ギリシャのリアル』実業之日本社 (2015) p.259
                  2. 2 

                    長崎の日本二十六聖人にヒントを得ているのは言うまでもない。

                    特集記事|日本二十六聖人殉教地(西坂公園)|教会|長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」
                    http://www.at-nagasaki.jp/junrei/113/article/13/

                  3. 3 伊藤三巳華『視えるんです。2 (幽BOOKS)』KADOKAWA/メディアファクトリー(2011)では、霊視で殉教した少年信者が、一番年下の信者の死の不安を和らげるために歌った、と語る姿を見ている。真実がどうであれ、切なく心温まるイメージだった。
                  4. 4 ローマ帝国によるキリスト教徒の迫害 - 聖書と歴史の学習館
                    http://www.lets-bible.com/history_christianity/a10.php
                  5. 5 在日外国人や若者が見た「沈黙」 「沈黙―サイレンス」映画deディスカッション : 文化 : クリスチャントゥデイ
                    http://www.christiantoday.co.jp/articles/23180/20170206/silence-movie-grace-city-church-commuity-arts-tokyo.htm
                  6. 6 マタイ伝福音書26章31〜75節
                  7. 7 “カイロ・レン”から“宣教師”へ…23kg減量し覚醒するアダム・ドライバー『沈黙』
                    http://www.cinemacafe.net/article/2017/01/20/46443.html
                  8. 8 “キモかっこいい”で大ブレイク アダム・ドライバー : 読売新聞
                    http://www.yomiuri.co.jp/komachi/beauty/celeb/20170131-OYT8T50108.html
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                  映画『0円キッチン』感想

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                    JUGEMテーマ:映画

                    映画『0円キッチン』チラシ

                    公式サイト:
                    http://unitedpeople.jp/wastecooking/

                    フードロスを無くす方法を模索するロードムービー。
                    深刻な雰囲気のドキュメンタリーではない。

                    世界中で生産される食糧のうち、1/3が食べられることなく廃棄される――
                    なぜ、その数字が生まれるのか?その数字の根拠は?
                    そして、それを減らすことができるか、その方法を模索する。

                    ダーヴィッド監督は「ゴミ箱」を改造した「キッチン」を、食堂から出る廃油を燃料に走る車に積み、ヨーロッパ5ヵ国を巡り、その答えを探す。

                    日本でのフードロスの原因として、「1/3ルール」(※1)が上げられている。
                    この映画を通して、楽しみながらそれを解消する方法はあるのか、海外ではどのような試みがなされているのかを知りたくて、鑑賞した。

                    観ていてワクワクする映画だった。


                    提案されるフードロス対策は、日本の小学校で教わるような「遺さず食べる」等に代表されるような、日々のちょっとした心がけだけではない。
                    あるいは、「もったいない」と人の罪悪感に訴えるようなものでもなかった。

                    • 賞味期限切れ食材も食べられるものがある
                    • 規格外で廃棄される食材の有効活用
                    • 調理で使わない野菜くずを餌にして育てた豚を余すところなく調理する

                    …生活の知恵や循環型農業システムの見直し、あるいはその延長のような提案。
                    他にも、

                    • 食べられる街路樹の果実や野草を生かすこと
                    • 昆虫食の推奨

                    …など。
                    スーパーなど生鮮食品で売られている――もっと言ってしまえば、スーパーなどに頼らない――食材の提案など、眼から鱗なものもあった。

                    賞味期限への疑問

                    賞味期限切れの食材を出さないことが先決だが、(腐っていないかぎり)賞味期限が切れたものでも、食べれるのではないか?

                    ドイツの一般家庭、あるアパートメントの各家庭を訪れ、賞味期限切れや量が多すぎて使い切れないもの、調理に使わない部位、廃棄するつもりでいた食材をあつめる。
                    それらはその道のプロの手にかかると、素敵なコース料理になっていた。
                    家庭の冷蔵庫で眠っていたもの、残り物によって出来上がった料理は、アパートメントの中庭での試食会になった。

                    別の場所で、スーパーのゴミ箱にダイブして手に入れた賞味期限切れの瑞々しいリンゴは、完熟でとろとろのコンポートになっていた。

                    食べられるもの

                    市場に流通する食材のみに囚われないことも提案する。

                    (その国では)外来種で、厄介者のため駆除された野草はそのまま廃棄するのではなく、きれいな色のジャムになっていた。
                    畑では、売れない規格外野菜を用いて、大勢で調理して食べるイベント「チョッピング・パーティー」を行っていた。
                    食育の現場として、昆虫食を体験する小学校の授業を取り上げていた。

                    ここまでは、フードイベント的な様相がある。

                    ダーヴィット監督は、もっと日常生活に組み込まれたフードロス解消方法を模索する。

                    ベルギーでは、食品廃棄を禁止する制度制度がある。
                    しかし映画内では、抜き打ちでスーパーのゴミ箱ダイブをすると、店舗によっては監視者がいないとそれが実行されていない事があわかった。

                    フードロスを生む原因は何か? ‘先進国は「消費」に近い場面で食品ロスがおきやすい(※2)’。
                    映画冒頭、ドイツの一般家庭を訪問し、賞味期限の切れた食材を回収する。
                    「(賞味期限が切れているので)捨てるわ」
                    各家族家庭で消費できる量の問題もありそうだが、 一定の野菜のみの受容、消費者がより消費しやすい大きさや、時代の流行などで、規格よりも大きすぎてしまうと、廃棄されるという。また、以前から指摘されていることだが、店頭に並んだ際、客の購買意欲を刺激するため見栄えの良い野菜を選ぶことも一因であることは言わずもがな。

                    規格外の野菜も、調理すれば変わらないのに……

                    日本のフードロス問題

                    ベルギーの件ともからむのだが、日本で2016年に起きたダイコーによる廃棄カツ横流し事件には、食品廃棄だけでなく日本のリサイクル問題を浮き彫りにした。

                    リサイクル事業がうまくいかない理由――
                    コストがかかる、混ざっている(不純物がある)とリサイクルできない、処理能力が追い付かない、処理したものの受容が少ない……といった技術的な面。
                    更には流通の監視体制が無いために不法投棄や未処理(処理施設を動かすとコストがかかるため)で放置されてしまうこと、リサイクル事業補助金のみ目当てで、不法投棄の温床となってしまう模様。

                    石渡正佳『産廃Gメンが見た 食品廃棄の裏側』では、廃棄カツ横流し事件が起きた原因と共に、そうした問題を取り上げていた。

                    産廃Gメンが見た 食品廃棄の裏側

                    石渡氏は、これらを改善するためにも、また、リサイクルを円滑にするためにも、まずは速やかな法整備が必要であることを提唱する。

                    自由経済、あるいは市場経済の原理であるアダム・スミスの「神の見えざる手」は万能ではなく、条件付きである。少なくとも環境経済には通用しない。環境経済には法律による枠組みが必須であり、規制と監視と罰則によらなければ、環境は経済にならない。古典派経済学が説くところの市場経済は需要と供給が釣り合うところで均衡する。これに対して環境経済はコストとペナルティが釣り合うところで均衡する。

                    石渡正佳『産廃Gメンが見た 食品廃棄の裏側』p.176

                    何か、私にできることは?

                    この個人ブログで、いきなり法の問題を挙げても、ちょっとハードルが高い……
                    映画を観て理解したのは、こうした身近な問題は、身近なところで、楽しみながら改善することができることはたくさんあること。
                    賞味期限切れを食すだけでなく、残飯の処理についての提案もあった。

                    ビュッフェスタイルレストランのフードロス問題。
                    手をつけていないものに関しては、再び調理・加工して、新しい料理にする。
                    これにはシェフの臨機応変さが求められるのだが……
                    ならば、リサイクルを前提とした献立を考案するべきなのだろうか……?

                    ただ……そうした料理をどうやって作るのか、分からなかった。
                    家庭科でも教わらなかったり、料理本でそういった特集のものを見たことがなかったためでもある……

                    そんな折に見かけた、以前、通販サイト・フェリシモで、“もったいない”を解消する生活実験のワークショップアイテムがある。その中に食材を使い切る、サルベージワーキングショップについてのものがあった。

                    キッチン力アップで眠れる食材も使いきる サルベージクッキングワークショップ[12回予約ワークショップ]!販売終了!
                    http://www.felissimo.co.jp/kraso/wk47322/gcd292370/

                    もう販売していないのが惜しまれる……
                    こういう料理研究家がいて、料理本がまとまっていてもおかしくないと思うのだが……

                    ちょっと調べてみると、ネット上にサルベージクッキングのレシピをまとめているものがあった。

                    サルベージの100ページ - 食材を救う知恵をあつめるプロジェクト
                    http://salvageparty.com/page100/


                    この映画の感想を、食品廃棄に関する視点から書いてみたが、それに留まらない映画だろう。
                    冒頭のアパートメントでの試食会の風景は、普通にご近所さん同士での親睦会、パーティーの風景のようであったし。 食育然り、生活の知恵であり、ライフスタイルの提案でもあった。

                    ただ、この映画で気になるのは、食肉のことに関して、ネガティブな感情のナレーションになってしまっている事だろうか……
                    ダーヴィッド監督はベジタリアンになる事を考えているようだし、食肉用の家畜が快適な環境にいるとは限らない。そこから起因する罪悪感のようなものが醸しだされている。
                    映画の中で、ダーヴィッド監督は食肉を否定している訳ではないが、気になった。私は野菜も好きだし、食肉を否定しないので。(※3)

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                    1. 1 3分の1ルール(さいぶんのいちるーる)とは - コトバンク
                      https://kotobank.jp/word/3分の1ルール-190195
                    2. 2 映画『0円キッチン』パンフレット p.7
                    3. 3 【過去日記】闘牛批判考

                    映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』感想

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                      JUGEMテーマ:映画

                      映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』チラシ1
                      公式サイト

                      http://www.starwars.com/films/rogue-one

                      http://starwars.disney.co.jp/movie/r1.html

                      スター・ウォーズファンには堪らない、小ネタが満載!

                      • 星雲かと思って見ていると、実はそれが人工の光で、恒星の光が当たって姿を表すスター・デストロイヤーとデス・スター。今までにない威圧感……(ゴクリ)
                      • ジョージ・ルーカスっぽい(笑)てっきり、カメオ出演したのかと思った……(※1)
                      • 反乱軍(同盟軍)がその性質(共和制)から、なかなかまとまらない事はエピソード1〜3でも垣間見れたが、今回は帝国軍が一枚岩ではない、という描写に重点が置かれている。
                      • ピーター・カッシング(※2)が提督として、フルCGで再演!

                      オープニングの文字列は無かれども、細かいところにちゃんと往年のスター・ウォーズシリーズの演出等をあえて踏襲。
                      J. J. エイブラム監督の前作を、脚本時には絶賛していたのに、完成してみればルーカス監督が気に入っていなかった(※3)ようなことを言っていたけれども、今回のは満足しているのではなかろうか?(※4)

                      エピソード4で「この情報を得るために、多くの仲間の命が失われました」という台詞が指す物語。
                      既に全員、死亡フラグが立っているようなもの。
                      そんなキャラクター達の“生きざま”がどの様なものなのかを見届けたいと思いながら、観る。


                      都市の情景 / 戦争の場景

                      様々な惑星に場所が切り替わり、多様な環境、多くの人種が描写されるのも“スター・ウォーズらしさ”を意識させる。

                      心なしか、映画『ブレード・ランナー』(ハリソン・フォード主演で再び映画化!2017年11月公開!※5)を彷彿させるアジア圏の狭い通路とごちゃごちゃした街並み。

                      道行く人々の中には、三度笠と浪人笠を足して2で割ったような被り物をした人物がいて、日本人としてはちょっと嬉しい(笑)
                      アラブ系の民族衣装を彷彿させる服装があるのは、現代らしいと思った。

                      寺院都市の上にはスター・デストロイヤーが停泊している。
                      その威圧感――制圧下であること、映画『インディペンデンス・デイ』(1996)を思い出さずにはいられない、不吉な予感。
                      その下に暮らす人々は日常を続けているようでいて、帝国側のプロパガンダに不穏な雰囲気……(それは今も、どこかの国で起こっている光景なのかもしれない)
                      そして同盟軍・反乱軍のゲリラ戦が起こる。

                      エピソード5にて登場した全地形用装甲歩行兵器AT-ATが、再び登場。歩兵にとって厄介であることと、X-WINGの活躍。
                      雪原ではなく熱帯雨林であることは、ベトナム戦争をイメージしてしまう。

                      第二次世界大戦以降の戦争の姿がそこにあった。

                      補足すると、現代で問題視されている“自爆テロ”は起こらない。
                      それは自爆テロが“非戦闘員を巻き込むことで、日常に恐怖を与える”ことであり、“戦闘員同士が戦う非日常空間”とは目的と手段が異なるため、明確に線引きしているように、私には思われた。

                      抑圧された子供の“昇華”

                      昨年のエピソード7、映画『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』について、私は主要な登場人物たちが“抑圧された子どもたち”であることが気になった。
                      それが旧三部作(エピソード4〜6)の主人公・ルークとの大きな差であるとも。
                      今回の主人公・ジンもまた、戦渦によって両親を失い、過酷な逃亡生活と虜囚生活を余儀無くされた少女だった。 彼女は父親のメッセージと今際の父との再会で、父親へのコンプレックスを“昇華”させることができた。

                      この気持ちの変化――“昇華”こそが、人の心を、行動を前向きにする。
                      それが周りに影響を与え、はぐれ者(rogue)の寄せ集め部隊が困難な作戦を遂行する。

                      ジンの切羽詰まった想いと力強い言葉に動かされ、物語の後半に絶望的な作戦に参加する心境について丁寧には描写されない。
                      それは反乱軍の情報屋で、行動を共にしていたキャシアンが象徴するのだろう。

                      映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』チラシ2

                      ジェダイがいない世界

                      エピソード3にてジェダイは壊滅し、オビ・ワンもヨーダも雲隠れしているため、この世界にジェダイはいない。
                      しかしその“気配”を感じさせる(フォースか?)キャラクターが登場し、どこか哀愁と希望を感じさせるキャラクターとなっていた。

                      盲目の棒術の使い手・チアルート。(モデルは日本の『座頭市』とも。)
                      ジェダイに憧れ、その素質もあったであろう僧兵は、ジェダイではなくてもただフォースを信じて(それを感じて)行動していた。
                      彼の杖の先端が、ライトセーバーの柄を彷彿させるデザインなのは、気のせいだろうか……?

                      「フォースと共にあらんことを」

                      その言葉だけではフォースを扱うわけでもないので、形骸かもしれない。
                      ジェダイではない人々が、その意思を語り継いでいる。
                      旧三部作からは、祈りの詞のような、常套句のように使っている。その事への布石のようなエピソード、キャラクターだった。

                      失われる命

                      登場人物の殆どに死亡フラグが付いている訳だが、人間の死が生々しく描かれることはない。(年齢制限ないし、ディズニーの傘下のため?)
                      ただ、その死の描写はドロイドのK-2SOに集約されている。
                      多勢に無勢の中、文字通り孤軍奮闘し、生きている人間を信じて、希望を託して破壊される。
                      胸に空いた大穴が、心臓のないドロイドに死を印象づけていた。

                      それは引き継がれ、終盤の命のリレーは、死というものの呆気なさと、それでも人が諦めず意思を繋いでいくことを端的に表していた。

                      それにしても、ギャレス・エドワーズ監督はハリウッド映画3作目にして、スター・ウォーズシリーズの監督を勤めるとは……スピンオフ作品とはいえ。
                      どれだけ期待されているんだ……!

                      2014年映画『GODGILLA』では、まさかの“怪獣対決をハリウッドスケールで作り上げた。
                      しかし“ハリウッド色”を全面に押し出すのではなく、往年のゴジラファンが“見たいもの”を理解して描き出していると思う。

                      王道を踏まえつつ、独自性を醸し出す。
                      家族愛もアクセントとして入れ、第二次世界大戦以降の戦争、911や311を彷彿させる描写、さらに(ギャレス監督が影響を受けたであろう)他映画のオマージュを織り込んでいた。

                      そんなギャレス監督に白羽の矢が立つのは、至極当然のことだったのだろう。
                      今までのスター・ウォーズシリーズのイメージを崩さず、かといって懐古趣味ではない作品を作る可能性がある監督として、見込まれたのではないだろうか?

                      もう既に“スター・ウォーズがある時代”に生まれ、それに影響を受けて育った世代が映画監督になっている。

                      「だからオリジナルが作れない」と言われかねない世代だが、「影響を受けた作品の良さを解っている」世代でもある。

                      これがこの世代の強みだと思った。
                      表面的な二番煎じではなく、よく吟味された表現にを可能にし、時代に合わせた表現と監督の“独自性”を織り込めるのではなかろうか。
                      それを庵野監督の映画『シン・ゴジラ』からも意識させられた。


                      昨年末に急逝したレイア姫役のキャリー・フィッシャー女史……ご冥福をお祈り申し上げます。
                      波瀾万丈な人生だったそう……

                      次作エピソード8の撮影は終了しているとか、今回の急逝を受けて脚本変更して撮り直すとも伝えられている……

                      個人的には“女性原理的なるもの”を発揮して、抑圧された子供達の苦悩を解放へと導く存在、女神的なリーダーシップを発揮すると思っていたのだけど……残念。

                      本編がどうなるのか、期待と不安と共に、楽しみだ。

                      1. 1 映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のカメオ出演とシリーズのつながりまとめ|ギズモード・ジャパン(2016/12/20)
                        http://www.gizmodo.jp/2016/12/rogue-one-cameos.html
                      2. 2 

                        ピーター・カッシング(Wikipedia 日本語)
                        https://ja.wikipedia.org/wiki/ピーター・カッシング

                        ローグ・ワンに隠されたトリビア&秘密まとめ - 映画の秘密ドットコム(2016/12/17, 2017/1/10リライト)
                        https://www.eiganohimitsu.com/3141.html

                      3. 3 ジョージ・ルーカス、『スター・ウォーズ』を「奴隷業者に売ってしまった」発言を謝罪 - シネマトゥデイ(2016/1/4)
                        http://www.cinematoday.jp/page/N0079259
                      4. 4 ジョージ・ルーカス、SW『ローグ・ワン』を気に入る! - シネマトゥデイ(2016/12/7)
                        http://www.cinematoday.jp/page/N0088082
                      5. 5 Blade Runner 2049 - Internet Movie Database (English)
                        http://www.imdb.com/title/tt1856101/
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                      大人向けダークファンタジー。
                      しかし、子供の頃を思い出させるディティール。
                      現実と幻想、決して交差せずとも互いに影響しあう。
                      そこで彼女は何を得るのか。

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