映画『ターミネーター:ニュー・フェイト』感想

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    JUGEMテーマ:映画

    映画『ターミネーター:ニュー・フェイト』チラシ

    公式サイト:
    http://www.foxmovies-jp.com/terminator/

    ターミネーター3(以下、T3)』の時にこれをやってくれれば良かった……

    『T3』にでてきた出来損ないのT-800とT-1000のハイブリッド、T-X。ただ金属骨格フレームを液体金属で覆っただけ……仕込銃のような携行火器を内蔵してるけど……それは果たしてバージョンアップと言えるのか?
    公開時、良いとこどりしたように喧伝されていたが、観ていて目新しいメリットが何一つなかった。映画自体面白くなかったし……

    しかし今回の敵役・REV-9は正しく「良いとこどり」をしていた!
    液体金属を分離して金属骨格フレームの分身を作ったり、巨大な刃物作って、取り囲んで取り押さえようと(おしくらまんじゅう)した軍人達を全員刺殺……
    金属骨格フレームも化ける人間(殺害済み)の体躯に合わせて変わっているように見える。

    既に日本語版のチラシに 『T2(ターミネーター2)』の正当な続編にして、新たなる伝説 と銘打っているので、実質の『T3』という位置づけなのだろう。
    しれっと『T3』をはじめ『ターミネーター4(以下、T4)』『ターミネーター:新起動/ジェニシス(T5)』が無かったことにされている……
    余談だが、私は『T4』の続編を見たかった…オチは納得してないが、SF戦争映画っぽかったし。

    人間と同じ外観をしながら、人間を凌駕する身体能力――機械――が、執拗なまで追いかけてくる。これこそ『ターミネーター』シリーズの醍醐味。
    しかも今作『ニュー・フェイト(以下、T6)』のREV-9はネットワークの情報網の侵入や検索能力にも長けている。昨今は出入国の管理も厳しいし、監視カメラがそこら中にあるため、あっという間に足が付いてしまう。
    そのためか、スピード感というより展開がはやく、色々詰め込まれていた感じがする。

    リアリティ

    監視カメラや無人偵察機、攻撃機もさることながら、ハリウッド映画は、アクション映画でも小ネタでもしれっと時事ネタを盛り込んでくれる。

    人間が機械にとって代わられる……AIのディープラーニングによって知識労働者でも省人化が進む(※1)と言われて久しい。
    しかし、ここではロボットアームが自動車製造の労働者にとってかわられることで端的に示していた。
    ロボットアームは労働を奪うものではなくて良い製品をつくるための“共働”するものだと思うのだが……そこが腑に落ちない。

    今後の戦争の脅威として、北朝鮮の長距離弾道ミサイル然り、EMP兵器が登場。(※2)
    しかしEMPでREV-9の動きを止めようとするも、兵器の被弾というしょぼい理由で日の目をみない……
    映画だったらギャレス・エドワーズ版『GODZILLAギレルモ・デル・トロ『パシフィック・リムで攻撃シーンがあったから今更描く必要もないのかもしれない。リアルかどうかは別として。

    時代の変化

    第1作『ターミネーター』公開が1984年。女性は男性に守られる“ヒロイン”で、サラ・コナーは未来の人類軍のリーダーであるジョン・コナーの“母になる”存在であるという理由だった。(それは聖書のオマージュでもあろう)
    次作『T2』では闘う女性になっていた。しかし少年のジョンの冒険譚と“母として子供を守る”という性別的な役割の縛りがまだあるように思う。

    今回の映画でサラはヒロインの一人・ダニーが自分と同じ役割を担っていると考えていたが、ダニーが将来の人類軍のリーダーだった。
    描かれる女性像の変化に時代を感じさせた。

    ダニーを守る人物・グレースが女性であることはその証左だと思う。その上で、体力的な強化人間という設定も、それに違和感を感じさせない高身長のグレース役マッケンジー・デーヴィスは良いキャスティングだと思った。シュワちゃんと並んでも遜色ない……

    サラという母、1人の女性の存在

    劇中、一番心を揺さぶられたのは、サラ・コナーのシーン。
    特にジョンを殺害したT-800と邂逅した際に身を潜めた森でのシーンが切なかった。

    「(追手に見つからないようにするために)写真さえなければ息子は殺されないと思っていた。一枚も残っていない。でも(息子が死んだ)今は記憶の中の息子の姿が朧げになっている……」呆然としながらそんな趣旨の言葉を独白する。老いを感じさせる彼女の姿に、サラ・コナーというキャラクターの行き着いた残酷な末路が伝わってくる。
    リンダ・ハミルトン“本人”でないと、この演技も言葉も嘘になってしまうだろう……リンダ・ハミルトンの復帰無くして、このシーンはできなかったと思った。

    全米から指名手配され、逃げ続け、戦い続ける運命を強いられた女性が、人生を賭けて守ってきた息子と未来はもういない。それは彼女が望んだ形ですらなかった。

    人類と機械の戦争のゆくえ

    この話続く(続ける)のだろうか?

    『T2』時間軸の功労とジョン・コナーの死によってスカイネットは存在しなくなったが、字幕ではリージョン(レギオン)という別の存在(AI)が人類を敵とみなし「人類vs機械」という図式は変わらなかった。
    別の未来でありながら、人型のアンドロイドを作り人類と争う点も……リージョンはスカイネットを知っているのだろうか?

    しかし……『ターミネーター』シリーズにおける人間と機械の戦争は、いつまでたっても戦争前夜で回避することができなかったり、未来の機械との戦争が始まっている時間軸でどうやって戦争を「終わらせる」か語られない……
    映画『マトリックス』のようにならないのだろうか……人間が機械の支配に置かれることではなく、機械との和平交渉に向けての行動という意味で。

    ここからは私の妄想になってしまうが、ちょっと考えてみる。
    『T2』で自我に目覚めた機械に、自ら制御できる道具ではなくなった兵器に恐れおののく人間が電源を切ろうとすることから、互いの生存をかけた戦いに発展したことが語られる。
    『T2』はスカイネットの存在そのものを存在させないようにするために画策する映画だったが、『T3』以降、それは回避されなかった路線を描き、「スカイネット」の破壊を目的に永遠と戦い続ける。

    戦争とは本来、始めたなら終わらせなければならない。その一番の着地点はどちらかがどちらかを殲滅することではなく、互いに生存――共存――する条件を策定することであるのは言わずもがな。『ターミネーター』シリーズにそういった未来は描かれてこなかった。
    そのための人間の使者を送り込むのが難しいというなら、T-800が適任ではないか?
    同じ存在ではないが、『T2』で「何故人間が泣くのかわかった」と語っていたし、今回のT-800は何気にステップアップファミリー築いていた。人間との交流の経験と時間が、T-800を変化させている。機械でありながら人間の良さと悲しみを理解している存在なのだから。

    人間の感情をデータ化(数値化)できたなら、それを持ってスカイネットだかリージョンだかにそれを共有すれば、人間を理解して和平への道を模索できたのではないか…そんな妄想も膨らむ。

    『T2』でT-800は寿命は120年に設定されていると言っていた。その設定のままなら、ダニーとグレースの時間軸で2人と邂逅しても良かったのではないだろうか?だいぶおじいちゃんな外見だろうけど……

    1. AI(人工知能)は仕事を奪うのか生み出すのか|なくなる仕事・新たな仕事【事例あり】
      https://ledge.ai/ai-work/
    2. 北朝鮮が示唆する「電磁パルス攻撃」という脅威──それは本当に「全米を壊滅」させる力があるのか
      https://wired.jp/2017/11/15/north-korea-emp-threat/
    参考文献
    SCREEN(スクリーン)2019年12月号
    映画秘宝 2019年 12 月号 [雑誌]
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    映画『JOKER』感想 ――悪とは何か?

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      JUGEMテーマ:映画

      映画『JOKER』チラシ

      半年前に映画館で見たのに、また感想が書けなかった…絶賛消化中……


      公式サイト:
      http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/

      クリストファー・ノーラン監督の『バットマン』以降だろうか、(DCコミックに限らず)アメリカのコミックヒーローの実写版映画が社会派なリアリティ、問題提起を織り込むようになったのは。
      それまでは実写映画に当時の社会情勢などを描写することは普通にあると思うが、表面的なアイコン、アイテムとしてが多かった。
      しかし、核心にあるものや、ネガティブな一面を抉る描写を表現するようになった。リアリズムの強調、と言うのだろうか。
      この映画もまた、例外ではない。

      ノーラン版はバットマンを用いて孤独なヒーローの限界(アメリカのマッチョな正義の限界?)を描いた。
      この映画は“救えない「悪」”、悪とは何かを描いているように思う。

      救えない“社会の底辺”

      ジョーカー――〈悪のカリスマ〉はいかに誕生したのか?
      この映画を観おわった人は、その原因と対策について考えをめぐらせざるを得なくなるのではないだろうか。

      なぜなら、あらゆるものが“ないものづくし”の映画だったから。現実社会でもそうである。

      映画『キングスマン』でも言及された“断絶”がある。
      真っ先に挙げられる貧富の差。
      リベラルな政治家、富豪であってもそれを解消できない。寄付はできても、根本的な解決を促すことを仕事としていないから。

      それを救済する“仕組み”はあれど、現場にも問題問題は山積している。
      助成金が打ち切られれば、ケースワークの閉めざるを得ない。社会が本当に困っている、助け手を必要としている人を救えない。

      宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち-新潮新書』、柏木ハルコ『健康で文化的な最低限度の生活』をも思い出す。
      ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書) 健康で文化的な最低限度の生活 コミック 1-7巻セット
      既存の仕組み的なものの限界に、受給している当事者の、貧困、給付を受けているのプレッシャーからのも含め、精神疾患問題など……

      映画ではっきりと描かれていなかったが、そのあまりにも多様な問題に、対応する人材が確保できない問題もあるだろう。
      アーサーの場合も、仕事の助けもさることながら、心身のケアも必要だった……

      これが一番厄介なものだ。
      アーサーは発作で大声で笑う。脳障害と判っていても、脳自体が人体の中で一番ブラックボックスであるため、外科的治療が困難……そもそも解明されていない。
      メンタルケアも1980年代では認知度がようやく出てきた頃であろうし、必ず目に見えて治癒できたことがわかるものではない。

      そういえば、映画終盤にでてくるスタジオのおばあちゃんは、現在90歳でも現役(!)のセックス・セラピスト、ルース・ウエストハイマー女史をモデルにしたキャラクターもいた。
      話の展開では無視されアーサーに関われない存在のため、カウンセラーのアドバイスは存在しない、届かない。あったとしてもそれは「女性」に対するものであるから、「男性」であるアーサーは対象外かも知れない。
      丁度、映画『おしえて!ドクター・ルース』の日本公開もあった。なんという皮肉……

      アーサーが抱える問題――毒親、愛情不足(この2つによる悪影響はアダルトチルドレンという傾向になるだろうか)、精神疾患という三重苦――から、ジョーカーに至る過程に、『黒子のバスケ事件』の「無敵の人」(※1)を思い出した。
      今、少し調べるだけでも、それを指摘するブログ等がたくさんあった。

      何も持っていない。自暴自棄ではなく、失うものは何もない(何もいらない)からできる暴挙と悪意がある。
      それはキルケゴールが『死に至る病』で取り上げた絶望――自分が自分である責任を放棄し、被害妄想的な犯行型のもの――に思える。

      同時に、観る人に「本当にそれだけだろうか?」というカタルシスを与える。

      “ジョーカー”という悪のキャラクター性

      映画公開前に「誰が“ジョーカー”を演じるかで話題になるキャラクターもそういないだろう」と言っている人がいた。
      それだけ歴代のキャラクターがインパクトがあった。そして今回もまた然り。
      そのキャラクター性が被っていないことも、凄いことだと思う。

      歴代ジョーカーは様々な悪の象徴だった。
      私はティム・バートン、クリストファー・ノーラン版の『バットマン』のジョーカーしか見たことがないのだが……これらだけでも、ジョーカーのイメージとその変容を垣間見るのに十分だと思う。

      「死に至る病、それは絶望である」
      キルケゴールの名著は、自己の喪失――自分が自分であるための責任(主体性)を放棄し、常に他人・社会が悪いとすること――を罪とし、糾弾した。ピエロの面を付けた暴徒にそうした側面を見いだすことはできるが、アーサーにはもっと深刻な問題がある。
      自分自身の存在を定義するものを、はじめから持っていなかった。

      アーサーは、母子家庭と思いきや、彼は養子だった。
      そして自分の障害が名前も顔も知らない義父の虐待によるもの(そこから助けてくれなかった母親)だったことが明らかになる。
      アーサー/今作のジョーカーは、どこにも繋がりがない、自分が誰かもわからない、誰でもない、何もない、“存在しない”人間だった。

      そもそも歴代ジョーカーは、コミック版を含め、個人を表す名前を持っていなかったようだ。例外だったのはバートン版のジョーカー、ジャック・ネイピア。

      ノーラン版のジョーカーも、何者なのかわからない人物として描かれていた。ブランドものではない服、大量生産された靴を身につけ、前科者リストにも登録されていない……
      小物に至るまでこだわりを持つキャラクターでもあるジョーカーだが、ノーラン版のジョーカーの“こだわり”は、自己顕示ではなく、何者かわからなくする、身をかくすための手段だった。

      アーサーは、ノーラン版の何者か分からないミステリアスさよりも、何にも属せない、存在しない哀愁を強く打ち出していた。

      ちなみに、今回のジョーカーも衣装や小道具にコミックス版のオマージュが随所にちりばめられている模様。

      光の下

      興味深いのは光の表現。

      アーサーは、貧しいながらも自分ができることを探して、底辺ながらも社会に組み込まれていた間の彼は闇の中――薄暗い楽屋やバー、夜の街――にいた。しかし、地下鉄で3人を殺害した後、暗い構内を抜けた彼を朝の明るい陽の光が照らしている。母親を殺害した後に差し込む日差しからそれは決定的になり、司会者の殺害の際のスタジオの光は、彼がジョークを披露していたバー以上に明るい。

      この光の表現が、犯罪を犯すことではじめて社会に繋がれた(社会的に認知された)ことのメタファーにも受け取れる。
      罪を犯せば人は暗い世界に堕ちていく、見えなくなって忘れ去られる(社会的な死)イメージがステレオタイプで存在する。それを覆す。

      人間は視認動物だし、光が無いと対象を認識することは難しい。
      つまり暗い世界にいたアーサーは誰からも認知されなかったことがうかがえる。

      アーサー/ジョーカーの存在、彼を社会と繋ぐものは全く無い。
      だが、社会から逸脱していることで社会から認知される。

      人とのつながり ――親の愛から始まって

      大きく言及されていないが、親の愛の必要性とそれが断たれた時の困難さをも垣間見る。
      アーサーは、母の手紙を盗み見て、自分が富豪のウェイン(バットマン・ブルースの父)の庶子ではないかと考え、彼に親の愛を乞うが、殴られる。
      結論としては違ったのだが……その結果として、自身の謎めいたルーツと障害の原因、母の精神疾患にたどり着く。
      唯一の肉親でさえ欺瞞であった事実とその衝撃は大きい。

      アーサーはその事実に、遂に他者への怒りがこみあげてくる。(それまで理不尽な暴力、自身の失敗、得られない共感と親や他者からの愛によって悲嘆に暮れていた。)自分自身が無い故に、自分への怒りは向けられない(存在しない)のだろうか?
      親との関係性……教育であれ、接し方を誤れば、人格や精神にダメージが大きい事は、凶悪犯罪が起こる度に取り上げられた。
      秋葉原通り魔事件の犯人の家庭環境(※2)は大きな反響を呼んだし、 押川剛『「子供を殺してください」という親たち 』およびそのコミカライズを思い出させた。
      「子供を殺してください」という親たち (新潮文庫) 「子供を殺してください」という親たち 1-6巻 新品セット

      家族こそ人間として生きて 人間として育てなければいけない
      ごくあたりまえのことのはずなのに……

      原作:押川剛 漫画:鈴木マサカズ『「子供を殺してください」という親たち
      #33:【ケース13】最後の取引

      ヒーローの視線

      「罪を憎んで 人を憎まず」の困難さ。
      バートン版、ノーラン版共に、バットマンは悪人を成敗することはできても、悪人を救うことができない。
      今回のも含め、彼(ら)は両親を目の前で殺され、置き去りにされた少年のまま。
      心に傷を負っている。(その点はアーサーと同じなのに、親の愛と庇護を実感していたブルースは異なる道を歩む。)

      バットマン――成長したブルース・ウェインも、貧富の差が犯罪の原因で抑止力になるならと慈善活動への投資を惜しまないが、それだけでは悪はなくならない。

      これもまた、ヒーローの限界(幻想)を揶揄しているのかもしれない。

      ただ、観る人は悪にも片手だけでも、その指の先だけでも差し伸べてくれる人がいたら救われたのではないかという、淡い希望を思うのかも知れない。

      1. 「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - Y!ニュース
        https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20140315-00033576/ (2020/6/14確認)
      2. 「秋葉原連続通り魔事件」そして犯人(加藤智大)の弟は自殺した(齋藤 剛) | 現代ビジネス | 講談社
        https://gendai.ismedia.jp/articles/-/39034?page=5 (2020/6/14確認)
      参考文献
      SCREEN(スクリーン) 2019年 11月号 [雑誌]
      SCREEN(スクリーン)2019年11月号
      映画秘宝 2019年 11 月号 [雑誌]
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      映画『アートのお値段』感想

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        JUGEMテーマ:映画

        映画『アートのお値段』チラシ

        公式サイト:
        http://artonedan.com/

        ハイソサイエティなライフスタイルというよりは、セレブリティのパーティー気分を味わえる映画だった。

        冒頭から盛況なアートバザールの様子が映し出される。色鮮やかなミクストメディアな作品が目につき、多くの人々が交流する姿。
        現代美術のお祭り騒ぎの喧騒を移す画面に、クラシック(古典音楽?)が流れる。

        展示されている作品は人々に感動を与えている。
        その感動とは別次元で、いや感動故に蒐集、投資としての価値……人の欲望が渦巻いていた。

        アートの価値(値段?)は

        経済の話は避けて通れなくなった。かつてはアートはそうしたものと無縁と思われてきたが(経済的に困窮するアーティストが大半で、今は有名な画家でも生前は貧困に喘ぎ亡くなったイメージのインパクトが大きいためか)。
        古典絵画が驚くべき価格となるのは、希少性と収集、集約によって”価値”が生まれるためだ。
        それが信用となり、まさにお金になる。

        「バブルは壊さないように浮かべておくのが良いんですよ!」

        希少性がある――数に限りがある――ということで、価値ある古典作品が出回らず、新たなマーケットを探していたサザビーズは、モダンアートが“商品”――投資対象――になることに注目し、力を入れる。
        それはポップ・アートの巨匠・アンディ・ウォーホルの商業的成功という例もあったため。

        美術館に展示された古典作品を鑑賞した後、街に繰り出した美術史家は、ジェフ・クーンズの大量生産される巨大アート《ダイアモンド》を前に難色を示す。

        投資としてのアートコレクターのインタビューもある。
        ステファン・エドリス氏は目利きの持ち主のようだ。予告編でも所有しているコレクションが購入時より高値になっていることを明かす。彼はコレクションを飾っているが、その作品への敬愛よりも淡々とPCで管理している投資家の面が強かった。

        投資としてのアートは株のような信用性とはまた異なる。
        徳光健治氏が著書で、購入には余剰金を推奨しているところからも、信用としてはブレるものであることが伺える。(※1)
        その価値が生まれるのはずっと先であろうし、債券などよりずっと不確かだ。
        ダボ付いたお金の投資先として白羽の矢がたったという実情があるだろう。

        ステファン・エドリス氏は投資となる価値がある作品を見抜く。
        ユダヤ人だという彼が、子供の身体でおじさん顔のヒトラーが膝をついて祈る彫刻?のアートを持っているシュールさ。
        …確かにひとつの時代の変容を映した作品なのかもしれない。タブー視せず、ある種笑い飛ばせるような作品だった。

        アーティストにお金は入らない?

        作品の販売価格が直接アーティストに還元されないケースはほとんどのようだ。
        2019年に日本でも回顧展が行われたバスキアは生前全く評価されず、死後、そのセンセーショナル人生とその慟哭を映したような作品で、現在高値で取引されている……
        ギャラリスト、オークションの転売によって次第に高値になってゆく。
        その時の価格がアーティストの評価になり、彼らの新作がその価格帯になる(その時がアーティストに直接お金が入る唯一の機会なのか?)。

        モダンアートの価値とは何か?
        それは“今”を写す作品であるかどうか、だった。
        未来の人々が過去(“今”)を振り返った時、そのアートが“発明品”であること、後世に評価され、価値が上がるという信用によって成り立っている……要するに投資対象である。それが“アートのお値段”の正体だった。しかし、それは“今”を生きてアートで生計を立てているアーティストたちに還元されているだろうか?(反語)

        「アートと金に本質的なつながりは無い」

        映画に出てくる人々は、おそらく全員がそのことを共有している。

        「美術館に飾られる方がいい」と言うアーティストたち。確かにこれほど名誉なことは無いだろう。
        それを「墓場」と言ってのけるサザビーズのオークショニア。

        サザビーズのカタログ制作風景から、美術史はどのように生まれるのかを垣間見る。
        長い美術史の中で、有名な人気のある作家の隣のページに、その影響を受けた、流れを汲んでいるであろう現代美術の作家の作品を並べている。(著名な作品に“似ていて”価格帯が手が届きやすい若手アーティストの作品にに惹かれて買う人が表れるのを見越して)
        それはアートの作風の系譜図を描くような作業だった。

        アーティストの声

        お金や経済、投資の話は抜きにして、インタビューに答えるアーティストの作品とコメントが沢山聞けることが楽しかった。

        ジェフ・クーンズ…巨大バルーンのウサギや犬はインパクトあって面白かったが、大量生産されるうちに私の中で飽きたのか量産されることで邪魔なイメージになってしまった。
        ルイ・ヴィトンとのコラボアイテムで、先人の名画の模写に作者の名前が配されているところの何にオリジナリティと今があるのか、私には理解できなかった。(むしろこれはアート?という嫌悪感。)
        現代において最も成功したアーティストのひとりなのだが……

        ジデカ・アクーニーリ・クロスビーが描く屋内の風景はとてもモダン。
        最初、コラージュかと思ったが、部屋の要素を構成する、テクスチャのようになっている雑誌や新聞の切り抜きは描かれたものだった。
        アフリカ系アメリカ人のカルチャーに織り込まれた彼女のルーツのイメージを意識させる。
        ご本人も美人さん。

        マリリン・ミンターのセクシャルな絵画は女性的な作風が私の琴線に触れた。
        ピンぼけしたそれは女性の股間、陰毛の部分だった。写真を片手に、彼女はそれを大きなカンヴァスに描き出す。写真ではなく手書き。一見するとそれとわからず、女性的な色彩で描き出された抽象的な絵画のように見える。
        あえて取っているであろう、手間のかかる工程。ぼんやりとした輪郭ゆえに注視してしまう作品が女性の股間であることにちょっぴりエロ気恥ずかしさを抱かされる。

        ラリー・プーンズ…今はあまり見かけなくなった力強い抽象画だった。1960年代にドットペインティングで注目された後、忘れられた画家だと言う。
        彼のボロいアトリエにカメラは何度か足を運び、その制作工程を垣間見る。
        その姿は大金と無縁に見えた。(同時に「あの大金はどこへ?」という疑問を突きつける)
        時代の変化を敏感に感じ、自覚しながら、自分の作品と真摯に向き合い、創作を模索していた。


        映画の中で、ストレートにアートとお金のカラクリについて言及されることは無かったが、その後、いくつかの書籍からその傾向と理由を垣間見る。(参考文献参照)

        アートのお値段は投資としてのアート…結局はオークションでその価値が値上がりし、差額は出品者とオークション会社に渡る。
        その価格がアーティストの名声になるのだが、オークションで発生した差額がアーティストに渡ることはない。
        画廊での転売で、辛うじて還元されることはあるだろうが……

        レオナルド・ダ・ヴィンチ《サルバトール・ムンディ》

        映画の最後に、レオナルドの真筆とされ、史上最高額4億5,030万ドルで落札された《サルバトール・ムンディ》が浮かび上がる。右手に水晶玉(まるで儚いシャボン玉、現世の虚しさのようにも見える)、を持ち、左手で祝福の印を掲げるその姿に、この映画を絡ませると皮肉にも受け取れる。

        1. アートとお金のはなし | アート情報
          http://www.tagboat.com/wp/アートとお金のはなし/
        参考文献
        銀座の画廊経営
        銀座の画廊経営
        購入はコチラ
        アートは資本主義の行方を予言する (PHP新書)
        アートは資本主義の行方を予言する
        コレクションと資本主義 「美術と蒐集」を知れば経済の核心がわかる (角川新書)
        コレクションと資本主義 「美術と蒐集」を知れば経済の核心がわかる
        教養としてのアート 投資としてのアート
        教養としてのアート 投資としてのアート
        Pen(ペン) 2019年 2/15号[いまこそ知りたい!アートの値段。]
        Pen 2019年 2/15号
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        映画『グリーン・インフェルノ』感想――カール・ホフマン『人喰い』に寄せて

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          JUGEMテーマ:Horror

          グリーン・インフェルノ【期間限定価格版】[DVD]

          公式サイト:
          http://green-inferno.jp/

          よくあるゴア・ホラー。

          同時に、あらゆる抗議活動に関する冷笑とも受け取る映画だった。


          あらすじ

          国連に勤務する父を持ち、人権問題に関心がある大学生・ジャスティンが(色んな人権問題?の抗議活動に参加している)活動家・アレハンドロの活動に参加する。
          彼らは南米ペルーの未開の熱帯雨林で、地下天然ガスを狙う会社が開拓を始め、原住民・ヤハ族の暮らしが脅かされているのを防くため、現地で開発業者の不正を暴き、ネットで世界に発信することを計画し、現地に赴く。活動は一定の効果を上げるが、そのための過激な抗議活動(パフォーマンス)は問題視され、強制送還されることになる。
          しかし、帰路につく彼らが載ったセスナ機にエンジントラブルが起こり、熱帯雨林に墜落してしまう。生き残った学生たちを助けたのはヤハ族だったが、ヤハ族は食人族だった……

          考察

          自分たちが生活している世界から遠く離れ、言語も文化も異なり、(衛星経由を抜きにして)スマホも使えない密林という場所――異界――を舞台にしたものと言える。
          隔絶され、幽閉された状態や迫る危機をどのように対処するかの冒険譚的な要素や、ゴア表現の多様さが“見せ場”だが、ゴア表現と食人シーンがこのホラー映画の恐怖ではない。

          怖いのは幽霊や化け物ではなく生きた人間……それも文明人だと自負している人間の悪意だった。

          過激な抗議活動の最中、命の危険に晒されるジャスティン。それは国連勤務の父を持つジャスティンが窮地に追い込まれることを撮影し、ネットで公表することで世界から注目されることも目的だった。自分がダシにされている事に気づいたジャスティンはアレハンドロに不信感を募らせる。

          赤 ――ヤハ族

          映画の宣伝も、恐怖は彼ら食人族のヤハ族であるように見せかける。しかし映画本編でヤハ族の描写は、人間を凌駕する力を持つ圧倒的な自然中での“営み”を強く意識させる描写が多かった。
          人体の解体ショーのシーンを抜きにすれば、ヤハ族の人々は、獲物を調理し共同体で分けあう普通の生活描写だった。

          白 ――ジャスティン

          ホラー映画にはいくつか“お約束”があるが、「処女は死なない」というものがある。
          割礼を施されそうになるのも、そのフラグを強調する。それらはジャスティンの“無原罪”、潔白を象徴させる。(赤いペインティングを施すヤハ族の中で白が神聖さを強調する狙いもあると思う。)

          川で罪人を地獄に送るという神聖な動物である豹が彼女を襲わなかったことで追跡を止めるヤハ族。実際、彼女は誰も殺していない。

          ジャスティンがヤハ族の食人文化を告発しなかったのは、パフォーマンスとは違う活動があることを世の中に示したかったためなのか、ヤハ族とアレハンドロをアマゾンに閉じ込めておきたかったからなのか……

          黒 ――アレハンドロ

          日常生活の描写を見せられたヤハ族を悪魔的に見るのは少し難しい。しかしアレハンドロは悪意そのものとして映る。

          ヤハ族に捕らわれ檻に入れられた学生達が、メンバーのひとりがが喰われるのを目の当たりにし、脱出する方法について検討していると、アレハンドロが衝撃の事実を告白する。活動はただのヤラセで、開発を妨害した企業のライバル会社から多額の報酬を得る約束をしていた。自然保護と現住民族の生活(人権)を守るというのは建前だった。そして3日後にはそのライバル会社がここに到達するであろう事……。

          脱出のために男性陣が背に腹は代えられない検討をする中、マスターベーションに耽っていたり、さらにヤハ族の檻から脱出し助けを呼びに行く際、アレハンドロは一緒に残ったラーズを負傷させる。自分が先に食べられないようにするために。こうした行為にアレハンドロが悪意の象徴であることを決定的にする。

          アレハンドロだけが最後まで喰われない。字幕ではヤハ族の会話には「神からの贈り物だ!」という言葉以外、字幕が当てられていないのだが、その言葉から鑑みるに、喰われず、ジャスティンのように(されてないが)通過儀礼を受けなかったアレハンドロは神からの贈り物ではない、ということか。

          映画冒頭アレハンドロが語る「衛星写真でしか見れない先住民族」が映画中盤から恐怖の対象だった訳だが、それを想起させるように彼自身が衛星写真に写り込んでいる。こちらを睨みつけて。身体は黒い影に覆われているなかで顔が浮かび上がり、その目が白く鋭く光って見える。

          におい(臭/匂)

          ヤハ族の村で、捕らわれた活動家のメンバーは一人、また一人と喰われていく……
          最初の犠牲者が調理されているとき、「匂いがする――友達が調理されてる」と呟く。その字幕は不快な“臭い”という表記ではなく、美味しい、香ばしい事を指す“匂い”であることが興味深い。

          その時、あまりの恐怖からか牢に囚われているメンバーの女性は便意を訴え、檻の隅で腹を下してしまう。その音と“臭い”に顔をしかめるメンバーたち。

          それをヤハ族の子供たちが嗤い、部族の人々が「臭い、臭い」と自分たちの鼻の前で手を仰ぐジェスチャーをする。

          この匂いの対比が立場の逆転を如実に物語る。

          だいたい人間が耐えられないほどの悪臭というのは、糞便か遺骸が放つ臭いに大別でき(※1) るという。

          にもかかわらず、食人を行うヤハ族が調理した遺骸のにおいは良い「匂い」で、被害者であり生きている人間の生理現象である排泄が嫌な「臭い」。

          ペルーの熱帯雨林の開発現場へ向かう途中立ち寄った、欧米的な設備と衛生管理が行き届いたレストランの描写から、自覚は無くとも自分たちの文化が進んでおり優位であると認識していた彼らは、それが存在しない世界で(文明の進歩から取り残され遅れていると認識し、無自覚に見下していた文化圏で)下賤な存在になってしまう。

          映像では伝わらないにおいの表現を、音や周りの人間の感情表現で観客に伝えることも、意図的に仕組んである対比がとても興味深かった。

          ロックフェラー失踪事件

          この映画を見たいと思ったのは、カール・ホフマン『人喰い』を手に取ったため。

          人喰い (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズIII-8)

          ロックフェラー失踪事件(※2)は、オランダ領ニューギニア(1961年当時)で、当時首狩りの風習が残っていたアスマット族の研究と現地の工芸を収集していたロックフェラーの御曹司・マイケルが消息を絶ち、大規模な捜索を行なわせたが発見出来ず行方不明となった事件。
          しかし、当時から一部で「首狩り族に殺され食べられた」と言われていた。

          この本は事件の真相を追求するサスペンスではなく、現地のフィールドワークが主体だった。
          しかしそれに並行して、当時の報道や証言――うわさ話や現地民の動向などの記録――を調査し、“誰が”という断定はしないものの、マイケルはアスマット族の部族のひとつ、オツジャネップの戦士に食べられた確信を強くする。

          第二章の冒頭から、いきなりマイケルがどの様に殺され、解体され食べられたかが描写される――具体的な事実の証言を基にしているというよりは、他の習慣としての証言や記録にある手順を基にしている。

          それと『グリーン・インフェルノ』の食人描写はフィクションなので手際が悪く、違和感にしか見えない。大して抵抗もせず四肢をもがれ、ビクビクと動く描写は嘘っぽさを強調していた。(すごい言い方かもしれないが、リアルじゃない故に私はゴア描写を安心して見れる。)
          最も、そのフィクション性がゴア表現の醍醐味なのだが。

          人喰い』で描写されたカニバリズムは、宗教的な理由であるためか食べる部位は決まっていて『グリーン・インフェルノ』のように全てを無駄なく食べる訳ではなさそうだった。

          カニバリズム

          ゴア・ホラーのギミックとして使われるカニバリズム。
          食物連鎖の頂点であると認識している人類が、同族に捕食される。蛮行と片付けられない事実が現実社会にはある。

          BSE問題から、カニバリズムで人間のプリオン病が発生して部族存続の危機になってしまうのでは?と思ったが、必ずしもそうとは言い難いようだ(※3)……

          カニバリズムの動機は大別して飢饉などによる極限の飢餓、性的欲求、究極の美食、そして宗教的理由がある。

          人喰い』では欧米社会とは異なるアスマット族の“宇宙観”から、彼らがそれに基づいてマイケルを“殺ろし、食さねばならなかった”事を指摘する。

          アスマット族には、報復による因果応報ともいうべき“円環”の概念があり、オランダ植民地下であった当時、原住民殺害に対する白人への不満と怒りがくすぶっていた。そして部族の通過儀礼として敵を殺す(そしてその遺体を解体、一部を食し、骨は戦利品兼武器にする)習慣があった。これら2つが絡み合い、ある時、偶然その場に居合わせた白人のマイケルに白羽の矢が立った……

          それを知らない(自分で知ろうともしなかった)ロックフェラー家の御曹司は、自分が属する欧米社会の価値観をそのまま持ち込む。
          金にモノを言わせれば大概の事は解決する、自分に不可能は無いという尊大な思いを胸に、その価値観が通用しない世界に。
          マイケルの身に起こった出来事はまるで、自分自身、個人の力でもない金の力に頼る傲慢な御曹司が自業自得で身を滅ぼしているようにも思う。

          この自分の所属する価値観の尺度の違い、その本質を知りもせず勝手に近づくことによって身を滅ぼしてゆくところが、『グリーン・インフェルノ』と『人喰い』の恐怖――後味の悪さ――、それは問題提起だった。

          抗議活動は何のため?

          『グリーン・インフェルノ』の描写で、観光客向けのレストランの前で現地の人達の様子を見た活動家のメンバーの女性は文句を言う。
          「シートベルトも無いバイクに子どもを乗せるなんて児童虐待だわ」
          現地の事情をよく知らず、自分の文化や生活環境を基準に相手を非難する。そこに見え隠れする優越感――自分は相手の悪しき習慣を是正しに来た正義の人である――という、相手を見下した姿勢がある。

          ドキュメンタリー映画『おクジラさま』で、他に産業も少ない大地町の人々と自分たちの価値観を押し付けるだけの捕鯨反対の活動家との討論会のシーンがある。
          土地の事情(農作物を作るのに適さない土地、物流も限られ高コストになりかねない)も知らず、ただ「捕鯨は悪だ!反対‼」と叫ぶだけの活動家人々に辟易した大地町の人は言う。「大地町のことは大地町で決める」と。
          過激な活動は結局のところ自己顕示欲のパフォーマンスに過ぎないと理解した。

          『人喰い』は対照的で、著者は“現地の人々との交流、生活習慣に入り込んで”いった。
          著者はその全てを肯定はしないまでも、アスマット族の宇宙観を理解することで、彼らの信頼を得、彼らは事実を語らないまでも、真実に繋がる片鱗が語られる。(さらに著者は当時のニュースや調査資料にも目を通し裏付けをとってもいる)

          テロでしかない過激な抗議活動も、現地でもない場所でのデモも、「それは一体“誰(何)”のため?」かと、自問させてくれる映画だった。

          1. 一条真也『香をたのしむ ―ハートフルフレグランスのすすめ』 現代書林 2010 p.49

            香をたのしむ ―ハートフルフレグランスのすすめ (日本人の癒し4)
          2. マイケル・ロックフェラー
            https://ja.wikipedia.org/wiki/マイケル・ロックフェラー
          3. なぜ共食いする生物がいるのか? カニバリズムのメリットとデメリット - ログミーBiz
            https://logmi.jp/business/articles/240662
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          映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』感想

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            JUGEMテーマ:映画

            映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ1

            公式サイト:
            https://godzilla-movie.jp

            良くまとまっていたと思う。ジェットコースターのような怪獣バトルのオン・パレードで、飽食気味になったけど……

            20年前に日本人が見たかった“GODZILLA”だった。
            90年代のアレは破壊光線を吐かなかったこともあって、"GOD"を取って”ZILLA”と揶揄されているけれど……(当時の価値観でのリアル路線と怪獣“パニック”映画の定番設定だったけれど)

            !!一部、ネタバレあり!!


            ゴジラ』へのリスペクト

            どこまでも東宝の歴代『ゴジラ』へのリスペクトだった。
            日本ゴジラが歩んだ道を踏襲している。すなわち、初代『ゴジラ』が反戦・反核の意味を込めた怪獣スペクタクルであったものの、時代の変化を受けて次第に対決モノと化し、大人向けから子供向けになったことも含めて。ただ、今作は子供向け(幼稚)にならないように配慮されていると思った。

            前作、ギャレス・エドワーズ版『GODZILLA(以下、『ギャレゴジ』)が現実世界寄りだったが、今作は完全にフィクション寄りを強くしていた。
            怪獣の調査機関に過ぎなかったはずのモナークの規模が実は大きく、前作での時間軸での事もあって資金が潤沢になっているようだった。大規模な研究施設を持っていたり、洗練された大型ステレス爆撃機を持っていたり……後付け設定で、実は今までシェルター作っていたなど。
            前作の雰囲気から突然の変容ぶり――フィクションっぷり――に驚きつつ……それを当然のようにキャラクター達は動き、俳優たちは演じていた。

            『ギャレゴジ』よりも家族関係のやり取りを描き、ファミリー層向けのような描き方だったが、昨今の社会における家族関係の問題をクローズアップしているとは言い難く、添え物程度のものだ。主軸は怪獣たちなので、致し方ない。人間は完全に脇役だった。

            映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ2 - RODAN映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ2 - MOTHRA

            怪獣たちのキャラクター設定も然り。意思の疎通があるのか無いのかわからないゴジラが、シリーズ化して次第に擬人化されたように。
            人間とのコミュニケーションを取るものや、目が合って敵意を向けるものなど。個体の特徴にも現れていた。

            私はアニメ版映画『GODZILLA 星を喰う者で、このハリウッド版ゴジラにおけるモスラが、東宝ゴジラのように大地母神的な性格持ち合わせてないだろうと予想していた。しかし今回のハリウッド版ゴジラはそこをちゃんと意識して、女性原理的な存在として描写していた。(そのため作中で"She"と性別が固定化されてしまっていたが、これは言語的に仕方無いのかも知れない。)

            これはいつかのようにスライディング土下座しなければならないレベル……
            ⊂(゚□゚*⊂⌒`つ≡≡≡

            ギドラもといキングギドラは言わずもがな……絶対的な“敵対者”。設定的に古代の巨大生物ではなく、宇宙から来た“部外者”であり、侵略者という位置づけ。欧米的な聖書の赤い竜(悪魔)の要素を被せていた。……顔は比較的東洋竜なのに。

            ラドンは『三大怪獣 地球最大の決戦(1964)』のように、ゴジラ、モスラと共闘することなく一体でギドラに挑み(おそらく敗れて)ギドラの子分になっていた。
            個人的には、メキシコ上空をラドンが飛んだ時、通り過ぎた後に人家が暴風に巻き上げられるリアリティに圧倒された。(※1)

            終盤の見せ場での“バーニングゴジラ”……歩く度に周りが熱線で融解しているのを見ると、アニメ版映画『GODZILLA 決戦機動増殖都市の赤線ゴジラだった。

            さらに初代『ゴジラ』でゴジラを斃した兵器オキシジェン・デストロイヤーまで出てきた!

            往年のファンにはたまらない濃縮ぶりだった。


            そうした諸々のリスペクト描写が詰め込まれて面白かった。私が特に気になった、原水爆の描写と音楽に表現されたゴジラについて、したためておく。
            物語の感想というよりは、今作を見て『ゴジラ』という映画、存在についての考察と感想になってしまった。

            "GODZILLA"と原爆 ――日米の認識の違い

            ゴジラが戦争、自然災害、何よりも原水爆の化身であるという見方は、多くの人が共有していると思う。
            『ギャレゴジ』はその意図を汲んで、“原爆を怪獣に使わせない”(海上で爆発させたけれども)という表現をした。

            今回は原爆をゴジラに使う。ただし斃すためではなく活力をあたえるために。

            原爆核の平和利用としての原発……戦後の未来志向・平和志向のオマージュとしてだろうか。しかしチェルノブイリ、スリーマイル島そして福島のこともあり、不測の事態に陥った時の悪影響の大きさ、場合によって長期にわたる環境への影響が認識されるようになると、その楽観は幻想に過ぎないという現実を突きつけられた。

            オキシジェン・デストロイヤーは対怪獣兵器の域を出ず、初代『ゴジラ』のような核兵器以上の兵器とは位置づけられていない。

            『ギャレゴジ』で父の形見である 8:15で時を止めた懐中時計を見せ反原爆を暗示した茅沢博士が、ゴジラを蘇らせるために原爆で死亡する……
            ついでにゴジラの寝床であった海中遺跡も破壊して。初代『ゴジラ』におけるオキシジェン・デストロイヤーと共に初代ゴジラを葬った茅沢博士へのオマージュだろうが、反原爆の茅沢博士を原爆で引導を渡すのはどう解釈したら良いのだろうか……?

            その答えとなりそうなことが、池田淑子編『アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ』にあった。

            ハリウッド映画の「原子怪獣現わる」(The Beast from 20,000 Fathoms,1953)や『放射能X』(Them! 1954)などに現れる空想上の生物がその好例である。しかしながら、アメリカ人は、核に対する不安を処理するには、深刻な反省というよりも、現実逃避の空想を好み、それによって核兵器をめぐる道徳的責任を回避しようとしたのだった。

            池田淑子編『アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ』 2019 p.47

            第二次世界大戦の終結をもたらしたとしても、アメリカでは原爆の下の惨劇―― 戦場ではなく非戦闘員がいる 街ごと焼き、人々が火の海を焼けただれた皮膚と出血が止まらない状態でさ迷い歩いていたことは伏せられていた。
            それは戦後も続き、核に関する検閲があったことが伺えた。
            そのため、制作された映画や広告では、原水爆の爆発による破壊力、放射線による健康被害について言及するシーン描写は不自然に避けられていたらしい。
            それらを無視して、原子力の平和利用……原発の効率的な発電から得られる電力の恩恵をクローズアップしたような描写が多いのだ。

            実際、マーベル・コミックスおよびその実写映画の『ファンタスティック・フォー』も宇宙線(放射線)を浴びたことで超能力を身につけている。

            原爆投下後のきのこ雲の下の惨状、放射能の後遺症についてなど、アメリカ映画で描かれている事は殆どない。強いて言えばジェームズ・キャメロン監督映画『ターミネーター2』でサラ・コナーが見た――未来のヴィジョン――公園で遊ぶ母子たちが一瞬で炎に包まれ灰と化したヴィジョンくらいだろう。

            今作で原爆の爆発をもってゴジラが活力を得るのは、アメリカ視点の延長に過ぎないと、私は思った。
            そもそも核エネルギーをゴジラが得るために爆発などさせる必要はなく(火薬いらない)、原爆の放射性物質を経口摂取させれば済む話のはず。
            爆発させたことで海中に沈んだ古代遺跡、ゴジラの寝床は無くなってしまう(この展開は東宝ゴジラにもあったはず)。ゴジラにとっても迷惑な展開である。

            映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ2 - GODZILLA映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』チラシ2 - GHIDORAH

            "GODZILLA"の音楽

            興味深かったのは音楽。
            重要なゴジラ復活のシーンで、伊福部昭氏の往年のテーマソングが流れた瞬間の、高揚感……!
            初代『ゴジラ』のテーマと比べて、テンポが速くオーケストラの厚みが増しているのは、今風のアレンジだが。
            怪獣たちの個性を表している。往年からのゴジラテーマ然り、モスラの歌は言わずもがな。ラドン、ギドラにも主要怪獣たちには各々のテーマ曲があった。

            映画『シン・ゴジラの感想でも書いたが、『シン・ゴジラ』の音楽を担当した鷺巣氏は「伊福部氏の音楽を超えることはできなかった」と言っていた。そういった理由というより、往年の(特に日本の?)ファンのためにそこはあえて崩さなかった、が理由だとは思う。『ギャレゴジ』では、独自のテーマ曲があったのだから。

            マーベル映画『ブラック・パンサーでもアフリカン・ミュージックを取り入れていた。トレンドと言えばそこまでだが、日本や、特に中国での興行収入を念頭に置いた時、東宝『ゴジラ』へのリスペクトを念頭に置かないと失敗するということがあったためだろう(※2)。

            そのためか、音楽――曲というより「音」――に日本的なるもの、アジア的なものとして含まれていた。
            シリーズを代表する3体の怪獣……ゴジラには日本のお囃子が重ねられ、モスラには中国の弦楽器の音が加わっている。そしてギドラには読経が重なっている。

            配給元のレジェンダリー・ピクチャーズに中国資本が入っていることもあって、小美人が中国人女優(研究者役)に置き換わっている事、インドネシア語?の歌詞は無くなり、架空の南の島ではなく雲南省にいるの事を、私は残念に思う。架空のその島は、ビキニ環礁を彷彿させるものだから。

            ギドラのテーマソングにベースとして組み込まれている読経は般若心経だった。
            その上に重なる、不穏なものの来訪を意識させるオーケストラによって、悪魔的になっている。
            葬式で読経されること(そこからジャパン・ホラー、怪談のイメージに?)、平坦な音階から、力強いお囃子の対として採用されたのだろうか?
            ギドラは般若心経の意味(※3)……救済や悟りとは対極に位置する存在なので、そこに違和感を覚えた。

            エコテロリストの存在

            少し話は逸れるけれども……エコテロリストについて。
            映画『ジュラシック・ワールド』の感想で私は、終盤の少女の行為に“エコテロリスト”という言葉を使ったが。この映画は直接的なテロリズムをするエコテロリストを描いていた。

            映画では「地球を守るため、怪獣を呼び起こし、適切な管理化で人間を減らす」という大義名分を抱える過激思想連中が現れる。
            現実の世界では、怪獣がいないだけで人間を攻撃することで自然保護を訴えるエコテロリストたち。
            環境問題、野生動物保護などの大義名分を掲げながら、その実やっていることはパフォーマンスの域を出ず、選民思想の延長で対立する相手を“自分より劣った悪い人間”として相手を非難している。

            エコテロリスト問題はハリウッド映画のトレンドなのだろうか……?2008年に“THE COVE”がアカデミー賞を取り賞賛されたが、シー・シェパードの代表ポール・ワトソンはICPOの国際指名手配犯となっている(※4)。その事と関連があるのではないかと勘ぐってしまう。


            怪獣たちと人類の共生はあり得るのかという未来への不安――次作への余韻――を残し、物語は終わる。
            エンドロールには怪獣たちの襲撃の後、怪獣たちが何をもたらしたのかを情報媒体を通して表現していた。それによると怪獣が破壊した後の場所では自然が回復している(うろ覚えだが、怪獣の糞が良い堆肥になるとか……)。
            エコテロリストの事も含め、環境問題を意識しながら手をこまねいている人間の無力さを揶揄しているのだろうか。
            映画『パシフィック・リムのKaijyuがその強酸性の青い血液で環境汚染をもたらす描写があったオマージュのようにも受け取れた。

            また、映画『キングコング』の舞台だった髑髏島に怪獣たちが集結している事が語られ、『ゴジラ vs キングコング』への布石があった。
            縄張り意識か誤解が発端になって、対決するのだろうけど……優劣を決めるような決着をつけるのは憚られると思う。
            破壊光線を出すゴジラに、道具を使えるけどコングは不利だと思うし。1962年公開の『キングコング対ゴジラ』は日本版では引き分けをにおわせ、アメリカ版ではナレーションでコングの勝利を宣言しているけれど。
            エンドロール後のギドラの首のこともあるので、ゴジラとコングらは共闘しそうな予感がある。

            1. モスラが羽ばたくと、猛風が起こる!|空想科学研究所 x 巨影都市|巨影都市|バンダイナムコエンターテインメント公式サイト
              https://knst.bn-ent.net/kusokagaku/articles/article03.php
            2. 【北米興行成績】『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が期待を下回る興収でトップに ( 2019年6月4日)
              https://jp.ign.com/godzilla-2/35907/news/

              日本と中国で大ヒット、アメリカで苦戦 ハリウッド版『ゴジラ』最新作の興行を読む|Real Sound|リアルサウンド 映画部(2019.06.06)
              https://realsound.jp/movie/2019/06/post-370655.html

            3. 般若心経の全文と意味、効果と仏教における位置づけとは?
              https://true-buddhism.com/practice/heartsutra/
            4. シーシェパード(Wikipedia / 日本語)
              https://ja.wikipedia.org/wiki/シーシェパード#cite_note-sankei-20141212-16
            参考文献
            池田淑子編『アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ
            アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ
            Pen+(ペン・プラス)『完全保存版 ゴジラ、再び。
            Pen+(ペン・プラス)『完全保存版 ゴジラ、再び。』 (メディアハウスムック)
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            映画『アリータ:バトル・エンジェル』感想 ――強調される、身体性

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              JUGEMテーマ:SF映画 一般

              映画『アリータ:バトル・エンジェル』チラシ3

              公式サイト:
              http://www.foxmovies-jp.com/alitabattleangel/

              原作がそうなので、この映画もガジェットSFだが、身体性を意識させる映画として昇華されていた。

              物語の感想というよりは、身体性についての考察。


              映画宣伝のポスターでも、目を強調したアングルの宣伝が多かった。その際立った特徴。
              不気味の壁のようなものかと思ったが、見ているうちに払拭される。
              原作に忠実に再現されている訳だが、もっと異なる意図があるように思えた。

              その大きな目だからこそ、幼さ、少女性が際立つ。

              身体性

              少女――球体間接人形

              アリータが当初与えられる、エングレービングが施された白いボディは、球体関節人形のような白く線の細い身体。
              エキゾチックな紋様が施された、神秘的なものだ。
              元はアリータを拾った医師・イドの亡くなった車椅子の娘のためのものだったためか、非常にか弱く少女的なものだった。

              四谷シモン、天野可淡ら……最近のものではスーパードルフィーなどを想像すれば良いだろうか?
              球体関節人形の可動性を持たせる関節の切れ目は、そこから解体できることを強調し、脆さ、儚さを暗示させる。
              また、この可動性は(モーターとか、内部に仕込んでいないこと前提にすると)外からの力によって動く。
              そこに介助を必要とした少女の面影、あるいは親の庇護を必要とする子供のイメージがある。

              戦闘に向いたものではなかったため、敵役・グリシュカに破壊される。

              成熟した女性――バーサーカーボディ

              300年前の地球と宇宙戦闘艇で導かれるように発見したバーサーカーボディ。アリータのためにある身体だった。

              ボディだけの状態だと男性的な身体つきをしていたものが、アリータの頭部を付けると彼女の身体に合うように女性的に変化する……
              両性具有的な表現にも惹かれた。

              元々、原作『銃夢』で主人公の名前はガリィ。
              ただ、英語圏での商業展開の際に"gully(雨裂)"になること、男性的な響きの名前であるため、“アリータ”に変更されたという。()
              そういう点では、本来の両性具有的な意味合いが暗示されているようで、私は納得してしまった。

              バーサーカーボディを得たアリータの力強くしなやかな動きは新体操そのもので、身体の筋力の強さ、柔軟さを見せる。
              球体間接人形の、動くこととはまた違う感動があった。
              球体間接の身体はイドの娘(私ではない誰か)の身体であり、アリータ自身ではない。それがようやく本来の身体(自己の主体性)を獲得する。主体性の獲得のヴィジュアル化とも解釈できる。
              これをアリータの少女から大人の女性への変化ともとれる。未熟でか弱い少女が、イド(保護者)の庇護から離れる、成長の瞬間だった。

              映画『アリータ:バトル・エンジェル』チラシ1

              敵役の“身体性”

              もう一つ興味深いのは、アリータの敵役たち。

              典型的な悪役(ワル)を想起させるキャラクターが勢ぞろいしているのだが、興味深いのは、その“改造”を強調した造形だ。
              アリータとイドが冒頭で遭遇する、チャッキーのような顔の男、蜘蛛女など。人間というよりはバイクのような形をなった極端な者もいるが。彼らは総じて身体の一部が強調されている。

              彼らの改造や一部部位の強調は、現実世界にも見られる。タトゥーや極端な例では人体改造(舌を蛇のそれのように整形する事例)など。広義には美容整形も含められるかも知れない。

              ハンター・ウォリアー(治安維持を名目とした賞金稼ぎ)のライバルであるザパンのサイボーグの背中にある意匠はタトゥーにありそうな柄だった。

              それは変身願望に自己実現だ。
              自信があることを強調、誇張すること、相手に見せたい自分、劣等感のある部位を切り離す、なりたい自分になる……そういった個々人の様々な感情を実体化させる行為と言える。
              そう考えると、悪役の個性が垣間見えてくる。

              体術

              アリータは闘争を通して過去の記憶がフラッシュバックし、 機甲術(パンツァークンスト)と呼ばれる体術を体得していた戦士だったことを知る。
              その動きにヨーガ、合気道、アジア圏の武術を想起する。

              体術に相手の急所を的確に突くイメージを抱く。短絡的に、それを実行できるのは自分の意思で身体をを制御する術を心得ているからと考える。

              身体をコントロールできることを、私はかつて、意思によって身体を制御しているからと考えていた。その極みが体術だと。

              そのイメージを、『銃夢』然りマンガやアニメを通して多くの人は共有していたように、私は思う。
              究極的に研ぎ澄ませれば、身体の苦痛や限界を超えられるのではないか、そもそも超えられる身体さえあれば己の志は実現できるのではないか、と。

              到底生身にはありえない様相を見せて読者の潜在的な願望を満たす。手足の損傷は意に介さず、上半身だけになっても攻撃をやめないその闘争の意思は、私たちが常に願う、意識の身体への優先を映像化したものと言える。幾重にも保護された脳だけが自己でほかの身体部分はすべて「乗り物」という場合、彼は脳以外の身体損傷を恐れる必要がなくなる。そして意志のために身体を犠牲にできる者には、かつてヘーゲルが『精神現象学』で告げた死を恐れない「主人」の特性が見え始める。
              それは超越の映像化なのだ。またそれは生身の身体の呪縛から解放されることへの夢とも言える。

              高原英理『ゴシックハート』2004 p.96

              ゴシックハート

              唯脳論

              『銃夢』が描かれた90年代頃まで、人体の解釈は脳が司令塔でありトップダウン形式で他の臓器に指令を送っているものと解釈されていた。
              SFの世界でも「脳さえ維持できれば人間は半永久的生きる」あるいは「ハイスペックなボディに変換し生身の人間を凌駕する兵士を生み出す」……という設定は枚挙にいとまが無い。士郎正宗『攻殻機動隊』もその一つだ。
              だが、現代の医学は懐疑的になっている模様。
              昨年のNHKスペシャル シリーズ「人体」では、メッセージ物質と呼ばれるタンパク質を介して、臓器は相互に影響しあっていることが取り上げられていた。
              ……つまり人間は、脳だけで物理的に生きられても、脳以外の臓器からの刺激やメッセージ物質が無いと“生きられない”のではないか?

              アリータのボディの換装は、漫画やアニメでは意志の身体の超越を意識させたが、この実写映画では意味が転じたように思えた。CGで再現されたリアリティを伴い、身体の重要性、必要性を強調しているようだった。

              身体の必要性

              『アリータ』における身体は『銃夢』のものとは真逆の価値観のように思える。

              義体のモノ化(取り換えがきく身体)ではなく、少女の成長を暗示させ、滑らかな動きで生身以上に身体の存在感を映像で強調しているようだった。
              体術もまた、身体を鍛えることで己と向き合い、心身を整える要素のひとつとも考えられる。

              押井守『ひとまず、信じない』でも、空手をするようになって、身体が心に影響を与えることを実感した旨を語っている。

              僕の若いころは、人間にとって一番大事なものは意識であり、首から上だけが重要だと思っていた。だから、究極に深化した人間は、自己を決定付けるものとしては脳だけがあって、体は機会に置き換えることが理想のようにも思っていた。
              その究極の形が『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』現れる登場人物たちである。ただ、作品ではその意識ですら自分のものであるのかどうかがあいまいになっていく。機会に置き換わった自分とは何者かという思いテーマに向き合うことになった。
              だが、空手を始めて、肉体を鍛えることを知ってからは、肉体こそが意識をコントロールしていることを感じるようになった。

              押井守『ひとまず、信じない - 情報氾濫時代の生き方』2017 p.37

              ひとまず、信じない - 情報氾濫時代の生き方 (中公新書ラクレ)

              それは自己の回復、ではなかろうか?

              アリータはイドに発見された当初、自分の名前も、何者かもわからずにいた。
              与えられた白い義体から、本来のバーサーカーボディを得て、本来自分が目指していたことを思い出す。

              前述の『ゴシック・ハート』において、『銃夢』『攻殻機動隊』人体改造やサイボーグ化が、肉体の限界という呪縛を超越という羨望があることを指摘していた。それは巡り巡って身体への情景に立ち返る。
              それが90年代と2010年代の時代の変化だと実感する。

              思えばジェームズ・キャメロン監督作品でも『ターミネーター』シリーズは、機械の身体という生身の人間を“圧倒する”存在と対峙する。(最終的には生身の人間が勝利するが)
              それが映画『アバター』では人造の生体を通して、戦争で負傷し下半身不随した兵士が活躍する。
              『アバター』では身体を通し、五感で感じることに重点を置いた描写、それを通して主人公が生きる力を取り戻すような描写が多かった。

              身体の必要性は食事の描写にもうかがえる。
              90年代ごろの遠未来設定にありそうな、たとえば脳に必要な栄養素の摂取を栄養剤で行っているような描写は無く、人間らしく経口摂取によって、生のオレンジやチョコレートなどを食している。
              “味覚”という、身体でしか感じることができない“五感”のイメージを刺激させられた。

              単純に私たちが普段から目にして食べているものを描写することによって、鑑賞者が共感しやすくしているだけかもしれない。
              その描写が必要なのは、ジブリ映画において食事の描写が生身の人間への生きることへの想起であるのと同じ描写だと、私は思った。

              身体を維持し鍛えることで整えるという、生身の人間でも必要なことが強調されている。

              映画『アリータ:バトル・エンジェル』チラシ2

              都市の情景

              押井守で思い出されたが、映画『攻殻機動隊』で“記憶の外部化”の延長として、映画『イノセンス』では「都市は巨大な外部記憶装置」として都市景観の描写に重点が置かれていた。

              『アリータ』では、それがより分かりやすい形で表現されていたのではないだろうか?描写された都市景観は、調和した世界の街並みの闇鍋だった。
              ヨーロッパの石造りと、トタン板で作られたスラムのような突貫工事、アジアのごみごみした街並みがさも当たり前のように混在している。
              戦争のあとの突貫工事あるいは違法建築は、世界崩壊後の混乱とその爪痕を如実に物語る。それを当たり前として人々が存在している。彼らもまた、多種多様な人種が入り混じっていた。
              人種の坩堝が都市景観として表現されていた。


              細部のクオリティも徹底的に再現、独自解釈も含めて作り込まれていたし、良作だった!

              しかし、若干時代に合わない?世界観だったかもしれない……SF的斬新さが無いという意味で。
              当然だが、世界観がどうしても2000年以前のSF……

              このクオリティで、あと5年、10年早ければ……そう思わずにはいられない。
              あ、でも10年前は『アバター』だったか……

              1. https://ja.wikipedia.org/wiki/銃夢#登場人物 > ガリィ

                https://ja.wikipedia.org/wiki/アリータ: バトル・エンジェル > アリータ

              参考文献
              【対談】押井守×最上和子『身体×義体の行方』前編 | 日本美学研究所
              http://bigaku-labo.jp/190211/talk/oshii_mogami
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              映画『ジェーン・ドゥの解剖』感想

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                ジェーン・ドウの解剖 [DVD]

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                http://janedoe.jp/

                本来、真相への手掛かりを掴むためのポジションである検死解剖が、事件の真相“そのもの”に繋がる。それが斬新だった。
                解剖して死因を究明する「だけ」のはずが、目の前にある死体が霊障の原因で、事件に巻き込まれてしまうという皮肉も。

                解釈が何重にも入れ子になっていて、真相にたどり着いても真意にはたどり着けない。
                素晴らしき密室ホラーサスペンスだった。

                物語は不可解な殺人?事件現場の地下で、身元不明の女性の遺体(ジェーン・ドゥ)が発見され、地元の葬儀屋に検死依頼と遺体が運び込まれることから始まる。

                ❗❗以下、ネタバレあり❗❗

                解剖

                今まで見たサスペンス系の映画で、検視解剖のシーンはあっても、その手順や目的について解説したものはなかった。
                実際の職業でなければ知る機会もないであろうと思っていたので、驚いた。
                同時に、知的好奇心を刺激される。

                普段、知ることがない検死解剖の手順。
                「あくまで死因を突き止めるのが検死解剖であり、推測で判断してはいけない」と監察医の父親は語る。
                そうした台詞に従事する人のプロとしての意識を垣間見る。

                しかし、あまりにも不可解な遺体、不自然な状態に、死因を特定することができず、次第に死因の解明という推理へとシフトしてゆく。

                推理

                解剖という、身体の中を開けて死因を知ろうとする行為が、事件の真相を暴こうとする行為と深く結びついている。

                “真実”を暴く“時”の格言の如く、時間の経過とともに進む解剖が真実を暴こうとするのだが、
                解剖が進むほど、周りで霊障がひどくなる。まるでパンドラの壺(箱)を開けてしまったかのように。

                爪に付着していた土や布に記述されていた記録などから、彼女はセイラム魔女裁判(※1)の犠牲者だったことが判明する。

                美しい死体

                映画『エイリアン:コヴェナンド』のショウ博士然り。ムラージュのイメージだった。
                一瞬、眠っているかと見紛うような艶っぽさ。白い肌や滑らかな肢体の美しさに色を添えるような血の赤に……それを開いて中を見る、好奇心を満たすような行為に陶酔するような……言葉は悪いが、一種の征服欲のようなものを匂わせる。それは同時に危うさ、破滅の雰囲気もある。

                美しい容姿……外皮は、生前のそれであると同時に、彼女が受けた、魔術?のような凄惨な拷問を包み隠すものだった。
                皮を剥いで真実を暴くと同時に、噴出する悪意。

                真相にたどり着ければ霊障が収まるのではないかと考えていた父子だが、むしろ悪化する。
                セイラム事件の凄惨な歴史と犠牲者の無念に思いを馳せ(これはあらゆる事件に巻き込まれた犠牲者を検死する医師たちが一度は抱える思いかもしれない)、赦しを懇願する父親の犠牲も虚しく、息子も死んでしまう。

                ジェーン・ドゥは憎悪しているのだろうか?
                それが彼女の意識なのかは判断できない。

                私には魔女裁判で魔女を封じて悪魔を退けようとして、魔女を生み出してしまったように思えた。

                一夜明け、検死解剖を行った葬儀屋では、警察官らによって現場検証が行われていた。
                ラジオで言われていた嵐があった形跡はなく、死体が歩いた形跡もない。だが、映画の冒頭にあった前日の事件現場と似た雰囲気――脱出を試みた形跡――がある。

                地域の安全を守る保安官の伝統か。
                賢明な保安官は、手に終えないと悟ったジェーン・ドゥを他の地域の大病院に送る。
                その救急車の中で、彼女の足に括りつけられた鈴の音がする。――霊障は既に始まっていた。

                音楽

                霊障が起こるとラジオから流れてくる素朴な歌。次第に不安の代名詞、霊障の象徴になる。
                冒頭で流れる耳障りなロックがかえって恋しくなるというか、元気をくれるものにすり替わっていた……

                この子供たちの楽しげな歌は"Open Up Your Heart"という、ジャズだった(1955)。(※2)
                ジェーン・ドゥと同時代(1692)の曲ではないのか……

                本来は楽しい曲のはずなのに、不気味な雰囲気にしてしまう……
                映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』で使徒と識別された参号機解体に〈今日の日はさようなら〉が使われた時の戦慄を思い出す。

                魔法陣

                ジェーン・ドゥがのみ込んでいた、自身の歯をくるんでいた布に描かれていた魔法陣。
                一瞬、 ソロモン英霊72柱の紋章にありそうな図紋だと思っていたが、それはソロモンの大鍵。魔除けのひとつだった。(※3)

                しかし何故、彼女の歯が抜かれ魔法陣を描いた布に包まれ、飲み込ませてあったのか……
                父親は彼女が受けた処遇を「拷問」と言っていた。
                だが……手足の骨を折るというのは拷問というより、死者の復活を妨げるための儀式だったように、私は記憶している。墓から這い出てこないようにするために。例の布も死後の復活を妨げる まじな いだった可能性がある。

                幻覚

                映画『オキュラス』のような幻覚作用による怪異は最近のホラー映画のトレンドなのだろうか?
                ポルターガイストをはじめとする具体的な霊障ではなく、当事者(巻き込まれた人々)しかわからない状態。

                セイラムの事件での少女たちの奇行には幻覚、すなわち“当人しかわからない現象”もあったようだ。(※4)それを踏まえているかもしれない。

                真相の解釈

                生来から魔女であったか、無実の女性であったか……多様な解釈ができる仕立てだった。ジェーン・ドゥ(名無しの権兵衛)が何者か分からないのと同様に。

                私はセイラムの魔女裁判が、無実の人々が犠牲になったという前提で鑑賞したため、ジェーン・ドゥも犠牲者であり魔女(悪意の塊)となってしまった、と考えていた。
                字幕版を鑑賞したのだが、字幕では父親の発言に「無実」という字幕が充てられていた。

                しかし、他の人の感想などを拝見すると、彼女は元々魔女であった、と考える人もいる模様。
                最近のハリウッドホラーでは、結局親玉が古代の悪魔だったりする傾向が多いので、その文脈もありうるだろう。
                記録に残っていない、セイラム魔女裁判の真犯人――魔女であり悪魔――で、秘密裏に葬られ遠く離れた地に埋められていたものが、時が経ち冒頭の事件があった家で誤って掘り起こされてしまった、という……

                どちらかは作中で明言されず、判然もしない。
                観る人によって判断が分かれる、判断を委ねられている、なかなかの良作だった。

                1. セイラム魔女裁判
                  https://ja.wikipedia.org/wiki/セイラム魔女裁判
                2. McGuire Sisters- Open Up Your Heart And Let The Sun Shine In
                  https://www.youtube.com/watch?v=GTGq3lnR14o
                3. ジェーンドゥの解剖 感想と解説 - シエスタ
                  http://occulticsiesta.hateblo.jp/entry/2018/02/07/ジェーンドゥの解剖_感想と解説
                4. 魔女狩りで19人が処刑された「セイラム魔女裁判」の原因は幻覚剤「LSD」かもしれない
                  https://gigazine.net/news/20151030-salem-witch-trials-lsd/
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                映画『GODZILLA 星を喰う者』感想

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                  映画『GODZILLA 星を喰う者』チラシ2

                  公式サイト:
                  http://godzilla-anime.com/

                  アニメゴジラ3部作最終章。
                  虚淵玄氏らしい脚本で、私は満足している。
                  時代に合わせてその役割も変えるゴジラ。『シン・ゴジラ』とも当然違う。

                  !!以下、ネタバレあり(というか、ほとんどあらすじ)!!

                  迷信/盲信

                  前作のラストで気になっていた――ハルオの味方を殺害し、任務遂行を妨害・破綻させた――ことで、移民船内が分裂する。
                  ゴジラを斃す好機を失ったことを糾弾しハルオへの処罰を求める異星人種族・ビルザルト。志願兵以外の兵士をナノメタルに同化しようとした戦術の非人道さを非難しハルオを擁護する人間。
                  ビルザルド側はハルオへ処罰を求め、移民船のライフラインを凍結してしまう。

                  極端な言い方をすれば、どりらも正しい。
                  あまりにも難しい舵取りに、船長はどちらの顔も立てれず、対処ができない。

                  自分達ではもはやどうすることもできなくなり、追い詰められ絶望した人間は、もう一方の異星人である宗教種族・エクシフの“神”にすがる……

                  同じ時、地球では討伐部隊の一部が、ナノメタルに呑み込まれなかったのはエクシフの“神”への信仰が篤かったため、と言葉巧みなメトフィリスに傾倒する。

                  不遇の境遇に“終焉”をもたらす“神”であるという――ギドラを。

                  「迷信は弱者の宗教である」という趣旨の言葉は、国や時代を問わずいくつかあったと思う。
                  「救われたい」という信心が盲信となり身を滅ぼす人間たちの姿が端的に示されていた。

                  ギドラ

                  エクシフによって呼び出されたギドラは高次元生物……高次元からの怪獣だった。

                  エクシフの目的は、ギドラを使ってゴジラを斃すことではなく、ギドラにゴジラも人類を含む自分たちをも喰いつくさせてあらゆる事を”終わらせる”ことだった。

                  ギドラに遭遇した移民船は、ビルザルドがライフラインを停止させていたこともあり、離脱ができない。
                  そのうえギドラによる高次元の干渉から時間がバラバラになってしまい、指揮系統が混乱する。
                  リアルタイムで話していたと思っていた相手は、既に爆破に巻き込まれて死んでいた……さらにオペレーターは‘過去’となってしまった――当事者としては‘未来’の――自分たちを観測してしまう……

                  「私たち……もう……死んでる……?」

                  確定した避けられない過去/未来に戦慄する。

                  移民船を破壊したギドラは地球にも影響を及ぼし、遂にゴジラとギドラという、怪獣同士の対決になる。

                  といっても、ギドラは高次元生物。
                  破壊光線は空間を歪めて軌道をずらし、ゴジラがギドラに噛みつこうとしても、まるで存在しないように透かしてしまう。
                  にもかかわらず、ギドラはゴジラに噛みつきその身体を拘束して牽引する。

                  ……上記、起こっている現象を私たち鑑賞者に伝えるように、ハルオと行動を共にしている環境生物学者のマーティン少佐が分析する。
                  苦肉の策というか、面白い表現方法だと思った。
                  SF的に面白い設定だが誰にもわかるように伝えるのはちょっと難しい。

                  ギドラがゴジラに干渉できるように仕向けているのはメトフィリスにあると判断したマーティンの助言に従い、ハルオはメトフィリスと対峙する。

                  エクシフの宗教は未来予測の高い技術――ゲマトロン演算と呼ばれる数学体系――から信頼されていたことが以前仄めかされていた。
                  メトフィリスによるとゲマトロン演算をはじめとするエクシフの技術は高次元に繋がるものだったため(もし四次元が三次元+「時間」だったら、時間の流れを俯瞰で見る技術ということになる)、その力が行き過ぎてギドラを呼び寄せたらしい。
                  彼らはその技術によって、未来にどんな“滅び”を見出してしまったのだろうか?

                  行き着くところは死であると――メトフィリスは華々しく散ることを是とし、ハルオにその引導を渡す役割を与えようとする。それを呑ませるために、ハルオに陰湿な精神攻撃を与えて……

                  若干、ハルオの葛藤の時間が長かった気がした。
                  メトフィリスが語る本質と未来とは、あくまでエクシフの過去であり、地球の未来ではないのに……

                  信仰も科学技術も人類を発展させたが、行き過ぎたそれらは人間をも滅ぼす……
                  エクシフとビルザルドがその象徴だった。

                  フツアの民のマイナの機転で、フツアの神・モスラを媒介としたテレパシーを使い、マーティンの助言によってメトフィリスの精神攻撃から逃れ、ギドラの干渉からゴジラを解き放ち、ギドラを退ける。

                  映画『GODZILLA 星を喰う者』チラシ1

                  怒り

                  人を捨ててゴジラを倒すか、人としての尊厳を維持して死に絶えるかという、二者択一ではなく“別の道”――たとえ自身が死しても命を繋ぐ世代交代という命の循環――をフツアの民に見出し、そちらに託すことにしたハルオ。

                  しかし安息もつかの間、マーティンが脳死状態のユウコのナノメタルを解析しバルチャー(前作のナノメタルの機体)を起動することに成功する。

                  科学者であるマーティンは、データとして遺されている技術力の抽出に関心があるだけで、ナノメタルがもたらす悪意には関心が無かったと思う。それ故にハルオは危惧する。

                  メトフィリスの言葉と、ミアナが「毒」と言わしめたナノメタルが再びもたらす破滅的な未来を予感し、全てを断ち切る決意をする。

                  同時に、ハルオは“復讐心”という自身の負の感情――両親を殺したゴジラを赦すことはできない“憎しみ”――があったのかもしれない。それ囚われたままの自身の心はまさに怪物であり、エクシフやビルザルドの負の遺産の一部だった。それらを包括した二次感情の“怒り”として脳死状態のユウコと共に、バルチャーををゴジラに向けて特攻する。自身もろとも破棄するために。

                  ゴジラの熱線で自身ごと焼き払う。

                  ゴジラにとってハルオが敵だったかは曖昧にとらえる。というより、見るものに解釈を委ねる仕立てだった。
                  単純に敵とみなしているナノメタルに反応しこれを焼き払う、
                  憎しみを向けられている自覚があったのか、(肉眼でハルオを見たゴジラは第一章で斃されているため、ハルオを目視していないので)

                  怒りという概念がなかったフツアの民。
                  ハルオの“憎しみ”という感情を理解できず、“いかり”の意味するところを理解できなかったマイナによって、ただの言葉の形骸があった。
                  それは“いかり”という言葉が本来の意味を失い、あらゆる厄を乗せて焼かれることで浄化するものとしてフツアの民に残った。

                  特撮の『ゴジラ』シリーズにおいて、怪獣対決や世相を反映していったゴジラは、初代の破壊神から予定調和され地球の守護神のようになっていった。

                  しかしアニゴジではそれらを踏まえた上で、徹底した役割分担をしたように思う。 大地母神的な性格はモスラに。
                  暴食的な破壊をギドラが担ったようだ。
                  ゴジラは……地球の生態系の頂点に立つ。それは一作目の『怪獣惑星』から一貫して“KING OF MONSTER”だった。 徹底して、人間の敵でも味方でもない。

                  人類の末裔、フツアの民はゴジラと共に共生する。
                  しかし、彼らはゴジラの守護下にいるわけではない。
                  フツアの民を守っているのはモスラだった。

                  もう語られることは無いが、遠い未来にフツアの民が滅びずモスラが再び復活する時、ゴジラとモスラの間で何か決着するのだろうか?

                  映画『GODZILLA 星を喰う者』前売り券

                  今年はハリウッド版ゴジラが公開される!
                  三つ巴かと思ったら、四つ巴だった!
                  日本では今年の夏休み映画だろうか……
                  まさかのモスラも現れる模様。(でも大地母神的な性格持ち合わせてなさそう……)

                  最後に一言……
                  アニゴジモスラがシルエットだけだったのが解せぬ。

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                  映画『MEG ザ・モンスター』感想

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                    JUGEMテーマ:映画

                    映画『THE MEG』チラシ

                    公式サイト:
                    https://warnerbros.co.jp/movie/megthemonster/

                    久しぶりのサメ映画。
                    元祖『JAWS』、本家『DEEP BLUE SEA』以降、サメ映画で超大作は特に無く、B級(むしろZ級?)映画の定番になっていた気がする。(※1)

                    このサメ映画は、お約束の流血や喰い千切られるシーンが無い。メガロドンが大きすぎて、犠牲者は丸呑みされてしまう……
                    ショッキングな描写が無い分、気楽に見れる映画だった。

                    ❗❗問答無用でネタバレあり❗❗

                    あまりまとまった感想にならない俳優語りは以下。

                    • 水泳選手だったというジェイソン・ステイサム。特技を遺憾なく発揮していた。
                    • テレビドラマ『HIROS』でワープができる能力者・ヒロ役を演じたマシ・オカ氏を久しぶりに見た。相変わらずいい役者。

                    海洋問題

                    映画というものは基本、時事問題をそれとなく盛り込む。今回強く意識されるのは海洋問題だった。
                    物語に関わるというよりは、取って付けたような感じが否めなかったけれど……

                    ハリウッド映画にも中国資本が積極的に入ってきているので、今回の舞台は主に中国海域だった。
                    日本とは近隣国のため、私には非常にデリケートな問題を孕んでいるものを突きつけられた……

                    研究施設が中国から沖合200海里先ーー公海上と言いたいのだろうけれど、日本の200海里と重なる部分もあり、海底資源開発で揉めている。海洋研究施設は、海面上がどうみても海洋掘削施設で……東シナ海の日中中間線にあるガス田開発施設を思い出された。
                    キーワードだけ、ネタ程度で取り上げられた捕鯨問題。私個人の解釈は映画『おクジラさま』で考えた通り……思い出してまた怒りがこみ上げた。

                    サメ映画なのでフカヒレ密漁問題も上げていた。こちらもキーワード程度だったけど。
                    密漁者はメガロドンに喰われた後で、手だけだったけど……密漁問題の裏側については台詞でさわりだけだった。

                    様式美

                    サメ映画鑑賞の魅力とは、様式美――死亡フラグをはじめとするお約束――にあると思う。
                    それを踏まえ、フラグを適度に折っている映画だった。

                    つまり鑑賞者がサメに関する知識を“知っている”前提で話が進む。
                    医療責任者のヘラー博士は転覆した船から離脱しわざと波を立てて泳いで自ら犠牲になる。
                    サメに囲まれた時は出血しないこと、波音を立てないこと、じっとしていることが危機回避につながることを、説明しない。(※2)

                    死亡フラグを折る、海のプロフェッショナルたち

                    海に関わるプロ達で構成されたキャラクター。考えもなしにバカな行動をとって当人または誰かに死亡フラグが立つという展開が、無かったこと。
                    例外は海に関わらない投資家・モリス(レイン・ウィルソン)だろうか。彼はひたすら道化役に徹していて、それ故の死亡フラグもしっかり立っていた。
                    あまり泳げないDJ(ペイジ・ケネディ)も道化役だが…彼にはフォロー役が必ずそばにおり、どの助言に従うため、助かる。

                    トシ(マシ・オカ)の死も自己犠牲ではなく、外部から衝撃を受けることは目に見えていたため、ハッチを閉めて衝撃に備えるのは普通の手順だ。
                    ただ相手が想定外に悪かったため、トシ自身それは予測していたし、殉死してしまうのがだが……

                    全てが淡々と正しく運ぶ。

                    それは定番の死亡フラグを折っているだけの話なのだが。

                    最終的には斃す訳だが、メガロドンの遺骸は他のサメに喰われ、全ては海の藻屑となる。
                    サメが海の掃除屋であることもしっかり描写して、綺麗に終わらせた映画だった。


                    ツッコミどころ

                    それにしても…なぜ、メガロドンはクジラの歌に惹かれたのか……確かにクジラを襲ったけれど……
                    隔絶された深海の古代海の中にクジラはいないと思うのだが?
                    救助の際に空いた“穴(GATE)”――温水の水の流れ――から出てきたメガロドンだというなら、クジラの鳴き声を知らないと思うのに……
                    ジェイソン・ステイサムが潜水艦救助作戦でメガロドンに遭遇した可能性を示唆しているので、隔絶した古代海から、何かの拍子に度々メガロドンが出てきたりしていたのかもしれない。(妄想)

                    そんなツッコミどころがあるのがサメ映画の魅力。
                    ご愛嬌、ということで。

                    ジェイソン・ステイサムが頑張ってメガロドンの背中に付けたビーコン。
                    海水浴場襲撃前に外れるシーンがあったけれど、意味があったのだろうか?
                    捜索隊がメガロドンを見失ったようではなさそうだったし……本編でカットされたシーンがあるのだろうか……?

                    そういえばチラシのメガロドン、本編のそれより大きすぎ。
                    これもサメ映画のお約束だった(笑)

                    1. サメ映画35連発!『MEG ザ・モンスター』公開記念特集|U-NEXT
                      https://video.unext.jp/feature/cp/shark35/ (2018/10/26確認)
                    2. 相次ぐサメの襲撃、防衛策は? | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
                      https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/062200153/ (2018/10/26確認)
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                    映画『ラ・チャナ』感想

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                      JUGEMテーマ:フラメンコ

                      映画『ラ・チャナ』チラシ1

                      公式サイト:
                      http://www.uplink.co.jp/lachana/

                      伝説的バイラオーラ(女性フラメンコダンサー)のドキュメンタリーではなく、ラ・チャナという“女性”のドキュメンタリーだった。


                      叔父に才能を見出だされ舞台に立ってから、テレビ、メディアへの露出を積極的に行い、人気絶頂にいたラ・チャナ。
                      ハリウッドデビューの声もかかったにも関わらず、彼女は突然、舞台、メディアからも姿を消す……

                      ラ・チャナが偉大である理由――踊りの技術もさることながら、それまで男の踊りであったサパテアード(フラメンコの足を鳴らす技術)を、女性でも行った先駆者だった。

                      インタビューと当時の映像から、彼女の反省とその功績を追ってゆくスタイルだったが、華やかな軌跡の所々に黒い棘のような存在がいる……
                      それはプロデューサーであり、ラ・チャナの夫だった男性だ。

                      #metoo ――抑圧からの脱出

                      ラ・チャナの口から語られる、ドメスティックバイオレンス(DV)があったこと。
                      ハリウッドから声がかかった途端、彼女を舞台から引きずりおろし、“家庭”に縛ってしまう。(DV男の自分勝手なプライドの死守と嫉妬のためか) しかも、その夫は彼女と娘を捨て、金を持ち逃げしてしまう……

                      当時のヒターノ(ロマ)社会の、保守的で男尊女卑な空気に抗えず、従うしかなかったと回想するラ・チャナ。
                      その元夫の事を語る時の彼女は、どこか遠くを見つめていた……
                      私はその表情に元夫への怒りよりも、諦念や失望、寂しさを見ていた。

                      それらを払拭する、対抗して自分自身であろうとするために舞台に立っていた。
                      ラ・チャナの芸術性は、DVや社会的なヒターノの抑圧に端を発していても、それを乗り越える彼女自身の力、慟哭だった。

                      現在、ラ・チャナは再婚し、今はやさしい旦那様と生活している。
                      映画の中で「書かないと覚えられないわ」と言うラ・チャナに「君はいつでも忘れるだろ」と言って、軽くどつかれる。夫婦漫才を見た(笑)
                      その姿が微笑ましい。
                      日常を追うカメラが写し出していたのは、 愛嬌があるワガママおばあちゃんだった。

                      コンパスの重要性

                      現在のフラメンコの女王といわれるカリメ・アマヤへのレッスンシーンは、フラメンコ好きには見逃せない。
                      「あなたの踊りに憧れていたの」と語るカリメ・アマヤは、ラ・チャナからサパテアードの指南を受ける。
                      マイクで音を拾っているようだが、鋭くかつ重い音に、舞台で観るフラメンコの圧や振動を想起する。

                      ラ・チャナが強調するのは、コンパス(フラメンコのリズム)の重要性だった。
                      ラ・チャナのメトロノームのように安定したコンパスはブレることが無い。

                      これは私が習っているフラメンコ教室でも言われた。
                      ……私は相変わらずリズム感無い。

                      映画『ラ・チャナ』チラシ2

                      舞台

                      加齢による筋力の減少、糖尿病を患っていることもあってか、今は立って踊ることはできないようだ。
                      それでも、彼女のコンパスの正確さは健在で、それに憧れる若手や、伝説的バイラオーラの姿を、踊りを見ようと観客が訪れる。

                      椅子に座った状態で“踊る”……初めて見たスタイルだった。
                      立ってサパテアードを打っていなくても、圧倒される。
                      それはラ・チャナが正確なコンパスに基づく、パサデアートの確かな技術とパルマ(フラメンコで手を打つこと)が奏でる音の力強さだった。
                      身体を楽器にしている。
                      フラメンコは踊りだけではないことを実感した。

                      舞台を終え、楽屋を片付けた後、彼女はゆっくりと階段を下りてゆく。
                      そのエンディングは、昨年見た映画『パッション・フラメンコ』のエンターテイナーとして感動の余韻を与えるサラ・バラスの姿とは異なるものだった。
                      普段表舞台しか見えない観客が垣間見た“普通”の姿――舞台という非日常ではない――バイラオーラの一日の終わりだった。

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                      大人向けダークファンタジー。
                      しかし、子供の頃を思い出させるディティール。
                      現実と幻想、決して交差せずとも互いに影響しあう。
                      そこで彼女は何を得るのか。

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