闘牛批判考

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    えすとえむの漫画『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に触発されて日本語で読める闘牛関連の本を何冊か読んだが、その中でも闘牛批判について触れていた。
    『Golondrina-ゴロンドリーナ-』5巻でも取り上げられていた。闘牛において、避けて通れぬ問題だ。
    因みに5巻で闘牛批判のパフォーマンス(銛を打たれ斃れた雄牛を人に見立てたもの)は下記URLのものが元のようだ。
    下記はペルーでの闘牛反対運動。

    Adventures in Peruvia"Bullfighting… sort of"
    https://aliinperu.wordpress.com/2009/11/14/bullfighting-sort-of/

    闘牛を調べる程に、その二面性を強く意識させられる。
    良し悪しではなく、人間の尺度で生きることを測った際に見るジレンマだ。
    それを考える事自体、人間の盲目を顕しているだけかも知れない。

    下記は以前書いた、『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――スペイン闘牛を日本人の私が見ての補強板みたいなもの。

    私はここで、闘牛を“様式美を追求した屠殺”と解釈して考えている。
    何故ならスペインの“闘牛”は"Corrida de toro(牛の走り)"であり、"Bullfight"の意味は無いのだ。
    つまり、「闘牛」も"Bullfight"も、誤訳ではなかろうか。
    スペイン語で"fight"に相当するものは"lucha"だった。


    闘牛批判

    闘牛批判で気になるのは「牛が可哀想」という言葉だ。
    闘牛の牛は元々、食肉用の牛だ。
    食肉の牛は屠殺しなければ食べられないのに、そう言うことに、人間の欺瞞を突き付けられている気がしてならないのだ。

    私が闘牛の本を読んで考えた闘牛批判の原因は、牛と人が勝敗を競って闘うものだと思うためではないか、だった。

    『Golondrina-ゴロンドリーナ-』3巻でデビュー戦で意気込むチカが同居人で付き人であるセチュに向かって「私、今日は勝ちに行くから」と決意表明をすると、セチュは怪訝な顔をする。「…は?勝つ?何に?牛に?」
    また、スペイン・セビリアに銅像が立つ闘牛士・マノロ・バスケスの言葉は闘牛士と牛の関係を的確に表わしていた。
    「牛は闘牛士にとって、敵ではなく協力者だ。ひとつのアートを実現するための協力者。あるいはこう言えばいいのかも知れない。牛は、マタドールが自分の芸術的エモーションを表現するためのメディアなのだ」

    闘牛は牛と人が対峙しているが、殺し合うのではなく、牛が人にた斃されるのが前提だ。
    実際に牛と闘牛士は勝敗を競う闘いをしておらず、それは八百長という意味ではない。
    屠殺を人と牛が闘っているように‘見立てて’いる事が、闘牛の始まりだったのではないだろうか。

    闘牛の歴史

    ミノタウルス退治に見るローマ起源説ではありえないという。
    むしろイベリア半島の屠殺に関わる民族の、その技術を披露する事と民衆のうさ晴らしを兼ねたものが、その原型であった可能性があるようだ。
    それが貴族の馬術披露や騎士道への敬意を示す行事と結び付いたり(この名残が馬上闘牛士・ピカドール)、文学などのインテリジェンスと結び付いた時に闘牛士の権威付けとしてローマ時代の剣闘士や供儀と結び付いたという。

    「闘牛批判は、流れる血を問題にしているのであって、殺した後の肉はこの限りではない」という指摘の的確さに驚かされた。

    闘牛を批判するのであれば、それは牛を殺す事だけでなく、その肉がどの様に扱われたかを含めて批判すべきなのかと考えてしまう。

    屠殺のタブー意識

    ただ、それを考えると“タブー”に触れる事になる。
    屠殺した後の食肉の行方だ。
    インターネットでは調べきれなかった。
    闘牛場を経たものにしても、屠殺場を経たものにしても、解体された牛の肉を現代人が100%消費できているとは思えない。

    そしてそれを批判しづらいのは、日常のシステムの目に見えないところにそれが組み込まれているからではなかろうか? 

    フランス人著者による闘牛批判の本、エリック・バラテ エリザベトアルドゥアン=フュジエ『闘牛への招待』は、闘牛で雄牛に打ち込まれる銛の数や即死させない点などを挙げてその残酷性を強調していた。
    しかし闘牛と屠殺の苦痛を比較する事は、私にはできない。
    そもそも計る事なのか?どちらが重いか軽いか、かかる時間の問題なのかなど――

    闘牛への招待 (文庫クセジュ)

    屠殺はあけすけに見せるものではない事は事実だ。
    臭いも凄いし、衛生面の配慮がある。
    闘牛はそれを目に見える、見易い形に演出されたものであることは確かだろう。それは人間(というより、都市部の人間や現代人)が忘れている生き物を殺して食すという面を明らかにしていると私は思う。

    「死もまた生の一部と思うんです。食肉用の牛として工場のようなところで嫌々死んでいくよりも、いい演技をして殺される方が動物に対する愛情だと考えるんです」

    これが日本人闘牛士下山敦弘の殺戮者としての理論武装。人類がつくりあげてきた文化は、矛盾と犠牲の集積だ。

    佐伯 泰英『闘牛はなぜ殺されるか』 (新潮選書)

    闘牛はなぜ殺されるか (新潮選書)

    日本人闘牛士の言葉は、日本の「いただきます」に込められた精神も合わせて、闘牛を考えていた。

    勿論、 闘牛はただの屠殺では無いのだが。
    前述の歴史的背景や経緯により、様々な‘見立て’や解釈がある。

    生と死の遊戯、一過性故の衝動、闘牛士がカポーテを振る技に惹かれるものがあったり――
    それらに美学があるのも事実だ。

    闘牛の本場であるスペインにおいてこそ、この賛否両論のせめぎあいが今も昔もいちばん激しかったといった事情も報告されれいる。それは考えてみれば当然のことなのだが、ありきたりなスペイン観や闘牛観においては案外見過ごされているところだろう。明らかに闘牛は人間に考えるべき題材をたくさん提供してくれる興味深いスペクタクルなのである。

    旦 敬介
    (『闘牛への招待』より引用)

    ボルジア家がローマで政権争いをしていた時代には、イタリアへ闘牛が輸入されたこともあったようだが、「残酷である」という理由から定着しなかったようだ。
    何故スペインには闘牛、屠殺の現場を直視する価値観が残ったのかは、極東の島国の本の中から見いだせなかった。

    番外編:食肉、屠殺は罪ではない

    屠殺と絡めて書いたが、私は屠殺は必要な事だと考えている。
    屠殺を嫌悪しビーカンに食生活を変える方もいらっしゃるが、私はその事も肯定的に捉えている。

    最近読んだ本で、ちょっと忘れがちな視点を取り戻す文章に出会った。

    「他の何者かに食べられるなら全然悔しくないけど、人間だけは嫌だ!」

    「人間は獲るだけとって残して捨てるから、人間だけには食べられたくない」

    動物たちは食べられることに関して決して嫌がっている訳ではないこと、食物連鎖から逸脱してしまった人間は、その知性と、優しさをもって生態系の円滑な循環を維持しなければならないことを意識させられた。


    今回調べて、闘牛に関しては私なりに疑問や批判的に思うものもあった。
    闘牛の世界観における保守的な支配意識、すなわち男性原理すぎることだ。今は女闘牛士もいるが差別意識があること、自然を人間が支配するという思想が根底にあることだ。そしてその“男の戦い”でないと「闘牛らしくない」のだという。
    話は飛躍してしまうが、女闘牛士の存在はそこに新たな価値を、時代に合ったものを見出すものになるのではないかと想像してしまう。

    それを考えるには私の蓄積されているものが少なすぎるので、まだ何も書けない。

    参考文献

    ギャリー・マーヴィン『闘牛―スペイン文化の華』 村上 孝之(翻訳) 平凡社 1990


    『Golondrina-ゴロンドリーナ-』5巻感想/考察

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      Golondrina-ゴロンドリーナ- 5 (IKKI COMIX)

      えすとえむ『Golondrina-ゴロンドリーナ-』5巻が発売。
      読了後、感無量だったので感想……というより、考察など。
      大分、5巻のネタバレ……

      闘牛での“事故”でライバルのヴィセンテが「闘牛ができなくなる」と聞き、戦慄するチカ。
      恐怖から目を逸らすようになっていた。
      恐怖との向き合い方が分からないチカは、闘牛反対運動の集会を目撃する。

      遂にスペインにおける闘牛批判についての描写が盛り込まれる。
      牛を人に置き換えたパフォーマンスや「牛を殺す娯楽」という言葉。
      チカがCDを持っていてるシンガーのジョラは反闘牛活動家で、チカとジョラは親しくなる。
      ジョラとの関係は、チカの過去の同性の恋人・マリアとの関係を思い出させ、依存のようになってしまうのではと読んでいて不安になる。
      チカの場合、女だけの世界は、自閉した関係でしかないように思えてならない。

      それ以降、チカの闘牛のスタイルが自閉したものになり、アントニオが珍しく語気を荒らげる。
      「自己中心的になるな」「今のお前の闘牛は、ただの殺しだ。」と。
      そこに闘牛が「牛をなぶり殺す」事が主体ではない事が示唆されていると思うのだが……

      傷を負い、それを克服できず、周りを傷つけるチカ。
      アントニオはそれを見透かしていた。

      紆余曲折の後、ジョラに連れられ、闘牛反対運動の集会で発言するチカ。
      それは「牛を殺すこと」云々ではなく、「それでも私は闘牛士でありたい!」という、自身のアイデンティティーの確立を宣言するものだった。
      闘牛批判に対する反論でも、闘牛の正当性を主張するものでもない事に感動してしまった。
      これは2巻における牧場の牛との対峙のように、ミノタウロスというトラウマの克服の反復であり、その延長に他ならない。

      『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に見る神話 ――『ミノタウロス退治』と“生きる”事
      『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――ミノタウロス

      元々「牛に殺される」ために闘牛士になりたいと言っていたチカ。しかし「闘牛場は「死にたい」なんて気持ちだけで立てる場所じゃない」とチカは言う。

      ヴィセンテの“事故”を受け、ただ牛を殺すだけの闘牛をしていたチカ。
      「闘牛ができなくなり、死ねないかも知れない」という自分の恐怖と不安から目を逸らしていたためだった。
      自分が生き残るために牛を殺す訳でもなく。
      まるで黙々と屠殺をする機械同然だった。

      アントニオに連れて行かれた牧場の、練習用の闘牛場に立っているヴィセンテの姿を見て、チカは恐怖を克服する。
      それがチカにとって何故、怖くなくなったのだろうか?この巻では明言されていないが……

      この巻では、キャラクターが各々の“傷”をいかに克服していくかが語られている。紆余曲折を経て。
      アントニオにとって“フランチェスコの死”はもはや“過去”になりつつあるように。

      チカが闘牛場で生きるか死ぬか、雄牛との関係の中で何を見出すのか――
      このコミックの中で、チカは一度も「生きたい」と言っていない。
      チカはヴィセンテの「闘牛場は俺達の生きる場所だ」と言う言葉の意味を理解する事があるのだろうか?

      このコミックに出会ってから、闘牛についてより興味を持ち、関連する本を読んでいた。
      絵画などイメージにおける闘牛に始まり、その精神について、フラメンコとの関係性、その批判の理由や反論など……
      闘牛批判については別途書きたい。

      もしかしたら、次の巻で闘牛士殺しと名高いスペインのミウラ牛牛が出てくるのではないだろうか……
      物語における重要な闘牛士・フランチェスコを殺した牛の事がある。第1巻に出てきて、それ以来語られていない牛がいる。
      1巻で「いい動きをする牛は殺さずに牧場に返す。その種を後に残すためにな」「闘牛士は死んで、牛が生き残った」という台詞。
      その牛の血脈が、チカの前に立ちはだかる。そしてその牛はミウラ牛ではないかと、勝手な想像をしてみる。

      連載雑誌の休刊という、勿体無い話で、この巻が最終巻になってしまうのかと思っていたが、何と!2015年夏に、全編描きおろしで刊行されるとの事!!
      嬉しすぎ。
      連載雑誌の休刊で、連載打ち切りになったお気に入り漫画があったので……


      『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――ミノタウロス

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        『Golondrina-ゴロンドリーナ-』4巻が発売されて、案の定、感銘を受けたので考察のような感想をしたためようと思った。
        闘牛が持つ迷宮神話の系譜についてだが、!コミックのネタバレ込み!

        Golondrina-ゴロンドリーナ- 4 (IKKI COMIX)

        死んだ闘牛士、フランチェスコが“ミノタウロス”になっていた。

        それは物語の初めからあり、この巻で明るみに出た、というのが正しいだろう。
        度々書いているが、迷宮神話のミノタウロスは“死”や“トラウマ”を象徴する。
        そして闘牛の牛はミノタウロスと喩えられる。
        例えば、フランチェスコに死をもたらした点で言わずもがな。
        『Golondrina-ゴロンドリーナ-』2巻では、明け方に牛と対峙したチカが、己の暗い過去を暴かれている。
        【過去日記】『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に見る神話 ――『ミノタウロス退治』と“生きる”事

        牛によってもたらされたフランチェスコの“死”は、関わった人間たちの“トラウマ”になっている。

        それを強く意識させるように、フランチェスコの芸名は「死神」であったという。
        漠然とながら存在していた、フランチェスコの影が現れる。

        観客にはゴシップのようなもので、良い闘牛をした闘牛士が死闘の末に絶命した悲劇として 。
        ヴィセンテはその場を見ていたので、フランチェスコが生と死の境界に立っていることに畏怖の念を抱く。それは彼の闘牛のスタイルの理由になっているようだった。

        各々の形でフランチェスコという“ミノタウロス”を抱えている。

        チカの誕生日はフランチェスコの命日であること。
        そしてヴィセンテ・ガジョの父親がファン・ペドロ・ガジョではなく、フランチェスコだった。

        フランチェスコのライバルであったファン・ペドロの暗い影を浮き彫りにする。

        「あいつはもうどこにもいないのに」事実を淡々と指摘するアントニオ。
        その後ろの壁に掛けられた写真の中のフランチェスコが、ファン・ペドロの顔を覗き込むような、睨みつけるような構図になっている――
        それは心の中を見透かすような、或いは責めるように思えた。
        激情に駆られたペドロが、フランチェスコの写真にワインのボトルを叩き付ける。流れるそれは流血の様だ。

        フランチェスコという“ミノタウロス”(トラウマ)をいかにして斃す(克服する)のか。

        ガジョの家名とフランチェスコの血筋に苦悩していたヴィセンテは、闘牛場で自分自身を肯定する。
        ヴィセンテは脊髄損傷をしながらも一命を取り留め、フランチェスコのようにはならなかった。
        かつて彼がチカに「生きる場所」と言った場所に立てなくなった彼は、生きる道を探さなければならない。

        そしてチカも“ミノタウロス”に対峙しなければならない。
        牛に突き上げられ、負傷した際の恐怖と、ヴィセンテが闘牛ができなくなった衝撃から。
        何より、「死ぬために闘牛場に立つ」という思いに。

        そのための布石はいくつかあった。
        フランチェスコの死を「ただの事故」と言い、「命をかけることと、命を無駄にすることは違う」と指摘するルナ・サンチェスの言葉。
        チカはそれに自問する。

        その答えが出て“生と死の境目”に立てるのかも知れない。

        3月に行われたサイン会にも行ってきた。

        ヴィセンテのポラロイド風イラスト、闘牛のチケットレプリカそしてペーパーコミックを参加のおみやげに頂けた。


        映画『ホビット』考察 ――竜について

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          ようやく日本公開の『ホビット 竜に奪われた王国』が今月末公開する。
          海外では昨年末公開だったのに…遅すぎる。

          前作は童話的な世界観に惹かれたが、今回はどうなるのだろうか。
          原作も読んだが、作中でちょっと面白い樽乗りの部分が、予告編では何やらアトラクションの様な描写になっているようだ。
          オリジナル要素も組まれ、レゴラスやオリジナルキャラクター、タウリエルが出てくるらしい。
          元々、原作『ホビット』では、女性の気配が皆無だ。前回映画『ホビット 思いがけない冒険』では花を添えるようにガラドリエル(ケイト・ブランシェット)が出ていた。
          『ロード・オブ・ザ・リング』で原作を尊重した映画を創ったピーター・ジャクソン監督なのだから、覆す事は無いだろう。
          心配はしていない。
          映画として見栄えの良い仕立てになっているだろう。

          いよいよ、邪竜スマウグとの対峙がある。


          トールキンはスマウグにどの様な意味合いを持たせているのだろうか?

          名前の響きが不思議なので、少し調べてみたところ、
          “ トールキンによると、スマウグの名前はゲルマン祖語の動詞 smugan (「穴に押し込む」の意)の過去形である”(wikipedia)そうだ。
          はなれ山の地下に溜め込まれた財宝に惹かれたスマウグの性質そのままだ。

          竜という、倒さねばならぬ強大な敵。同時に、竜は魅力的な存在だ。
          映画公開も近いので、スマウグ、竜について考えた事の備忘録。

          『聖ゲオルギウスと竜』など、ファンタジーには欠かせない竜退治の物語。
          トールキンは竜に魅了されていたようだ。

          想像だけであってもファフニールがいる世界はずっと豊かで美しいのだ。そこがどんなに危険であろうとも。平穏で肥沃な平野に住む人は、人跡未踏の山々や自然のままの荒海のことを聞くと、心底あこがれてしまう。人間の身体はもろいけれども、心はたくましいのである。

          『妖精物語の国へ 』(ちくま文庫)(p.79)

          The dragon Fafnir guards the gold hoard

          『指輪物語』がイギリスの神話として執筆され、そのモティーフが北欧、ゲルマン神話等をベースにしている事は言わずもがな。
          『ホビット』のスマウグ退治は、英雄ジークフリートのファフニール退治が基盤になっているようだ。
          それは『ニーベルングの指環』のベースにもなった、『ニーベルンゲンの歌』に描かれている。

          ファフニールはゲルマン神話等に登場するドワーフ(もしくは人間)。
          ワーム(日本語では竜-ドラゴン もしくは蛇)に変身する。
          その名は(多くの黄金を抱え込んだことから)「抱擁するもの」を意味する。

          ファフニール(Wikipedia)

          ファフニールの存在にスマウグとドワーフの深い関わりを強く意識させる。
          彼らは同一の存在のように思えた。金脈や宝石を抱える大地を表した存在として。
          大地を表したという点で、ホビットとも繋がりが生まれそうだ。
          因みに、ホビットにも物をため込む習慣が設定上にある。

          そこまで考えたが、トールキンにとってどういう意図があったのかは、浅学な私では確証は見出せなかった。
          むしろ図像的解釈、象徴的なものから物語が何を表すのかという考えは、トールキンの文学を語るにはお角違いのようだ。

          妖精物語の国へ (ちくま文庫)

          『ホビット』の公開も間近なので、トールキンのファンタジー論を知るために、彼のエッセイ『妖精物語の国へ』を読んだ。
          私が影響を受けたファンタジー論はミヒャエ ル・エンデのものだが、それとは違う視点が斬新だった。
          妖精物語(ファンタジー)を時間、場所、身分…あらゆる要素が大鍋で煮詰められた妖精の「スープ」と表現していた。
          言語学者らしいトールキンの見解だと思った。

          以前の日記で、私は『指輪物語』を神話(神話叙事詩)、『ホビット』を童話として位置付けて書いていた。
          しかし、その考えは改めなければならないようだ。トールキンに敬意を表して。
          『妖精物語の国へ』では、神話と妖精物語(私の基準では「童話」)に高位、下位という概念はないと言っていた。
          (神話の劣化版が童話であるという考えを否定するトールキンの考えに、私は同意する)

          トールキンにとって竜はどのような存在なのか、私が今それを考えるのは無意味に思われるので割愛。

          新訳『ホビット ゆきてかえりし物語』も読んだ。
          以前読んだものよりも巻末の注釈が充実していて、『ホビット』の魅力を深く知る事ができた。トールキンが影響を受けた、先人の詩人達の事も照らし合わせて読める。
          それらから思うに、竜云々はディティールであり、深い意味は無さそうだ。

          寧ろ人間的な部分が、凄くドロドロとしているので色々と考えさせられる。
          私には財宝をただ“溜める”(あえて「貯める」としない)スマウグの悪意の方が美しく思える程に。
          欲望から生じた利害を不純物として、一致すれば手を結び、そうでなければ対立する関係は、第一次世界大戦を経験したトールキンが目撃した嫌悪すべき悪意なのかも知れない。


          抑圧されるシャクティ――インドの女性差別の原因と女性解放運動から思うこと

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            JUGEMテーマ:India
            JUGEMテーマ:ジェンダー問題

            私がインドの神話に関する本アラン・ダニエル―『シヴァとディオニュソス』を読んでいた時、インドで女性への暴行事件とそれへの抗議デモが起こった。
            それらの報道を見て、大きな矛盾を感じた。
            インドには女神信仰や男女性の違いを肯定をする思想があるのに、こうした性犯罪が昔から絶えない事だ。

            インドで女性暴行事件が起こる度、一因として日本で報道されるのが「カースト制における女性の地位の低さ」と「貧富の差によるはけ口として女性が被害に遭う」というものだ。
            なぜ女神信仰のある国で「カースト制」では女性の地位が低く、それを口実?に犯罪が起きてしまうか疑問であった。
            読んでいる本が本だったのでインド文化の集大成、歴史の片鱗でもある神話にもその理由が垣間見られるのではないかと考えていた。

            以下は私が調べた限りでの、神話に見る文化史からカースト制のインドの女性蔑視の原因についての備忘録。

            Ravi Varma"Saraswati"

            インドの女性観

            インドにおいて女性の地位はどんなものか?
            ネットで調べた所、興味深いコメントを拝見した。

            ヒンドゥー社会では女性への視点に中間が欠落していて、上か下か、という両極端が非常に強いと言えます。ヒンドゥーで信じられるところの「女性性」が発揮されれば崇められ、そうでなければ冷遇されるわけです。

            このことはヒンドゥーの神話にも反映されているように思えます。
            インドの神話ではことのほか女神の存在が大きく、静的な男神に対して女神の活躍ぶりが目立ちます。インド各地でカーリーやデヴィ、ドゥルガーなど沢山の女神が信仰されますが、創造をおこなうと同時に圧倒的な力で破壊と死をもたらすというのがおよその共通点でしょう。美と温和の面を持ちつつ、ある時にはプラス、マイナス両方向に圧倒的なエネルギーを放出すると受けとめられているのです。

            その本質は「シャクティ」すなわち「(女性の)力」とされています。女性である神の力によって男性神が活性化される、世界の根本に女性の力がある、という風に認識しているのが神話に見るヒンドゥーの特徴です。

            http://okwave.jp/qa/q360761.html

            参考:Shakti(Wikipedeia/英語)
            http://en.wikipedia.org/wiki/Shakti

            『シヴァとディオニュソス』の第十一章では、古代インド社会(原初のシヴァ教)は母系社会だったことを指摘している。
            ‘世界の根本に女性の力がある’という上記コメントからも、古代インドが地母神信仰だけでなく社会が母系社会だった事が伺えるのではないだろうか。

            では何故、中間の視点が欠落してしまったのだろうか?
            それはやはりカースト制の成立に起因しているように思えてはならない。
            成立の過程で何が起こったのか?

            インドのカースト制の論拠となる「マヌ法典」には、女性というものを抑圧するように明記されている。
            下記『立ち上がる女性たち』には一部を抜粋してある。
            http://www.jca.apc.org/unicefclub/research/97_india/index.html

            『マヌ法典』(紀元前2世紀〜紀元後2世紀頃成立)はヒンドゥー教の聖典だが、その前身には、インドの先住民族トラヴィタ人ではなく遊牧民族アーリア人の「バラモン教」の影響があるという。

            参考:『ヒンドゥー教の起こりと開祖』
            http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/index.files/tenyou-ki.files/okori-hindu.htm

            そしてバラモン教は‘紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程で形作られ’、‘紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始ま‘ったという。

            参考:バラモン教(Wikipedia/日本語)
            https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99

            定住農耕社会では、財産はふつう女性に属し、母から娘に相続させる。(中略)これにたいし、遊牧民社会では、男性が優位に立ち、女性は売買の対象とされる。アーリア人の侵略から生まれた主な社会問題は、遊牧民社会の父系制システムを維持しながら定住社会になったという点にあると言えるだろう。

            『シヴァとディオニュソス』 第十一章 生活と社会 p.393

            シヴァとディオニュソス 自然とエロスの宗教 (芸術人類学叢書)

             インドの原住民族であるドラヴィダ人(定住農耕社会)の社会が受けた、アーリア人(遊牧民社会)侵入によって、男性に主権がある制度(カースト制)が確立されていったらしい。

            抑圧される女の力

            母系社会(女性原理)から男性原理の社会(階級制による支配、ヒエラルキー社会)への転換が女性蔑視を生んだようだ。
            男性原理とは“所有原理”でもあり、新興勢力(男性原理)が既存の体制(女性原理)を支配するにあたり女性原理を抑圧した、という想像はたやすい。
            だが、支配するのにどうして女性そのものを卑下しなければならなかったのか?

            それは‘ヒンドゥー教では女性は潜在的に危険な力を有すると信じられており’それを管理するのが男性の役目である、という考えがあるためのようだ。
            http://www.indjpn.com/asiaxsoc5.html
            では女性が潜在的に有する‘危険な力’とは何を指し、なぜ恐れたのか?

            それにつながりそうな、性に関しての興味深い本を読んだ。

            夏目祭子『知られざる最強の創造エネルギー なぜ性の真実『セクシャルパワー』は封印され続けるのか』
            知られざる最強の創造エネルギー なぜ性の真実『セクシャルパワー』は封印され続けるのか(超☆きらきら)

            この本では性交を男女のエネルギーの循環とし、その循環は無限大(∞)のように男女共に高めあうものであると説いている。
            それが人間の力の源でもある、と。
            しかし、男性原理を取り入れた社会や宗教がヒエラルキーによる支配制度の確立のために、性を抑圧する事で支配される人間の力を削ぎ、それを成し遂げたという見解だった。

            この“性のエネルギー”、女性のものが「シャクティ」であり、‘危険な力’を指すのだと思う。

            古代の人々は感覚的・概念的に性のエネルギーを知っていて、性のエネルギーで支配される人間が力を持たれては、反乱が起こりヒエラルキーが揺らいでしまうと考えた。
            そのため、女性を所有物とし蔑視するように仕向ける事で、男性の所有原理を満足させつつ力を削ぐ事を可能にした、が真相ではなかろうか?

            為政者がヒエラルキーを構成する人間の力を削ぐ目的で、性のエネルギーを抑圧するために女性を悪しきものと扱ったという解釈は、説得力があった。
            カースト制成立時の女性蔑視にはこの考えがあったのではないだろうか。
            マヌ法典しかり、文明が成立してからの宗教の中で、最初の女である聖書のエヴァやギリシア神話のパンドラも、誘惑と罪を招く存在として描かれているのだから。

            それとは別に、このカースト制がインド社会を築いた優れた社会システムとして受け入れられてしまった理由を考える。
            これは私の想像に過ぎないが、男性原理的と目される“合理的”であるが故に、機能的な社会を運営・維持する制度として認識された事が一因にあったのではないだろうか……?

            バラモン(司祭、僧侶)、クシャトリア(王侯貴族、軍人、戦士)、ヴァイシャ(一般市民、商人、農民)、シュードラ(奴隷)、そしてダリット(不可触民)という名称からは、ヒエラルキーというより古代からの役割(職業別と言って良いだろうか?)区分が基準になっている。
            それをカモフラージュに、上下関係を設けたように思える。

            アラン・ダニエル―は著書の中で、カースト制を“合理的な役割分担”と見なし、肯定的に捉えいたフシがある。社会の需要と供給が保たれる合理的な社会構造だと……
            だが、アラン・ダニエル―に言いたい。役割分担であるなら、それが必然的にヒエラルキー化したとしても、それが偏見と差別、搾取に繋がってはならないと言って欲しかった。
            アラン・ダニエル―がどう思っていたのか、私は知る由もないが。

            Ravi Varma"Ravi Varmasaraswati"

            インドの女性解放運動

            現在の問題に話を戻そう。
            インドでは事件がある度に女性だけ行動を制限する事で安全を図った事にしていた。
            言わずもがな、女性の行動をルールで縛っても女性の安全は守れない。

            『ルールで縛ってもインド女性の安全は守れない』 By  TRIPTI LAHIRI
            http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324774204578214643280675364.html
            上記でも女性の自由な外出を訴えている。

            勉強や仕事などで自宅の外で活動する女性の数が増えるにつれて、女性が女性専用車両にはあふれて他の車両に乗ることになるだろう。そして、女性の数が明らかに多くなれば、女性に対する暴行は減るだろう。

            この事件により、インドでも女性解放運動の声がより高まっている。女性たちの抗議デモが、連日報道されていた。
            インド女性解放運動は、イギリス植民地支配時代に西洋思想の影響を受けた、主に都市に住む教育を受けた女性たちによって担われた。
            ジェンダー理論は西欧から起こったが、背景には大戦により戦場に行った男性に代わって女性が社会進出をした事がきっかけだった。

            女性の社会進出が進み社会に良い影響が出れば、カースト制の女性蔑視を変える事が出来るのだろうか?

            男女同権とは社会的権利は等しいという事だが、その上で女も男も、互いの性質の“違い”を本当に理解できているのだろうか?
            私には男女同権が、未だ男性の尺度で女性の性質を計っているようにしか思えない。これはインドに限らず、日本でもだ。
            上記で挙げた理由で考えると、女性を抑圧するということは、巡り巡って人間の力を疲弊させてしまうという事ではあるまいか?
            話が飛躍してしまうが、社会に活力が不足するのは、これも原因ではないだろうか?
            だからこそ、シャクティを根源とした女性の力は、ちゃんと発揮されれば社会全体の底上げが可能であるはずだと私は思う。

            1.  インドの原住民族は諸説あるが、便宜上ドラヴィダ人とした。
            2.  インドの原初の宗教には特定の名称がないようだが、アラン・ダニエルーに倣い“シヴァ教”とした。

            『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――スペイン闘牛を日本人の私が見て

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              えすとえむ著『Golondrina-ゴロンドリーナ-』(以下、『ゴロンドリーナ』)が今お気に入りのコミックなのだが、一部のコミックレビューが「闘牛は残酷」の一辺倒だったので、気になって考えていることをまとめる。

              近年、動物愛護の観点からスペインでは闘牛の廃止が広がっている。
              だが、残酷さだけでははいと私は思っている。

              屠殺の話とも関連するが、私達は普段食しているものが生き物を殺して食べているということを意識させられないだろうか。
              闘牛ではショーという形を取るが故に屠殺の残酷さが緩和されていたのではないだろうか。

              屠殺はもちろんショッキングなものである。
              普段、陽の目に晒すものではない。だが、それを認識する事もまた必要ではないか。
              精製された肉に死の匂いはしない。勿論それが残酷さの緩和の表れであるが、だからこそ真摯に受け止めるきっかけとして闘牛に思いを馳せる。


              儀礼――日本人の私が見て

              日本人である私は闘牛に礼儀作法を垣間見ようとする。
              牛を躱すとき、銛を刺すとき、その洗練された動きに。
              だがスペインの闘牛に日本の「道」のようなプロセスに重きを置いた礼儀作法など、無いように思えた。
              それを思い知らされるのが、仕留めた牛が絶命する前にさっさと踵を返す闘牛士の姿だ。
              それは次の準備があるから退場するのだが、闘牛士も観客も死んでゆくただ一頭の牛に思いを馳せる者はいないように思える。
              やはり、娯楽の粋ではあるのだ。

              3巻発売記念で特設サイトが設けられていた。

              えすとえむ『golondrina』特設サイト
              http://www.ikki-para.com/golondrina/index.html

              写真で闘牛の大まかな流れを紹介している。
              古代の供犠、ギリシア神話のミノタウルスの系譜でありながら儀式的な要素は見受けられない。

              闘牛のルーツには屠殺に関わる民族の祭りの影響があるという指摘もある。
              儀礼的な作法が色濃く残っていれば現代の闘牛には批判ではなく祈りをもって敬意を払われただろうか?ミサのように。

              血の流れ――スペインの文化の根底

              日本のような礼法なものが無いが、それでも私は闘牛にある魅力を否定する事は出来ない。

              それはスペインの歴史に脈々と存在するものを汲んでいるためだろう。
              オペラ『カルメン』に代表されるような文学・芸術への影響もある。
              ヘミングウェイも闘牛に関する文章を遺している。
              ピカソもまた闘牛に魅せられた画家の一人だった。作風や主題が劇的に変化するように思えるピカソでも、実は一貫したテーマとして闘牛が関わってくるようだ。
              主題としての『闘牛』だけではなく、闘牛のルーツのような『ミノタウルス』も描いていた。
              参考文献:須藤哲生『ピカソと闘牛』
              ピカソと闘牛

              それは何故か。闘牛が人を惹きつける魅力とは何か?
              そこにあるのは、生きるという事の暗い面だと私は思う。

              かつて地上の楽園と謳われたスペイン。しかし長きに渡る戦争や宗教の衝突により、赤い大地は荒廃した。
              死んだ者、敗北した者、虐げられた者の苦悩の歴史がある。
              参考文献:有本 紀明『スペイン 聖と俗』
              スペイン・聖と俗 (NHKブックス (430))

              今日明日を生きる糧として屠られる牛達に、それらの想いを血の興奮と共に感じているのではないだろうか?
              決して牛を嬲り殺すことに悦に入っている訳ではない。

              命を懸けて生きるもの

              『ゴロンドリーナ』2巻での「牛の命を奪い続けて、お前に生きる価値が?」と問われる言葉は重い。それは生きるという事の苦悩だ。

              闘牛では完全に人間が有利という事は無いようだ。闘牛士も死ぬ事がある。
              『ゴロンドリーナ』の冒頭は闘牛士の追悼番組だったし、ヘミングウェイやピカソは死んだ闘牛士への哀悼の文章も遺している。

              闘牛が生と死を雄弁に物語る場でもあろう。それは生きる事を喚起させる。
              主人公のチカが闘牛士になる動機が死への衝動から来ている事にも、私はそれを強く意識させられた。

              日本語で書かれたフラメンコと闘牛についての良著・勝田保世『砂上のいのち フラメンコと闘牛』に興味深い行がある。

              “闘牛士は古代ローマのグラディアトーレ(コロセウムやシルコで殺し合いをした決闘士)の現代版だと思う。その身辺に時折異様な雰囲気がただよっていて、それはむかしの剣豪のようにいのちを賭けて生きる男の真剣な気迫というか、なにやら殺気を帯びた凄みのようなものである。(中略)
              たまたま友人が紹介してくれた。セビリャでいろいろとうわさの中心の歴史的大闘牛士なので、こちらはなんとなくあがって小さくなっていると、やおら色黒の凄味ある顔がふりむいてわたしをながめ「フム、ハポネエ(日本)の若ぞうか」ってなものだった。(p.24〜p.25)”

              参考文献:勝田 保世『砂上のいのち―フラメンコと闘牛』
              砂上のいのち―フラメンコと闘牛 (1978年)

              死に直面する事の無い社会では、己の生きる意味を問うような生き方をする人間の力に、魅かれてしまうのではないだろうか。


              少し調べると、日本でも闘牛批判に対し疑問を呈する方もやはりいらっしゃるようだ。
              『「生き物」  への虐待か? −−− スペインの闘牛のこと』
              http://d.hatena.ne.jp/El_Payo_J/20100805/1280985975


              幾つが日本語で上げてあった闘牛の動画をYouTubeで拝見したが、いただけない。
              何故なら撮影者の「牛が可哀想」という声が日本語で入っていて、闘牛の精神を垣間見る事が出来ない。
              言葉の意味が理解できるのでそのイメージばかり先行してまう。そのため公平さに欠けると思った。

              私は動物愛護の観点だけで、闘牛を否定する事は出来ないと思っている。
              人間の暗い歴史や感情、込められた思いや祈りを知ったうえで自分の内側で考えて、肯定も否定もすべきだと思う。


              今年の12月に女闘牛士の映画がある。
              それはドキュメンタリーではなくファンタジー映画らしい。

              『ブランカニーヴス(原題"BLANCANIEVES")』
              公式サイト:http://blancanieves-espacesarou.com/

              白雪姫をモティーフにした映画で、モノクロが美しい映画だ。
              『ゴロンドリーナ』にも似ているような印象があるので、観たい。


              『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――闘牛とフラメンコ考

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                JUGEMテーマ:フラメンコ

                『Golondrina-ゴロンドリーナ-』の最新刊が発売され、やっぱり感動してしまったので、その思いをしたためておく。

                遂に主人公・チカが闘牛場に立つ話なのだが、その中でフラメンコの描写があった。
                フラメンコ習っているが故の過剰反応だろうか……
                だが、闘牛もフラメンコもスペインのアイコンとして言わずもがな。闘牛を語る上で避けて通れないだろう。

                闘牛とフラメンコが、ルーツは違えど互いに影響しあい、共通の雰囲気を創り上げてきた事は以前の日記にも書いた。
                フレッチャー・シブソープ展(描かれたフラメンコ/闘牛とフラメンコ考)

                Golondrina-ゴロンドリーナ 3 (IKKI COMIX)

                『Golondrina-ゴロンドリーナ-』でチカの闘牛は「悪くない」という評価に留まり、良い闘牛をした時の誉れである牛の耳が出ない事に焦りを滲ませるチカ。
                銛打ちとして共に興行に参加しているパブロは闘牛における人々を魅了するものが何であるのか示すために、チカに闘牛とよく似ているフラメンコを観せる。
                老齢のバイラオーラ(女性の踊り手)がゴルペ(足裏全体を使って床を打つこと)を打った瞬間に場の空気が変わる。
                チカはそれを感じ取り、彼女の中で老齢のバイラオーラと、チカの兄弟子である故・フランチェスコが纏う雰囲気が重なる――

                擬音の表現が的を得ていると思った。
                若いバイラオーラが細やかなパサデアート(足で床を打ち鳴らすこと)をこなす音の“ダカダカダダカダカ……”は鼓舞されるような音だ。
                しかし老齢のバイラオーラによる“ドッ”という音は重さを感じさせる。有無を言わせないものだ。
                「ド」の母音/o/は低音だ。音からもその低さから重心の低さ、すなわち重さがあることを強く意識させた。
                その重い空気に惹き込まれる。

                同じような経験を、今年の発表会の場当たりで体験した。
                教室でベテランのバイラオーラだ。先生としても指導して下さっている。
                先生が踊ると、その場にいた全員が息を呑んで見た。
                会得するために先生の踊りを見ておきたいという思いだけではない。惹きこまれたのだ。曲種はファルーカ"FARRUCA" 奇しくも闘牛士の歌でもある。
                参考:FARRUCAファルーカ
                http://www.iberia-j.com/guia/farruca.php

                フラメンコの魔力だ……重く立ち込める緊張感がある。
                その空気の重さの本質は何であろう?
                これが闘牛においても重要なのだろう。

                フラメンコと闘牛の魔力を「ドゥエンデ」と言うそうだ。
                「ドゥエンデ」とは言葉の意味だけ言うと日本の座敷童のようなものだが、スペインの芸術全般に流れるものようだ。
                参考:『ドゥエンデについて』
                http://www.jspanish.com/yomimono/lorca/lorca2.html
                以前書いた闘牛とフラメンコがよく似た雰囲気を作っていった事で得たものだけでなく、スペインのアイデンティティーに通じるものなのだろう。
                ドゥエンデについては 勝田保世『砂上のいのち―フラメンコと闘牛』にも言及されていた。それについては別の機会に書きたい。

                話を『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に戻そう。

                「あの若い踊り手も上手くやった」とパブロは言う。

                確かに素早く丁寧なパサデアートに、その技術力に惹かれる。
                しかしそれだけでは真に人を魅了するには至らない。

                闘牛もムレタ(赤い布)を派手に振るだけでは真に人を魅了しないらしい。観客を沸かす事は出来ても。
                コミックの闘牛のシーンはとても静かだ。ムレタの翻りで観客を煽るものとは違う。

                闘牛における人々を魅了するもの――ドゥエンデ。
                作者・えすとえむさんが表現しようとしているのはそれだろう。

                フラメンコを習っている身としては、その空気の重さ、重要性を再認識させられた。
                私は“ダカダカ……”どころか未だに“パタパタ…”という音しか出ない |||orz

                余談:
                銛打ちの3人の名前はパブロ、ディエゴ、サルバドールだった。
                由来はスペインの偉大な画家達だろう。パブロ・ピカソ、ディエゴ・ベラスケス、サルバドール・ダリ。
                思わず微笑が零れる。心做しか容姿も似ていると思ってしまうのは何故だろうか。パブロの頭が薄く背が低いためか(笑)
                さらに物語のキー・マンである死んだ闘牛士の名前はフランシスコ……フランシスコ・ゴヤの名前から来ているとしたら、辻褄が合う。
                ゴヤ、ピカソは闘牛を主題にした絵を多く遺した画家だ。ダリも闘牛士の主題で描いている。
                ベラスケスは……描いてない…のか?


                映画『プロメテウス』考察――神話における巨人の人類創生と人間が失った神性

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                  JUGEMテーマ:映画

                  映画『プロメテウス』を考察すればするほど、巨大な宗教や神話と共にある人類の歴史について考えなくてはならなくなってしまった…

                  【過去日記】映画『プロメテウス』考察――“信じる”という人間性
                  以前の「映画『プロメテウス』考察」は聖書のモティーフを中心に書いた。

                  そしてタイトルが示す通り、ギリシア神話の事も避けて通れないようだ。
                  内容のテーマというより、モティーフの話だ。


                  感想で“プロメテウス”は巨人族でありながら人間の味方をし、人間の尊厳を主張した存在として少しだけ触れるに留まった。
                  何故なら私の中で一般的なプロメテウスの人間の創造と映画『プロメテウス』における人類創造のきっかけとなるイメージが合致しなかったためだ。

                  だが『オルフェウス教』という興味深い本を読み、古代ギリシアの巨人による人類創造の物語が、映画『プロメテウス』の人類創造と深く関わっている可能性に気が付いた。
                  それをしたためておこうと思う。

                  オルフェウス教 (文庫クセジュ)

                  きっかけとなったのは上記。
                  『オルフェウス教』は供犠を必要とする古代ギリシアの国家(ポリス)宗教に異を唱えた“オルフェウス教”についての本だ。
                  参考:オルフェウス教(Wikipedia)
                  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%95%99
                   古代ギリシアの国家(ポリス)宗教は神々に対して供犠を行う習慣があった。
                  一般的にこれを非難したのがキリスト教と言われているが、それよりも以前にオルフェウス教がそれを唱えていたらしい。

                  『オルフェウス教』の中で古代ギリシアの宗教観が紹介されているのだが、その中にある人類の創造が映画『プロメテウス』に通じる。
                  それは古代ギリシアの宗教観において、人間の創造が“神殺しをした巨人族が罰を受けて殺され、その塵から生まれた”というものだった。

                  巨人による人類創造

                  「神話」における人類創造の物語は、多くの地域で共通したものがある。
                  巨人が人間の創造に関わるのだ。これはギリシア神話、北欧神話(ユミル)、インド(プルシャ)、中国(盤古)にも見受けられる。
                  各神話の巨人たちは様々な理由から殺され、その遺骸から人間は生まれている。

                  現在、多く読まれているギリシア神話物語のプロメテウスの人類創造はオウィディウス『変身物語』から来ている。
                  人間(男)を創ったのはプロメテウス(ティタン神族/巨人)だった。そのプロメテウスが囚われた後に鍛冶の神・ヘパイストスの手により人間の女・パンドラが創られる。

                  Otto GreinerPrometheus 1909

                  しかし、これとは別の物語が存在する。
                  それはティタン神族(巨人)がゼウス(オリンポス神族)の子ザグレウスを殺した(神殺し)罪により、ゼウスの雷霆を受けて殺害され、その焦げた塵(灰)から人間が生まれた、というものである。
                  参考:ザグレウス
                  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/zagreus.html
                  古代ギリシアの宗教における原罪とも言うべき人間の誕生物語だ。

                  これが映画『プロメテウス』の冒頭のイメージに酷似している。
                  太古の地球で一人残り、謎の黒い液体を煽り、遺伝子レベルで分解される“エンジニア”。
                  黒い塵となり、滝に落ちてゆく。
                  水の中でそれは再構築され、生命が生まれる。それは長い時間をかけて人間となった――

                  そうなると、冒頭における“エンジニア”は何か罪を犯したのだろうか?

                  ザグレウスの人類創造神話に話を戻そう。
                  この神殺しの罪故にティタン神族(不死)から、人間は生まれながらも不死の性質(神性)を失っているという。

                  この考えを元にすると、映画『プロメテウス』でウェイランド社社長が死の回避できると考えた事に納得がいく。
                  映画では人間を創る技術があるのだから、人間の死の回避方法を知っているのではないか?という推測が伺える。
                  そして上記神話を踏まえると、「人間は死ぬようにできている」という事になり、剥奪された不死を得たいと進言しているようにさえ思える。

                  細かい思想については割愛するが、『オルフェウス教』によると、古代ギリシアの国家宗教は「神と人が大きく隔たれた存在である」と考えていた。それ故にこの原罪を再現(供犠)することで人は己の存在の由来を再認識(通過儀礼)し、罪の自覚もって神と人が繋がりを保つと考えていたのである。
                  だがオルフェウス教は人は「原罪があれど神と人は不死の魂をもって繋がりがある」と考える。それ故に供犠は罪を再び行う事なので、供犠を否定し一切の殺生を禁じ(禁欲生活)身を清め赦しを乞う事に重きを置いたようだ。(ただし供犠に替えて葡萄酒や香を用いての儀式をもって供犠を再現している)

                  神話に基づいて解釈すれば、死の回避(不死)を願うウェイランド社社長に“エンジニア”が激昂して殺害に及ぶのは、人が死すべき存在であること、人間の罪が赦されていないためだろうか?
                  そして“エンジニア”が人類を滅ぼす理由は果たしてその罪故なのだろうか?
                  これは冒頭の“エンジニア”が何かしらの罪を犯したなら、の話だが。

                  エイリアンとの関連性

                  考察をされている多数のサイトを拝見し、興味深いものがあった。

                  『プロメテウス』 エイリアンに反する人類の起源
                  http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-352.html

                  上記サイト様の考えでは『エイリアン』は‘(科学的知見によって)伝統的な固定観念を破壊し、文化的・宗教的な足かせから人々を解放し、新たな世界、新たな展望を語るそれは、SFと呼ぶに相応しい作品だった。(中略)『プロメテウス』は、科学的知見に基づいて新たな世界や新たな展望を語るSFではなく、既存の宗教を引用することで、SFに傾倒していた人たちに伝統的文化を思い出させる作品’であるそうだ。

                  この意見に私は同意する。
                  同時に『プロメテウス』もまた『エイリアン』のようにキリスト教的なものを破壊しているように思える。

                  前述した通り、オルフェウス教がキリスト教の先駆け的な可能性がある事は否めない。
                  酒や香を使った通過儀礼、供犠に対して異を唱えた事、魂の不滅と神との親近感、受難を経ての復活――といった共通項は枚挙に暇がない。
                  そしてザグレウスが関わる巨人の人類創造神話によれば人間は神殺しの塵から生まれたのなら、聖書に同じく人間というものは罪の生き物という事になる。

                  『プロメテウス』は伝統文化(西洋におけるキリスト教)を思い起こされるディティールの中で、オルフェウス教≒キリスト教の教義により身を清める事が意味を為さない(『エイリアンと同じくやはり宗教は無意味)という話にも受け取れた。

                  あるいは、オルフェウス教≒キリスト教を否定し、まっさらな状態で根源的な部分を再認識させる事で(宗教や宗派とは異なる)別の可能性を示唆するのだろうか?
                  欧米には「罪の文化」というキリスト教的価値観が根底にある。それを打開する布石となるだろうか。スピノザが唱えた汎神論のように。

                  上記サイトでは‘エンジニアが地球を滅ぼそうとしたのは私たちが彼らの代表の一人を磔にしたからだ、すなわちイエス・キリストは異星人なのだ、というスクリプトを書かれていた’事を紹介している。このスクリプトが映画本編に有効なものかどうかは不明だが。

                  どちらにせよ続編に『プロメテウス』の冒頭の真相、真意が描かれるのだから、それを楽しみに待とう。


                  『ヱヴァンゲリヲン新劇場版: Q』 考察七

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                    JUGEMテーマ:ヱヴァンゲリヲン

                    見終わった後に虚を付かれ、必死になって考えてしまう。
                    これは非常に無意味な事と思いつつ、細かいディテールネタバレ込みの考察。

                    先ず思ったのが、世界観がダンテ『神曲』に則しているのではないか?だった。

                    14年の歳月を経たネルフ本部は地下空間ジオフロントの天井部分が無くなっている。旧作同様だが、その空間はまるですり鉢状だ。
                    この地形、ダンテ『神曲』における九圏の地獄のヴィジョンを思わせた。
                    参考:図解・『神曲』
                    http://commedia.jakou.com/

                    ボッティチェリによるダンテ『神曲』の地獄

                    更にシンジが「真実を知りたい」と言って向かうのが“最下層”で、その険しい道のり、極寒の中を防護服を着込み震えながら進むシンジに、対して制服のまま平然としたカヲルが手を差し伸べる。
                    「さあ、行こう。もう少しだ」

                    似た情景の行が『神曲』に見受けられる。
                    ダンテの心が揺れる時、手を差し伸べ言葉をかける詩聖ヴェルギリウスの姿だ。

                    そうなると、カヲルはシンジのヴェルギリウスだろうか。

                    このイメージにより、霧が立ち込む冷たいジオフロントはコキュートス(氷地獄)にリンクする。

                    そうなるとセントラルドグマにカシウスの槍とロンギヌスの槍があるのも頷ける。
                    カシウスはダンテ『神曲』において、その裏切りの大罪から、イスカリオテのユダ、ブルータスと共に地獄の最下層・コキュートスで堕天使ルシフェルに噛み砕かれる罰を受けている一人だ。
                    その名を持つ槍があっても不思議ではない。

                    上記に関連しそうな事柄がもう1つある。
                    槍を抜きに来たカヲルが歯噛みしながら放った一言、

                    「第一の使徒である僕が、十三番目の使徒に落とされるとは」

                    この発言は作中の使徒(ANGEL)だけでなく、キリストの弟子、俗説で十三番目の使徒とされるイスカリオテのユダにも掛かっているように思える。
                    カヲルは「シンジを幸せにする」旅路の案内役(ヴェルギリウス)という立場から「シンジを幸せに出来ない」“裏切者”(ユダ)になってしまう事を示唆しているのではないだろうか?

                    『破』では“アケロン(三途の川)”“リンボ(辺獄)”といったモティーフが現れていた。
                    以前から考えているのだが、新劇場版の世界はやはり死後世界ではあるまいか?
                    【過去日記】
                    『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』考察六』

                    ギュスターヴ・ドレによる『コキュートス(氷地獄)のルシフェル

                    旧作エヴァでは生命のスープであるL.C.L.に満たされていたリリスの周りは巨大な頭蓋骨(死)が満ちている。

                    さて、ダンテ『神曲』は死後世界の旅であるが、同時に道徳について考える場所でもある。
                    地獄、そこにあるのは“罪”だ。
                    『神曲』においてダンテは人間の罪を自覚するために地獄を、死後の世界を巡る。

                    これに似てシンジは最下層にて自分が招いてしまった事(罪)を自覚する。

                    ダンテ『神曲』は地獄の底を抜け煉獄(浄罪界)に入る。そこでダンテは浄罪を経験し、天界に至り、最愛の魂と再会し、魂の再生、人生を再発見するのである。
                    『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』『神曲』に準って魂の再生は成されるのだろうか?

                    それをするには次の劇場版だけでは余りにも時間が足りない気がする。
                    そして長々と書きながらも、必ずしもダンテ『神曲』と合致する訳ではない。
                    配役がぶれたり、足りないと思う個所もあるので、これはあくまで憶測に過ぎない。

                    今まで書いた考察から私が考えているのは『ヱヴァンゲリヲン』が旧作『エヴァンゲリオン』の延長で、閉じた世界から再生する物語である事を仮定している。 そして私はダンテ『神曲』を“人生に迷った人間が死後世界を旅する事で人生を再発見する物語”と解釈している。

                    そのため『ヱヴァ』がダンテ『神曲』のように再生に至る道を示しているのではないかと考えている。

                    ありきたりの大団円にはならないと思うし、もうシンジとアスカ2人だけの世界ではないと思う。


                    『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に見る神話 ――『ミノタウロス退治』と“生きる”事

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                      今年一番のお気に入りコミックになってしまった。
                      『Golondrina-ゴロンドリーナ-』
                      以前の日記にも紹介したものであるが、2巻目にして怒涛の展開だった。
                      感動してしまい、思ったこと書いておく。
                      【過去日記】
                      フレッチャー・シブソープ展(描かれたフラメンコ/闘牛とフラメンコ考)

                      Golondrina-ゴロンドリーナ 2 (IKKI COMIX)

                      ―1巻あらすじ―
                      女闘牛士の物語。
                      同性の恋人に裏切られたチカは自殺を試みていた。彼女を保護した男・アントニオが「男だったら、闘牛士にでもするつもりだった」といったことから、闘牛場に死に場所を求めて「闘牛士になる」と宣言する。

                      ここから2巻内容も含みます

                      2巻ではチカの半生が語られる。その導入が、神秘的だった。
                      それはチカが夜明け前に牧場近くで対峙した牛から始まる。
                      突然、ページが暗転し夢現の状態になり、牛が問う。

                      『お前は誰だ?』

                      その言葉をきっかけに牛とチカが“対話”をする形で回想が始まる。
                      夢の中の、ひいては心の中で自己対話のような心象風景。
                      この様式は弁証法、問題を洗い出し、打破する通過儀礼だ。

                      それは『インセプション』『インモータルズ―神々の戦い―』にも見られた
                      迷宮神話、『テセウスのミノタウロス退治』でもある。
                      【過去日記】
                      映画『インセプション』考察
                      映画『インモータルズ―神々の戦い―』感想

                      すなわち、迷宮(心の中)でミノタウロス(死や己の心の闇)と対峙し、これを斃す(克服する)テセウス(自己)である。

                      ミノタウロスである牛に「チカ」というあだ名から「マリア」という本名が明かされ、『牛の命を奪い続けて、お前の命にそれだけの価値が?』と問われた時、闘牛士では無い自分が“何もない”事を知り、今の自分の死には価値など無いという事を自覚する。

                      その後、アントニオやライバル・ヴィセンテとの対話を経て
                      再び牛と対峙したマリア・チカは今度はちゃんと答える。

                      『自分のために闘って 自分のために死ぬ』

                      この事は自分のため生きるという事を宣言したに他ならない。
                      彼女が己を見つめ、大人になる瞬間でもあった。

                      牛(ミノタウロス)との対峙無くして人間的成長はありえないのである。

                      神話からある普遍の通過儀礼、それが描かれていた。

                      それをきっかけに何者でも無い「チカ(La Chica/女の子)」から「ゴロンドリーナ(La Golondrina/つばめ)」という名をもらい、彼女はいよいよ羽ばたく――闘牛場へ。

                      丁度、再び人生に迷いを感じていた矢先、己の力で道を進みだしたこの物語は心に響くものだった。

                      神話から離れて。
                      闘牛にはもうひとつの“生きる”事について考えてしまう。
                      闘牛批判と屠殺の問題である。

                      今は動物愛護の観点から批判も多い闘牛だが、ただの道楽、ブラッド・スポーツではないと私は考える。
                      食肉としての牛を人間が生きるために生き物を殺す現場でもあると。
                      闘牛を終えた牛は闘牛場を出ると、食肉用に解体される。
                      動物愛護の非難もあり、最近は殺さない闘牛もあるそうだが、闘牛で殺さなくとも最終的には屠殺するそうだ。

                      ここで「見えない所で殺された牛は良くて、屠殺を目撃すると非難する」という矛盾が出てくる。一体何をもって「残酷ではない」のか。
                      スーパーに陳列された、滴る血が拭い去られた不自然な肉。

                      闘牛のルーツは定かではないようだが、そこに屠殺に関わる民族の影響、春の訪れを祝い、重要な位置に牛を置いた半祭、半魔術的なモノのルーツもあるようだ。
                      CORRIDA DE TOROS(日本語)
                      http://www.spainnews.com/toro/

                      そこに込められた思いは、生き物を殺して糧とし、生きる事を感謝する、肯定するものもあったのではなかったか?
                      何にせよ、ルーツの1つに謝肉祭的なものがあるのなら、私は生き物を殺した肉を食べて生きている事を自覚するために見届けたい。

                      以前、観光でスペインを訪れた事があるが、美術鑑賞が主体だった。
                      今度は闘牛とフラメンコを観に行きたい。



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                      現実と幻想、決して交差せずとも互いに影響しあう。
                      そこで彼女は何を得るのか。

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