映画『おクジラさま ふたつの正義の物語(A WHALE OF A TALE)』感想

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    映画『おクジラさま』チラシ

    公式サイト:
    http://okujirasama.com/

    映画『ハーブ&ドロシー』『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』の佐々木監督の新たなドキュメンタリー。
    映画公開後、「捕鯨問題を取り上げる」と、アートとかけ離れた内容なので驚いたが、「公平な視点をもって撮りたい」とおっしゃっていたので、楽しみだった。


    映画の中で監督・佐々木氏の姿をほとんど見えない。
    元IP通信社のジャーナリストが多く出てくるのだが、“主人公”のような立ち位置にはいない。
    彼は“客観性”“中立”を具現化したような存在だった。

    シー・シェパードの活動家、太地町の漁師たち、何故か仲裁に入ってきた怪しい右翼団体の男性……
    登場する人物、誰もが主人公ではないが、誰もが主人公である映画だった。

    結論ありきのドキュメンタリーではなく、観る人に多角的に考えさせるドキュメンタリーだった。
    残念ながら人間というものは、自分の信じているもの以外受け付けないものだけど。(※1)

    捕鯨、反捕鯨の主張共に、言い分には不完全なものがある。
    人間は結局、物事をそのちっぽけな尺度でしか測ることができない。

    正しいことなど、どちらにもなかった。
    寧ろこの映画を観て、結論……模索しなければならない事は、捕鯨を肯定する人も否定する人も「折り合いをつけて共生する方法」あるいは「距離感」を見つけることだった。

    このブログでは前提知識として、クジラ類ハクジラ亜目の成体の体長が約4m以下のものをイルカとし、イルカ・クジラ漁を特に明確な線引きをしない場合、総じて「捕鯨」として記載していく。

    “アクション”、その先

    映画『ザ・コーヴ』(以下、『ザ・コーヴ』)の公開以降、イルカ漁の町・太地に押し寄せてきた反捕鯨活動家たち。
    彼らの「イルカを守れ」は、間違ったことは言っていない。
    しかし映画を観ていると、実態に即していないことが分かってくる。

    「イルカ(クジラ)は絶滅危惧種だから保護したい」のであれば、漁の対象になっているイルカは絶滅危惧種の種類では無い。

    そしてシー・シェパードが現場で訴えることはパフォーマンスを超えることができない。

    私が一番気になったのはその手法。

    シー・シェパード側の活動家は、イルカ漁の動画を撮っている人はイルカに「レイプされている」という擬人化を用い、漁師には「殺人鬼」とするナレーションを入れている。
    この手法――言葉という人間のコミュニケーションでダイレクトなもの――が、聴く人に人間同士の殺し合いのようなイメージを起こさせ、他の視点から見る“客観性”を排除する。
    それはイルカを救う活動をしているというよりも、漁に携わる人間への個人攻撃――誹謗中傷に聞こえてしまう。

    またシー・シェパード側が提案した別の方法にも疑問を覚える。
    「捕獲したイルカを買い取る」というが、それは漁師に言うべき話ではない。
    彼らには既にクライアントがおり、ビジネスである以上、それを覆せない。信頼に関わることなのだから。
    もしそれをするなら、漁師だけでなくビジネス相手――クライアントとも交渉すべきではないか?
    何より太地町のイルカ漁はスポーツハンティングとは違う。
    漁師の漁業で、彼らの生活がかかっている。

    グローバリズムと情報リテラシー

    反グローバリズム傾向が強まる現在――ナショナリズムの台頭への懸念――が叫ばれるなか、排他的になること、中傷することではないだろう。
    それは結局、人間のちっぽけな尺度に過ぎない。

    何故、イルカ漁がダメなのか?
    反捕鯨活動で取り上げられる様々な“論拠”――「知能が高い生き物だから食べちゃダメ」「水銀があるから食べちゃダメ」……

    知性が高い生き物を食べてはならないという発想(※2)が欧米にある。
    しかし、動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか?
    人間は確かに動物の知性が分かる。しかし、未だに全ての動物の知性を科学という小さな尺度で測り切れていない。(※3)
    まるで家畜にその知性が無いからと殺して良いともとれる価値観は人間の欺瞞に思える。
    これは私の想像だが、動物には人間とは違う知性に基づいて判断で行動していること、人間とは違う造形であるがゆえにとれる手段が限られているだけ――それが人間よりも劣っているとは言えないだろう。家畜も然り。

    その論拠の一つに、脳が人間に次ぐ大きさを持っているイルカは人間と同格と見なされる。
    まるで選民思想――ひいては自身の優位性という傲慢を促し、他を差別するもの――の延長のようで、不快なのだ。

    生き物を殺さないと私たちは食べれない。
    日本の価値観では動物と人間が同等な“命のサイクル”の上にあると見なしている。命の価値は何一つとして特別なものはない。
    汎神論的な命の繋がりを信じている私は、食物連鎖から逸脱した人間が優位であるという考え方は欺瞞に覚える。

    「他のものを食べればいい」というが、太地は農作物を作るには不適切な地理だった。農地・牧草地にする土地が少ない。

    また、クジラやイルカの体内の水銀保有から、水俣病と関連させて健康被害の可能性を論じられる傾向がある。
    しかし太地町に住む人たちが水銀中毒で短命であるという話は聞かない。


    映画を観る前に、この映画の書籍版を購入、読了。

    おクジラさま ふたつの正義の物語

    佐々木監督自身の視点・感想や、映画では描かれなかった諸々の経緯とデータが文章化されている。
    その中でも、人間中心主義問題、水銀問題について、佐々木監督が取材や調べてわかったことを簡単に書いている。

    歯クジラ類がメチル水銀(※4)の毒性を抑えるセレン(※5)を体内で準備し、結合させて無毒化する事故防衛力が備わっていたことを指摘していた。(※6)
    『ザ・コーヴ』ではそのことが一切触れられていない模様。

    映画『おクジラさま』書籍、パンフレット、プレス

    日本の問題点

    映画の中でも書籍でも語られているが、海外への情報発信の下手さを指摘している。
    情報発信が少なすぎること、日本語サイトしか無いこと……
    もっとも、イルカ漁に関わる人たちは漁師。情報発信の人手もなければ時間もない。

    よく比較に出されるフェロー諸島(ノルウェー)の捕鯨の場合、自治政府が捕鯨の専門サイトを立ち上げたり(※7)、警察や海上保安庁だけでなく海軍出動も派遣され、シー・シェパードの動向を監視したとか。

    日本も学ぶことが多いが、他にも問題がある。
    フェロー諸島の捕鯨はノルウェー国内で完結しているが、国外(南極)へ行ってミンククジラを調査捕鯨するのは日本くらいだ。
    調査捕鯨の目的、水産調査の結果は公開されていたが、PDFだった。(※8)凄く見づらい。
    こういった情報をhtml形式にしてもっとアクセスしやすくしないと、世界に対して誤解を招いたままになってしまうのではないか?

    調査がクジラである理由は、クジラが食物連鎖の頂点であるためらしいが、他の方法ではダメな理由が分からなかった。
    調査によってクジラが種類によって食べる魚の種類が異なること、更に季節によって食べるものが変わるという。
    日本食ブームで国家間の水産資源の争奪戦も懸念され、さらにクジラもライバル視しなければならないのか……(´・ω・`)
    ではこのデータ、‘生態系アプローチから見る海洋生物資源の管理’とはどんなもので、何を世界に対して提言しているのか、明言されていなかった。


    そもそも『ザ・コーヴ』は問題を混ぜこぜにしているのではなないか?
    地産地消をしていた太地町のイルカ漁と、日本政府の調査捕鯨を。これは全く別物と考えるべきだろう。
    太地町のイルカ漁の場合、日本の食卓を支えるものでは無く、地産地消として一定の地域の人々を支えているものであるというのが実態だった。

    調査捕鯨のクジラの場合、「もったいない精神」から、その肉は一部クジラ肉は食肉として提供されていた。
    それは絶滅危惧種ではないクジラで、捕獲量を厳しく管理して行われている。

    太地町の今後について

    野生のイルカを見ることができる観光施設としての入り江の活用を考えている模様。
    産業が乏しい小さな町の、人口減少に伴う漁師の不足と町おこしからの選択肢のひとつだった。
    それはシーシェパードのためでもなく、『ザ・コーヴ』で非難されたからでも無い。太地の人々が考えて導き出された結果だった。
    因みに捕鯨を完全に止めるとは言っていない。
    これが上手くいくことを切に願う。


    正直、この映画を見終わった後しばらく ( はらわた ) が煮えくり返っていた。
    それは『ザ・コーヴ』の2010年アカデミー賞受賞の時からあった蟠り……反論であれ分析であれ、それができない私自身の情報の少なさもあった。

    世界を良くしたいと願って参加する活動は、寧ろ何の役にも立たないどころか”お門違いなお遊び”状態の“不都合な事実”。
    本質を見誤る情報リテラシーの無さ、情報発信力の低さ。

    自国の尺度を自国ではない国に持ち込み非難するだけの外国人。
    理解されないと無視する、ある意味ムラ社会な日本人。(この問題を「文化の違い」という尺度で片付けている事は、情報発信の放棄ともとれる)

    『おクジラさま』を拝見して、映画『ザ・コーヴ』のおかしなところを理解した。これで安心して『ザ・コーヴ』を観れる。
    「イルカが可哀想」ではダメなのだ。それはただの感情論なのだから。つまり理性的……客観性も、公平さもない。


    クジラの天ぷら

    映画を観た後、イルカではなくミンククジラ(調査捕鯨のもの)に感謝を込めて「いただきます」
    独特の野生動物の味がした。
    それは家畜にはない深みのある味だった。
    ジビエの肉に近い。
    身が締まっていて、力強い。噛み応えがある。
    凄く“私は命を頂き生かされている”ことを、より意識させられた。
    私にはとても美味しかった。

    1. 1 

      我々の偏見(バイアス)は思った以上に強固。事実ですら完全に無視をする(フランス研究) : カラパイア / 2017年09月10日
      http://karapaia.com/archives/52245557.html (2017/11/7確認)

      Confirmation bias in human reinforcement learning: Evidence from counterfactual feedback processing / August 11, 2017
      http://journals.plos.org/ploscompbiol/article?id=10.1371/journal.pcbi.1005684#sec010 (2017/11/7確認)

    2. 2 人は動物をどのように観てきたか | 愛玩動物飼養管理士@試験対策ノート
      http://pet-breeding-man.com/2014/11/article9-1/ (2017/11/7確認)
    3. 3 

      フランス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』
      動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか

    4. 4 メチル水銀(Wikipedia / 日本語)
      https://ja.wikipedia.org/wiki/メチル水銀 (2017/11/7確認)
    5. 5 セレン(Wikipedia / 日本語)
      https://ja.wikipedia.org/wiki/セレン (2017/11/7確認)
    6. 6 

      佐々木芽生『おクジラさま ふたつの正義の物語』 集英社 [第5章] p.185

      坂本 峰至『メチル水銀毒性とセレン』第43回日本毒性学会学術年会 (公開日:2016/8/8)
      http://doi.org/10.14869/toxpt.43.1.0_S8-1 (2017/11/7確認)

    7. 7 

      『シー・シェパードVSデンマーク 日本が学ぶべきフェロー諸島の対策』 WEDGE REPORT (公開日:2015/7/31)
      http://wedge.ismedia.jp/articles/-/5223 (2017/11/7確認)

      WHALES AND WHALING IN THE FAROE ISLANDS(フェロー諸島自治政府の捕鯨専門サイト / English)
      http://www.whaling.fo/ (2017/11/7確認)

    8. 8 

      『捕鯨問題の真実』(pdf)
      http://www.icrwhale.org/pdf/04-B-k.pdf (2017/11/7確認)

      (一財)日本鯨類研究所 : パンフレット( http://www.icrwhale.org/04-B-l.html ) > 捕鯨問題の真実 English, Français, Español (2017/11/7確認)

      この情報、捕鯨反対派も肯定派も気になる日本側の主張、内容が良くまとまっているはずなのに、たどり着くまでに時間がかかった……
      まず、Google検索では出てこなかったし、pdf形式だからwebブラウザからではとても見づらい。
      おまけにpdfのタイトル名がどの言語ヴァージョンでもついてなく、あっても「スライド1」となっていた。(要するにパワーポイント使って作ったことが一目でわかる、編集してない。さらに現在、Google検索エンジンは、タイトルと本文が一致していないものを省く傾向がある。)
      つまり、一般の人に周知させる気、全くないという印象がある。
      これだから諸外国の何も知らない人にネタとして叩かれたりするんだよ……

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    映画『エイリアン:コヴェナント』感想

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      JUGEMテーマ:映画

      映画『エイリアン:コヴェナント』チラシ2

      公式サイト:
      http://www.foxmovies-jp.com/alien/

      !問答無用でネタバレあり!
      ……というより、映画を観ていないと、ここに書いてあることが伝わりにくいかも汗


      第1作目『エイリアン』の原点に立ち返るようなパニックアクションだった。

      今回の登場人物たちはフェイスハガーやその原因を客観的に目撃した人間がいないので、突然体調を崩した人間の体内から、凶暴なものが現れる。
      何処に潜んでいるのかわからない、何故襲われるかもわからない。

      最善は、それに遭遇したらにげること――
      エイリアンが何物かよく知らないで下手に武器を手にして対抗すると、余計に自身に危害が及ぶ。

      勿論、全てが『エイリアン』の焼き直しではく、新しいデザインの外郭に覆われていない白く生々しいネオモーフに、黒いいつもデザイン(ゼノモーフ?)のエイリアンまで。
      エイリアンが知性のある生き物であることは分かっていたが、今回は頭を使うようになって、頭突きで強化ガラスを割ろうとしていた。

      前作『プロメテウス』以上に後味の悪いエンディング――前作からのアンドロイド・デヴィッドの罠にかかってしまった事――は、エイリアンが誕生する絶望よりもはるかに絶望的な臭いがする。

      死の芸術

      この映画で一番印象的だったのは、その芸術的な空間描写だった。

      ギーガーのドキュメンタリー映画『DARK STAR』を観たので、ギーガーの死を意識させる作風が、『エイリアン』に相応しいことを理解する。ギーガーの急逝で、どうなるのかと思っていた。

      今回は美術史におけるメメント・モリを強く意識させられた。

      • ディヴィットがショウ博士を埋葬したという場所は、明らかにベックリン《死の島》(※1)。

      • ディヴィットの研究施設はヴンダーカンマー(驚異の部屋)を彷彿させる。
        この世界を丸ごと捉えようとしたルネサンス的な一切智、万能主義のあり方を示したこの部屋は、同時に世界の全てをその手中に収めんとする野心の現れでもあった。(※2)

        愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎 (集英社新書ヴィジュアル版)
      • 元の“エンジニア”の用途は不明だがディヴィットが描いた巻物が積まれた書庫は古代ギリシア、ローマの図書室だろう。
        外の広場に転がる“エンジニア”の遺体の姿が、ポンペイの遺跡の石膏型を連想させて、そのイメージを強固にする。
      • ショウ博士は“エンジニア”の惑星へ向かう途中のコールドスリープ中に実験体にされ、その遺体はムラージュ(※3)か剥製(死蝋化?)にされていた。
        アナトミカル・ヴィーナス 解剖学の美しき人体模型
      • ショウ博士の墓で供えられた花はまるで鬼灯のよう。花の形は子宮のようだが堕胎のイメージにも結び付くし、それは前作『プロメテウス』でのことも暗示させる。……彼女の遺体の細胞が後のエイリアンエッグの材料となったのなら、デヴィッドはそれも踏まえて居るのだろうか?

      『エイリアン』はSFだが、ディティールは新しさよりも懐古趣味に満ちている。
      それが過去の遺物として“死”を連想させるのかも知れない。

      デヴィッドの名前の由来からも、聖書的な図像解釈は避けられない。
      『コヴェナント』公開前の公式ツイッターには、聖書の暗号を込めた数字がツイートされていた(※4)ようだし……
      映画全編を通して、そういうディティールに満ちている。

      違約

      映画タイトル「コヴェナント」の意味は“聖約”。
      侵しがたいイメージに反して、映画の中では入れ子のように様々な“約束”が違える。
      映画冒頭で、ダニエルズと船長の「湖畔に小屋を作る」ことが船長の死によって違えるのをはじめとし、人類移住計画のための惑星・オリガエ6への旅路は死の惑星への寄港により、クルーの殆どを失う。
      前作からの延長として、ディヴィットはショウ博士の「エンジニアは何故人類を滅ぼそうとしたのか?」の解答を得させず、ショウ博士の遺骸は墓にも納められず、実験体にしていた。

      そして冒頭の「湖畔の小屋」のキーワードが、エピローグでアントロイドがウォルターではなくディヴィットであることを確定させ、“違約”の不吉さを決定的にする。
      コヴェナント号は植民計画を遂行できず、ウォルターの研究・実験場と化し、コールドスリープ中の男女約2000人と人間の胚がエイリアンの宿主となるのだろう(クィーン・エイリアン誕生の布石か?)。

      人間そしてアンドロイドの誤解、勝手な解釈によって、“聖約”はどんどんかけ離れたものとなった。
      それはまるで、聖書に書かれた神との契約が人間の勝手な解釈で本来の意味を見失われ、失われていく過程に即しているように思えた。

      デヴィット / ウォルター

      前作からのアンドロイド・デヴィッドとその後継機であるウォルター、同じ顔(デザイン)で兄弟のような2体は、やはり意図的に関係があったのではないだろうか?
      デヴィッドとウォルターが繋がっていた、という意味ではない。

      ウォルターという名前は古語ゲルマン語の“支配”に由来し(※5)、デヴィッドはダビデ像――神の寵を賜り、羊飼いから身を起こした古代イスラエルの王――に由来する。

      古代イスラエルの初代王・サウルが神の寵を失いダビデが王になるように、ウォルターに替わってデヴィッドがコヴェナント号を支配できるのは、初めから仕組まれていたのではないかと……

      "My name is Ozymandias, King of Kings;
      Look on my Works, ye Mighty, and despair!"
      Nothing beside remains. Round the decay
      Of that colossal Wreck, boundless and bare
      The lone and level sands stretch far away.

      「我が名はオジマンディアス 王の中の王
      全能の神よ我が業をみよ そして絶望せよ」
      ほかには何も残っていない
      この巨大な遺跡のまわりには
      果てしない砂漠が広がっているだけだ

      オジマンディアス OZYMANDIAS :シェリー
      http://poetry.hix05.com/Shelley/shelley02.ozymandias.html (2017/10/9 確認)

      バイロンの詩と引用したデヴィッドに対し、その詩の作者がシェリーであることをウォルターが指摘する。
      この時既にデヴィッドは思い込みによって解釈を誤っていることを、示唆しているのだろう。
      絶対者として意のままに他を圧し、破壊と絶望を謳うようなニュアンスで詩を諳んじているが、意味は違うのかも知れない。

      コヴェナント号を掌握したデヴィッドは、2000人の男女が眠るコールドスリープの部屋に、ワーグナーの曲〈ヴァルハラ入城〉を聞きながら入室する。
      『ニーベルンゲンの指環』第1夜『ラインの黄金』の締め括りに流れるこの曲は、意気揚々と入城する神々の最後尾にローゲ(神々に破滅をもたらす北欧神話のロキ)が入る。そして本来あるべき黄金を奪われ涙する三人の泉の乙女の哀歌が重なっている。
      そしてこの曲は第4夜『神々の黄昏』のヴァルハラ炎上を暗示させる。

      即ち、破滅。

      旧約聖書において、ダビデ王――デヴィッドの名前の由来、ダビデ像――は様々な改革を成すも、それが神の国だったバビロンをダビデ(人間)の国としてしまい、神の寵――自身の権威――を失う。それ故にバビロンは滅んだという解釈をする。

      デヴィッドは数多くの“違約”をした。そのためデヴィッドにも破滅が訪れるのではないだろうか?


      エイリアンの謎が深まってしまった……

      コヴェナントのエンディングからリプリーの時間軸までは20年。もうワンクッションある模様。
      一作目の巨人・エンジニアの遺骸はミイラ化していたように思える。ならば“エンジニア”の種族は何処かで健在なのだろうか?
      あるいは……デヴィッドが行っている“創造”――エイリアンの創造――は、所詮“エンジニア”の二番煎じに過ぎないという象徴なのか?『プロメテウス』のエンディングもあるし……

      コールドスリープの部屋の扉を閉めるときデヴィットのコードが有効で、コヴェナント号の一連の事件はウェイランド社によって仕組まれたものではないかと邪推してしまう。
      ウェイランド社とエイリアンの関係の謎は深まるばかり……

      映画『エイリアン:コヴェナント』チラシ1

      『プロメテウス』を観た後、私はショウ博士とデヴィッドが向かうところは“死後世界”だと考えていた。(※6)
      ショウ博士たちがエンジニアの惑星にたどり着いても、既に全てが死に絶えているものと……
      そしてその遺跡から人類を滅ぼそうとした理由(それが例えば『プロメテウス』冒頭で黒い水を煽った“エンジニア”が何かの罪人で、その贖罪のために人類は生まれた、とか※7)が分かってから、デヴィッドが暴走するとか、エイリアンの卵を発見してしまう……などと想像していた。

      しかし”エンジニア”達の死はディヴィットによってもたらされてしまった……
      『プロメテウス』の冒頭、ショウ博士が夢で“死後世界”について父と話していたことを回想していた。
      『コヴェナント』で死の後にあった世界――それは現世の苦しみを癒す天国でも、行いについて裁かれる地獄でもなく、ただ暗い死だった。

      “エンジニア”による人類創造の理由は失われ、エイリアンと人類の関係とは人間の被造物・アンドロイドの違約によって生まれたもの、ということが‘人類とエイリアンの関係’なのだろうか?

      1. 1 【完全解説】アルノルト・ベックリン「死の島」 山田視覚芸術研究室[近現代美術の基礎知識]
        https://www.ggccaatt.net/arnold-böcklin/ (2017/10/9 確認)
      2. 2 丁度、アルチンボルド展を観た後だったので、このラボがヴンダーカンマーの様相をしている理由が、デヴィッドのの野心――生命創造の探求心にある、その世界を掌握したような、全能感――があることを見出す。
      3. 3 

        16世紀ルネッサンス時代のイタリアで作られた、解剖した遺体を型どりした蝋の模型。

        ムラージュ(Wikipedia, 日本語)
        https://ja.wikipedia.org/wiki/ムラージュ (2017/10/9 確認)

      4. 4 徹底考察!『エイリアン: コヴェナント』解読記 ─ 謎の数字、聖書のストロングナンバーに置き換えると…? | THE RIVER
        https://theriver.jp/alien-covenant-code/ (2017/10/9 確認)
      5. 5 Walter/さらに怪しい人名辞典
        http://www2u.biglobe.ne.jp/~simone/more/pan_nz/walter.htm (2017/10/9 確認)
      6. 6 【過去日記】『映画『プロメテウス』考察――“信じる”という人間性』
      7. 7 【過去日記】『映画『プロメテウス』考察――神話における巨人の人類創生と人間が失った神性』
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      映画『DARK STAR / H・R・ギーガーの世界』感想

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        映画『DARK STAR / H・R・ギーガーの世界』チラシ

        公式サイト:
        http://gigerdarkstar.com/

        生前からもはや神だった、H・R・ギーガーに密着したドキュメンタリー。
        映画『エイリアン: コヴェナント』を観る前に、敬意をこめて。

        映画『エイリアン』関連のことに言及するのはわずかだったけど……
        エイリアンの卵の割れ目が最初1本筋だったが、「ヴァギナみたい」という理由から、十字架を彷彿させる十文字にしたとか。
        ホドロフスキーの『DUNE』に関してはかすりもしなかった。(仕方ない)


        映し出されるのは、剪定されていない木々に覆われている家。
        鬱蒼とした庭にはギーガーのオブジェ作品が木々に埋もれるように配されている。
        扉が軋む音を立てて、暗い家の中――ギーガーの自宅――へ誘われる。

        まるでホラー映画の冒頭のよう。

        暗い彼の家は、彼の頭の中だった。

        蒐集癖の賜物の汚部屋。究極の秩序ある?混沌。
        彼自身の作品だけではく、地層のように山と積まれた本や書類?紙束。カラーボックスは重みに耐えかね歪んでいる。
        本物の人間の頭蓋骨に剥製など“死そのもの”の物品が、陳列されているのか無造作に置かれているだけなのか、置ける場所に置いてある。

        重苦しく、息ができない。(まるで私の実家のようだ)

        彼女の元パートナーで助手の証言によると、ある日家を訪れたらひどい臭いが充満していたので原因を探し当てたところ、水を貼ったバスタブの中から山羊の頭(本物)が出てきたこともあるそうだ。あと、家のドアを作品に使うライオンの骨が邪魔して開けられなくなったこともあるとか……

        「戦争経験者は収集癖が強い」と映画内でも精神科医が言っていた。
        それは執着、混乱など……人間の影や闇という言葉で表す暗い面だ。
        個人的にはただ「もったいない」という思いだけではなく、かつて手に入れられなかった本当に欲しかったものの“代用品”であるため、満足できないことも一因ではないかと思う事がある。それはもう二度と手に入らないもので……
        その“もの”はもしかしたら物質的なものだけではないかも知れない。

        物に囲まれ、遮光カーテンに覆われ、外の光の侵入を遮られた部屋は闇――悪ではない。人間の深部――の世界だった。

        道徳や秩序によって抑圧、排斥された暗い面。
        死を彷彿とさせると同時に、暗い画面に浮かび上がる赤子の顔の群に象徴されるような「胎内回帰」でもある。
        精神科医のギーガーの分析は的を得ていると思う。ただ、ひとくくりに“悪”という言葉で表して良いかについては、私は難色を示す。
        確かにサタニックなイメージもあるのだが、サタニック故に“悪”なのか?
        《The Spell (呪い )》の両脇にいる、白と黒の女性像の恍惚とした表情に悪意も性的な愉悦に依存しているような素振りもない。
        寧ろ神聖なものとしての荘厳さを漂わせている。

        私のその思いを補完するように、学芸員がギーガーの作品の中には“光”があると言っていた。(実際、ただ闇では何も見えない事になるだろう)

        ギーガーの創作の原点――アフガン戦争と反戦、恋人の死――死の衝撃を昇華するために描き続けた彼を、関係者はその「人間の闇の部分に踏みとどまって作品を作り続けた」と評する。

        人に霊感を与える存在として、多くのクリエイターが猫を飼う傾向がある。ギーガーも例外ではないようだ。
        全編を通してギーガーの飼い猫・ムギ(MÜGEE )が、映画の進行を先導するように映り込んでいる。
        混沌と暗闇の世界をすいすいと歩む姿は、まるでア・バオ・ア・クゥー(導きの獣)(※1)だ。
        ムギのお陰?で鑑賞者もギーガーの世界に飲み込まれずに済む(笑)

        ドキュメンタリー映画だが、この映画もギーガーの作品のように思えた。
        それはあらゆるものを飲み込むようなギーガーの――光を反射するものが無く、吸収してしまう闇の――世界ゆえだろうか?
        否、監督、制作者が映らないよう、さらに制作側の意図や情報が偏向しないように心がけているのだろう。バランスが取れたドキュメンタリーとして素晴らしい。

        私も行ったことがある、スイスのギーガー美術館
        向かいのバーに、私は滞在時間の都合上入れなかったのが残念……

        美術館で行われたサイン会では、タトゥーを入れたパンクな人々が集っていた。本だけでなく腕にペンで書いてもらう人、感極まって涙する人……シャツを脱ぐと背中全体に《Li 供佞彫られている人まで!
        ファンとの交流が心温まる。(そして凄く羨ましい)

        でも…まぁ……私はバーにある脊柱レリーフの製作風景を見れたのは嬉しい。

        美術館開館や自分の作品を使ったバーの制作だけでなく、幼少の頃に衝撃を受け創作のイメージの源泉となった幽霊列車を自宅の庭に走らせ、「好きなこと好き放題した」彼は言う。

        「やり残すことは何もない。満足だ。」

        ミケランジェロのような達観だった。

        ギーガーは彼の死生観――輪廻転生――を否定する。「いちから再びやり直すのは嫌だ」と。
        きっと彼はもう、転生して来ないだろう。


        この映画を撮り終えた後、ギーガーは亡くなった。

        玄関の階段、2階に上がる階段、地下室へ降りる階段――
        どれも年季が入っているため、人が使うとギシッ、ギシッと音がする。
        今にも踏み抜いてしまいそうな音だった。

        ギーガーの訃報を聞いたとき、自宅の階段から転落(※2)とのことだった。
        あれら階段のうち、一体どれだったのか……
        ホラーやサスペンス映画で、階段の軋む音は恐怖の来訪を暗示する。
        私は映画を鑑賞しながら、この音は運命を感じさせるものとして、緊張感のあるものだった。

        映画内でも、生前のギーガーは(シャイすぎて)インタビューを受けることが苦手だったことが窺える。
        そんな彼がドキュメンタリー映画に応じたのは、死に魅せられていた彼は己の死期さえ悟っていたからだろうか?

        1. 1 ア・バオ・ア・クゥー (Wikipedia/日本語)
          https://ja.wikipedia.org/wiki/ア・バオ・ア・クゥー
        2. 2 「エイリアン」デザイナー、H・R・ギーガーさんが転落死 74歳
          https://www.cinematoday.jp/news/N0062938
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        映画『パッション・フラメンコ』感想

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          JUGEMテーマ:フラメンコ

          映画『パッション・フラメンコ』チラシ

          フラメンコ界の巨匠6人への敬意を示した舞台『ボセス フラメンコ組曲』の制作・公演に密着したドキュメンタリー。
          サラ・バラスの活動の軌跡、エンターテイナーとしての姿勢を垣間見るものだった。

          フラメンコ界の巨匠6人――パコ・デ・ルシア(※1 / 昨年、彼のドキュメンタリーを見た)、アントニオ・ガデス(※2)、カルメン・アマジャ(※3)、カマロン・デ・ラ・イスラ(※4)、エンリケ・モレンテ(※5)、モライート(※6)に捧げられた舞台。
          それは6人の巨匠を表しているのではなく、6人の巨匠が表現してきたものを受けてサラが得たものを表現して――“ボセス/声”として――届ける、というものだった。

          • パコ・デ・ルシア――努力
          • カルメン・アマジャ――反骨
          • エンリケ・モレンテ――決意
          • カマロン・デ・ラ・イスラ――自由
          • アントニオ・ガデス――向上
          • モライート――喜び

          巨匠たちのイメージと彼女の半生のイメージが共鳴するドキュメンタリー。
          インタビュー(声/ボセス)もまた、舞台の一部となっていた。

          カウロス・サウラ監督映画『フラメンコ・フラメンコ』で真っ赤な衣装を纏い高速ステップを披露していた彼女。
          現代バイラオーラの女王と形容される彼女が、先人の活躍した女性たち――カルメン・アマジャやフリーダ・ガーロら――に自身を重ね合わせ、女性ゆえの苦悩や故郷にいる幼い息子・ホセのことを想う母親の一面を垣間見せる。

          新人時代の彼女は、来日し伊勢丹会館のエル・フラメンコ(現ガルロチ)の舞台に立っていたとは知らなかった……!
          遠い異国の地(私にとってはこの国)で、バイラオーラとしてのキャリアを始めたということに驚いた。

          「高層マンションに住みたかったけれど」

          訪れたのは彼女が滞在していたらしい、都心の小綺麗な1DK(日当たりよくない?)。 ごめんなさい、日本の都市部住宅事情……

          サラはそこで原点回帰、再認識したようだった。舞台を作るということの。

          それは人に感動を与えるという事だったのだろう。

          私が通っているフラメンコ教室の先生もおっしゃっていた。
          「観客やカンテ、ギターさん、周りの人々から力を貰って、それを爆発させる」
          バイレ(踊り手)ひとりが観客や周りの人間に感動を与えるのではない。

          そしてその感動は力となる。

          レット症候群の啓蒙活動

          それは舞台での表現に止まらない。
          サラはレット症候群(※7)の啓蒙活動にも参加している。

          よく、有名人の慈善活動は売名行為のようにとられるが、己の知名度を活用するのではない。観客の感動に訴えているのだ。
          感動している人間は協力してくれることを、よく知っている。
          拍手が最高潮になったとき、彼女は支援を呼び掛けるTシャツを着る。
          効果的な瞬間を理解しているのは、エンターテイナーのプロ故だ。

          そして私も、レット症候群を認識する機会を得た。

          リアリティの非日常 / 幻想の日常

          興味深かったのは、コントラストが激しい舞台風景とフラットな陰影で写し出される日常の対比。
          パリ、メキシコ、ニューヨーク、東京、そして母国スペインの故郷・カディスの風景は、都市ごとの空気の違いを極力感じさせない。
          スペインにいても、その言葉でイメージされる強烈な日差しは見えない。青い空と黒い影も。
          曇りや雨、雪の日。何処か色褪せたように感じる、アンニュイな都市の情景。それが日常というものなのかもしれないが……

          まるでフェルメールの絵画のような、ちょっとピンぼけしている(※8)街の情景は注視しても掴みづらく、それ故に注視しえしまう。幽玄だった。

          それに対を成すのが舞台の照明。
          黒い影と映し出される彩度がはっきりとした、衣装の色。
          そこに明暗がはっきりするスペインの空気を垣間見る。

          最後を飾る、ステージ中央から拍手喝采の観客席を映すシーン。
          スポットの光と迫ってくる拍手の音に力を貰うような圧倒される光景だった。

          1. 1 Paco de Lucía(1947 – 2014)
            ギタリスト。フラメンコだけでなく、ジャズ分野でも活躍。
            https://ja.wikipedia.org/wiki/パコ・デ・ルシア (Wikipedia, 日本語) (2017/9/12 確認)
          2. ※2 Antonio Gades(1936 – 2004)
            バイラオール(フラメンコダンサー)。振付師、俳優としても多数の映画などに出演。
            https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_Gades (Wikipedia, English) (2017/9/12 確認)
          3. ※3 Carmen Amaya (1913 – 1963)
            バイラオーラ(フラメンコダンサー)。圧倒的な表現力で“伝説”“女王”と呼ばれる。女性で初めてパンツスタイルでフラメンコを踊った。
          4. 4 Camarón de la Isla(1950 – 1992)
            カンタオール(フラメンコ歌手)。
            https://en.wikipedia.org/wiki/Camarón_de_la_Isla (Wikipedia, English) (2017/9/12 確認)
            知ってなきゃ洒落になんないフラメンコ歌手 カマロン・デ・ラ・イスラ| ならんひーた
            http://blog.naranjita.com/?eid=1075244 (2017/9/12 確認)
          5. 5 Enrique Morente(1942 – 2010)
            カンタオール(フラメンコ歌手)。
            https://en.wikipedia.org/wiki/Enrique_Morente (Wikipedia, English) (2017/9/12 確認)
            知ってなきゃ洒落になんないフラメンコ歌手 エンリケ・モレンテ | ならんひーた
            http://blog.naranjita.com/?eid=1075258 (2017/9/12 確認)
          6. 6 Moraíto Chico II(1956 -2011)
            ギタリスト。
          7. 7 レット症候群
            https://ja.wikipedia.org/wiki/レット症候群 (Wikipedia, 日本語) (2017/9/12 確認)
          8. 8 フェルメールの絵画に見られるソフトフォーカスによるピントが合わない絵画を見て、鑑賞者の脳は焦点を合わせようとするが、絵そのものがピンボケしているので、その像は永遠に結ばれない。視神経と脳のズレがもどかしく、人はそれに注視してしまう。
            【過去日記】北川健二『フェルメール絵画の謎の本質を読み解く』
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          アルチンボルド展

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            JUGEMテーマ:展覧会

            『アルチンボルド展』(2017)チラシ

            公式サイト:
            http://arcimboldo2017.jp/

            上野・国立西洋美術館( http://www.nmwa.go.jp/ )にて。
            〜2017/9/24まで。

            花や果物で構成された肖像画を描いた、アルチンボルトの作品と、その奇想・奇天烈の原泉を垣間見る。

            入ってすぐのところに掛かってる《紙の自画像(紙の男)》。巻紙で構成されたアルチンボルトの肖像画。
            紙で構成されているという点が興味深かった。
            アルチンボルトはそこに何をしたかったのだろう?
            やっぱり絵を描く?文字を書く?
            そんな示唆に富んだ自画像に思えた。

            一緒に観に行った知人と「これをペーパーアーティストが手掛けたら、本当に立体化できるのではなかろうか?」と話し合う。
            そんな想像力を掻き立てる作品は、この会場ではまだ序の口だった。

            ジュゼッぺ・アルチンボルド《自画像(紙の男)》

            「合成肖像画」と呼ばれる、アルチンボルトの代名詞のような作風。その奇想に圧倒される。

            本物を見る醍醐味はやはり、画集では見られない細部を堪能すること。

            顔にばかり視線が向かってしまうが、《四季「春」》の人物が着ている服は深緑色の葉で構成されていた。
            画集では黒い背景と同化して認識できなかった細部。
            顔部分で緻密な髪や眼の描写に注視してしまうが、皮膚を構成する花は輪郭をぼかしていた。
            そのおかげで表情も理解しやすいし、他の要所(パーツ)に目がいくようだった。

            《四代元素「大地」》は動物の顔の集合体。
            下だけ何故、皮なのか?
            その図像は真っ先に、ネメアの獅子、金羊毛の皮を思い出す。解説を読むと、それを意図した描写であるようだ。
            そしてハプスブルク家ゆかりの獅子の紋章と金羊毛騎士団を表しているらしい。
            皮と衣、その関連性も意識した上での構成だろう。
            連作で、四季と四代元素が対応しているという。

            • 《春》《大気》 … にぎやかな陽気
            • 《夏》《火》 … 燃え盛る暑さ
            • 《秋》《大地》 … 豊穣の大地
            • 《冬》《水》 …凍てつく森と海

            でも、連作なのにカンヴァスの大きさがまちまちなのは何でだろう……
            あえて揃えようとは思わなかったのか?描く度に手に入るカンヴァスの大きさが異なってしまったのだろうか……?

            博物学――コレクションと世界征服

            アルチンボルトは他の追随を許さない独自の作風を産み出した。
            それを促すものは彼の身近な場所にあったようだ。

            参考資料として出品されていた、アルチンボルトが宮廷画家として仕えたオーストリア・アぷスブルグ家の豪華な装飾が施された食器の数々。
            ギリシア神話のモティーフや、当時は珍しい動物の姿を象ったもの……中には本物の生き物から型を取り(!)鋳造したものまで。
            そして「ヴンダーカンマー(驚異の部屋)」と呼ばれる、皇帝の蒐集品を展示した場所があったという。

            アルチンボルトは、宮廷の日常生活の身近にあるものを素材にしながら、ひたすら肖像画を描いた。その構図や画風は斬新であるが、かれは肖像画という伝統的なキャンバスのなかに、宇宙の森羅万象を凝縮させた。それは顔が人間の知性、性格、表情を集約させたものであるばかりではなく、宇宙的なコスモロジーを包括するものであったからにほかならない。

            浜本隆志 柏木治 森貴史『ヨーロッパ人相学―顔が語る西洋文化史』 p.190

            ヨーロッパ人相学―顔が語る西洋文化史

            アルチンボルトは現代のように体系的に分類されていない博物館ともいえるヴンダーカンマー、王のための動物園で、“本物”を見る機会に恵まれた。
            ゆえに、ここまで緻密な描写で動植物を描くことができたらしい。
            アルチンボルトのこの絵画から描かれた図鑑もあったとは……!

            世界を表している四季と四代元素の表現を取り入れた肖像画を描いたのも、それがクライアントの世界の覇者たらんとする意思を汲んだこと、同時にアルチンボルトの皇帝(時の王・マクシミリアン鏡)への賛美だった。

            人間の探求――脳の認識、心の問題

            また、レオナルド×ミケランジェロ展との関連があった。(ちなみに、アルチンボルト展の半券提示で入場料割引が受けられる)

            アルチンボルトのこれら肖像画は、レオナルド素描の鷲鼻のくしゃ顔じいさんの素描からヒントを得ているもよう。
            父親がレオナルドと縁があり、素描のコレクションを見ていたらしい。
            そう言われてアルチンボルトの鼻の部分を注視すると、何となく全ての作品が、鷲鼻のように思えた。

            ルネサンスの“万能人”レオナルドは、著書『絵画論』で精神の運動(喜怒哀楽)によって人間の顔が動く(表情)こと、人間の精神を描き出すことについて言及していた。(※1)

            人間の内面を描くこと――

            展覧会の会場ではヴンダーカンマーと博物学の関係性の指摘があった。 博物学――その知的探求の中に、人相学も入っていたと思われる。

            人相学は占いや今の心理学、精神分析的な様相があった。
            そのルーツは観相学――‘外面(自然)、とくに顔の特徴や身体の全体的相貌を観察することによって、人の見えざる部分を知ろうとする(※2)’もの――で、偽アリストテレス『人相学』によって体系的に論じられた疑似科学だった。

            顔は人間の内面を映し出しているもの――
            レオナルドに倣い、それを踏まえてアルチンボルトは「合成肖像画」を描いていたようである。

            この展覧会が始まった頃、NHKで顔を認識するということの不思議について特集した番組があった。(※3)

            人間が人間の顔(それとおぼしきもの)を注視、識別する不思議、それと絡めて人工知能(ディープラーニング)による顔認証システム(画像解析)についても取り上げていた。
            そしてこのアルチンボルト展も取り上げられていた。

            アルチンボルトによるさかさ絵――一見すると野菜が詰められた籠や肉が盛られた大皿だが、逆さにすると人物像になる――は、寓意に満ちていると同時に、遊び心に溢れたものだ。
            野菜が詰められた籠の絵は、番組内で幼児が顔と認識する――それも「普通の顔ではない」ことまで――理解するということを脳波から検証していた。

            シミュラクラ現象(※4)の事もアルチンボルトは理解していたようだ。

            ジュゼッぺ・アルチンボルド《コック/肉》

            参考として、だまし絵の世界は、多くの追随者が現れた。 ダリもその一人に入れていいのかも知れない(※5)。あと、合成肖像画を思わせるコラージュ作品を多数制作しているシュヴァンクマイエル(※6)。更にシュヴァンクマイエルに影響を受けたクエイ兄弟はもろに《司書》を思わせる(※7)人形が出てくるアニメーションを作っていた。

            番組では会場でフォトジェニックなイベントスペースであったアルチンボルトメーカーについても取り上げられていた。顔を野菜や果物で構成してくれるという。

            私が行った時はすごく人が並んでいたので、諦めたのだけど……人工知能という観点からも興味深いものだったかも。
            web上で写真解析でのジェネレーターがあれば良いのに……

            参考文献

            芸術新潮 2017年 07 月号

            芸術新潮 2017年 07 月号 特集:奇妙奇天烈 アルチンボルド

            1. 1 加藤朝鳥『レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論』 Ⅺ 姿態に就いて三七二 p.212
            2. 2 浜本隆志 柏木治 森貴史『ヨーロッパ人相学―顔が語る西洋文化史』 p.28
            3. 3 (^o^)顔面白TV
              http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=10758
            4. シミュラクラ現象(Wikipedia)
              https://ja.wikipedia.org/wiki/シュミラクラ現象
            5. Mae West's Face which May be Used as a Surrealist Apartment | The Art Institute of Chicago
              http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/65819
            6. JanSvankmajer.com
              http://www.jansvankmajer.com/
            7. Cabinet of Jan Svankmajer – Quay Brothers
              https://youtu.be/ehfRYQ0K-vM
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            レオナルド×ミケランジェロ展

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              JUGEMテーマ:展覧会

              レオナルド×ミケランジェロ展

              公式サイト:

              http://mimt.jp/lemi/

              東京・丸の内 三菱一号館美術館( http://mimt.jp/ )にて。
              〜2017/9/24まで。

              入ってすぐの所に今回の目玉作品、レオナルド・ダ・ヴィンチ《少女の頭部/〈岩窟の聖母〉の天使のための習作》とミケランジェロ・ブオナローティ《〈レダと白鳥〉の頭部のための習作》が、各々の肖像画と共に並べられている。

              胸が熱くなる。
              筆跡から、巨匠がどんな風に筆を走らせたのか想像してしまうから。

              “万能人”レオナルドと“神のごとき”ミケランジェロが、この絵に込めた試行錯誤と集中力を垣間見るようで……

              それにしても、赤く染めた紙に赤いチョークで描かれていたのは何故だろう?

              ちょっと調べて分かったことは、‘フィレンツェ では赤チョークが好まれ、 青い紙はヴェネツィアで多く用いられる、といった地域差(※1)’があったという事だけだった。
              …… フィレンツェとヴェネツィアのアイデンティティとしての色だったのだろうか?

              《レダと白鳥》

              展示されている二人の作品が、会場の中で対を成すように思えた。
              それはこの二人の巨匠が全く異なる視点から芸術を捉えていたため。

              理性を用いて究極の美(理想)を探求したレオナルド。
              感情を劇的に表現することで人間本来の姿(現実)を捉えようとしたミケランジェロ。
              ラファエロ《アテネの学堂》では、その顔がプラトンとアリストテレスにあてられている二人。
              二人の巨匠の表現方法を、古代の哲学(イデアという理想があると説いたプラトンと、それを否定したアリストテレス)に照らし合わせる、ラファエロも博学だと思った。

              素描や諸々の資料からもそれが理解できるが、それを如実に表しているのが、2人の巨匠が挑んだ同主題『レダと白鳥』だろう。

              2012年に催されていたレオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想でも、この主題は参考作品として展示されていた。(今回展示されていたものとは違う画家の手によるものだった)

              レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく《レダと白鳥》フランチェスコ・フリーナ(帰属)《レダと白鳥(失われたミケランジェロ作品に基づく)》

              伝統的な構図ながら女性的な曲線美を強調するS字型に立つレダを描くレオナルドのものと、身体を丸めることで曲線美を強調するミケランジェロの作品。私はレオナルドの女性像が好きだが、この絵はミケランジェロの方が斬新な構図で、好きだ。

              絵画か、彫刻か――

              芸術の捉え方も、その表現方法も異なる二人。
              画家であったレオナルドと、(本来は)彫刻家であったミケランジェロ。

              この違い、例のデッサンにも表れている。
              レオナルドが(左利きだったため)左上から右下に線を引き、その密度で濃淡、明暗を表現している。
              対して、ミケランジェロは師匠であるドメニコ・ギルランダイオのデッサンのやり方を踏襲し、クロスハッチングという線を重ね合わせる技法を用い、直線だけでなく人体の丸みや凹みに沿わせて線を曲線にし、立体感を強調している。(※2)

              当時、彫刻と絵画のどちらがより優れた芸術であるかを論じ合う、比較芸術論争(パラゴーネ。イタリア語で比較の意)が起こっており、当時の人々は彫刻の方が優位であると考えていた。
              彫刻は立体であり制作には労力がいること、素材は大理石など耐久性があり、経年劣化に強いため、という理由だった。
              一方、絵画は彫刻と比べ工数がかからず、彫刻の下絵のようなもの、という認識だったように、私は記憶している。

              当時はまだヨーロッパでも芸術家の地位は低く、画家は彫刻家よりも低かった。

              これもうろ覚えなのだが、確かレオナルドは画家の地位向上の布石として『絵画論』を書いたのではなかったか?

              レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論 改訂版

              会場の壁面の所々には、レオナルドとミケランジェロの比較芸術論争についての見解がちりばめられていた。
              絵画と彫刻のレオナルドの挑戦的な発言に対し、やんわりと大人な対応をかえすミケランジェロ……
              イメージでは逆だったのだが。

              一説では、レオナルドとミケランジェロは不仲だったともいわれている。
              レオナルドは『絵画論』の文章に「絵画は優雅だが、彫刻家は汚い労働者のようだ」とあったため、それがミケランジェロの癇に障った(※3)とか、レオナルドからダンテについて意見を求められた時、ミケランジェロは 馬鹿にされたと思った(※4)から等、色々あるようだが……

              とはいえ、互いの才能を認めていなかった訳ではないようだ。

              両巨匠がフィレンツェにいた時(1503〜1505)、ミケランジェロはレオナルド《聖アンナと聖母子》における三角形の安定構造と流れるような視線の導線に感心し、レオナルドはミケランジェロ《ダヴィデ》を見て、その構造を研究するように素描を残したらしい。
              その延長であろう、レオナルド《ヘラクレス》の素描には、ミケランジェロ《ダヴィデ》の影響を受けた力強い筋肉描写は、今までのレオナルドとはちょっと違う作風に思える。筋骨隆々。ムキムキ。

              素描

              そんな二人が唯一、共通認識をしていたであろう、素描、その大切さ。
              その観点からも、素描展は重要なものに思う。

              レオナルドは馬を一頭所有していたよう(※5)だし、沢山の馬の素描を遺している。
              この展覧会でもレオナルドの馬の脚の素描が多数展示されていた。
              当時の馬は貴重品で、今でいう高級外車(それこそフェラーリ?)みたいなものだった。レオナルド、それを所有できたのか……!?
              馬の素描の数の多さから、学生の頃に教授から「レオナルドはかなりの馬好きだったのではないか?」と言っていた。……高級外車マニア?

              ミケランジェロも馬の脚の素描を描いており、そちらも展示されていた。ミケランジェロは馬を所有していたのだろうか?

              教授からは「(レオナルドは)馬は貴族の所有物であることが多かったので、見せてもらっていたのではないか?」と聞いた気がする……
              ミケランジェロもまた、貴族から馬を見せてもらえる機会はあっただろう。


              こんなにも偉人たちの息遣いがリアルに聴こえてくるのは、それを記録した文献が今も残っているため。

              レオナルド手稿、ミケランジェロの手紙、そしてjジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝』。

              芸術家列伝3 ― レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ (白水Uブックス1124)ミケランジェロとヴァザーリ (イラストで読む「芸術家列伝」)

              それら文献の翻訳に目を通すと、レオナルドやミケランジェロをはじめ、国際都市であったフィレンツェに集った才人達のエネルギッシュで大らかなエピソードに、読んでいてワクワクさせられる。

              そのワクワク感は時代を超えて、日本のマンガにもなっている……みのる『神のごときミケランジェロさん』は(作者の愛あふれるミケランジェロへの独断と偏見を)今様に表現していて、面白かった。

              神のごときミケランジェロさん (少年チャンピオン・コミックス・タップ!)

              それにしても、何年か前にレオナルドの真筆とされた《美しき姫君》(※6)が出品中止とされたのは残念な話で……個人蔵ゆえ、致し方無いのかも知れないが……
              その美術収集家が絵から感じ取ったという、ただならぬ気配を私も感じてみたかった。

              完成作品ではない素描を見るという事。
              天才たちの試行錯誤を知る・学ぶ良い機会である。

              素描の参考作品として、有名すぎるレオナルド手稿のファクシミリ版も展示されていた。本物ではないが、精巧に再現された原寸大の複製品は、貴重な資料を傷めずに研究への貢献や、今回の素描展ではレオナルドの考えとその時代を補完してくれる。

              1. 1 石鍋 真澄 『フィレンツェ・ルネサンスの素描』 成城大学大学院文学研究科−紀要−美學美術史論集【第18輯】2010年3月 発行 p.68
              2. 2 古山 浩一『ミケランジェロとヴァザーリ』芸術新聞社 2014 p.46
              3. 3 同上『ミケランジェロとヴァザーリ』 p.42
              4. 4 前橋重二「想像力の人レオナルド vs.感受性の人ミケランジェロ 時空を超える素描対決!」芸術新潮 2017年 08 月号
              5. 5 ジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝3 ― レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ』
              6. 6 《美しき姫君》レオナルド・ダ・ヴィンチ|MUSEY[ミュージー]
                http://musey.net/1756
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              映画『BLAME!』感想 ――廃墟美学、人工知能とセキュリティ

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                JUGEMテーマ:SF映画 一般

                映画『BLAME!』チラシ

                公式サイト:
                http://www.blame.jp/

                20年の時を経て、(ようやくまとも?に)アニメ化!

                3DCG描画の技術向上と、『シドニアの騎士』ヒットのより実現……キラキラ

                !下記、ネタばれあり!

                あらすじ

                増殖した機械都市――人工物に閉鎖された世界――の中で、セーフガード“駆除系”に怯えて生きる人間。
                ハイテクがロストテクノロジーとなり、食料確保のため外に出るときに身に付ける装備以外、原始的な営みをしている「電基漁師」たちの“村”の人々。

                食糧確保のため遠征した「電基漁師」の若者達は、セーフガードに襲われる。
                窮地を救った、“ネット端末遺伝子”を探す旅人・霧亥と彼によって村の下層から発見された科学者・シボの進言により、“ネット端末遺伝子”の機械的な代用品を用いれば、“駆除系”を止める事も可能だという。
                窮地に陥っている村の安全と今後を考え、その試みに賭けてみたいと考えた“村”の頭領・おやっさんらと共に、シボの“ネット端末遺伝子”の代用品を製造できる「自動工場」へ向かう……

                廃墟都市情景と人間の生き方

                物語は完全に「電基漁師」たち人間側の視点で描かれる。

                「自動工場」へ向かう間の都市風景は軍艦島を愛でるような廃墟を楽しむ情景――人間の興亡に思いを馳せる、カタルシスがある。
                「文明が発達している・いた」描写は、シボの回想における塊都のみ。

                人が居なくなった巨大都市の廃墟で一夜を明かす電基漁師たち。

                夜営のため「火を見つめていると心が落ち着く」と語るおやっさん。
                “駆除系”が現れるときイオン臭がするという。
                視界を覆うハイテクなゴーグルに頼らず、生きるために五感を研ぎ澄ます。

                窒息してしまいそうな閉塞感の世界。空も大地も、有機的なものが無い世界にありながら、人間が非常に生物らしく生きているような描写だった。

                人間は本来、“ネット端末遺伝子”を持たなくても生きていける力が備わっている。現実世界の“あたりまえ”にはたと気付かされる瞬間でもあった。

                しかし、機械都市――基底現実――において“ネット端末遺伝子”を持たない人間はセーフガードによって「不法滞在者」と見なされ、排除対象だった。
                それが『BLAME!』の世界における戦いの理由だった。

                おやっさんをはじめとする「電基漁師」の人々、“ネット端末遺伝子”を持たない人間は、そのハイテクに触れなれない/触れない。 混沌とした世界の問題の本質を知る由もない。

                入場者特典第2弾 大ヒット御礼弐瓶勉メッセージ入りポストカード

                原作者に再構築されたハードSF

                原作の三つ巴で複雑な要素が削ぎ落とされ、シンプルになった物語設定。
                そのため、有機的な配管や増殖した肉塊、巨大蟲の姿は無かった。
                原作で重要な位置を占める珪素生物達、その他亜人、人種も……

                でもコミックにおける風景がフルカラーになって展開される点で満足。

                建築会社に勤めた経験をお持ちの原作者・弐瓶勉先生の、若干狂っているけれど執念で描かれた手書きパースの世界は、3DCG技術の向上で格段に表現しやすくなった。(セル画、手書きの頃は、動画でそれを再現すること自体にかなりの労力がかかっただろうし。)
                ……でも有機的な物体はまだ難しいのだろうか?動きとか、情報量が多くなってしまうとか、不自然さが残ってしまうとか…?

                単純に、尺の問題なのかも知れないけれど。

                第三者の下手な改編ではなく、原作者・弐瓶勉先生自らリビルド(再構築)した物語は綺麗にまとまっていたし、ファンには堪らないネタ――「シャキサク(※1)」や「でかい娘さんだなー」などちょっと可笑しさを誘う描写――も折り込まれ、原作を“壊していない”ことを意識させられた。
                それにしても「シャキサク」……あんな秘密(?)があったとは!私はてっきり、カロリーメイトみたいなものだと思っていたのに……!

                原作『BLAME!』1巻〜4巻に相当。(新装版では1〜3巻?)

                BLAME!(1) (アフタヌーンKC)BLAME!(2) (アフタヌーンKC)BLAME!(3) (アフタヌーンKC)BLAME!(4) (アフタヌーンKC)

                霧亥がセーフガードと表示されながらも違う理由は原作にチラッと語られるのだが……

                人工知能、ディープラーニング

                現実世界に目を向けると、ここ数年、人工知能の話題に事欠かない。
                その「今」に、『BLAME!』が映画化したことは、ちょっとタイムリーにも思えた。
                『BLAME!』は人工知能だけでなく、生体工学や極度に発達したユビキタス社会も出てくるけど……

                原作でも映画でも、統治局が管轄している都市管理システム・ネットスフィアにアクセス(進言とも言えるか?)できるのは“ネット端末遺伝子”を持つ人間だけ。
                セーフガードは本来、“ネット端末遺伝子”を持つ人間(正規ユーザー)を守るために、不法アクセスをする“ネット端末遺伝子”を持たない人間を排除する存在だった。 しかし“感染”による変異によって人類は“ネット端末遺伝子”を持たなくなってしまう。
                統治局から完全に独立しているセーフガード(セキュリティシステムの在り方から見たら、それは正に完璧なシステムと言える)は、人類を不正アクセスする存在――不法滞在者と見なしている。
                統治局はその事態を重く見ているが、セーフガードに干渉できない。
                だからこそ、ネットスフィアに正規アクセスできる“ネット端末遺伝子”の発見が必要不可欠である――
                霧亥の旅の目的だ。

                同時に、こうも考える。
                セーフガードという人工知能は“感染による変異”というイレギュラーな事態に対して、臨機応変に対処しきれなかった。すなわち、
                人工知能にプログラムされた命令を超えることは出来るのか――?

                映画『マトリックス レボリューションズ』の終盤、“ゼウス・エクス・マキナ”はオラクルとの会話では「私は機械だ。約束は守る」と言っていた。一度決めたことは反故にしない、機械故の融通の利かなさと取るべきか?
                それに似た判断か、裏目に出た『BLAME!』の世界では人類が滅びかけている。

                それを解決しそうな気がするのが、今注目されている人工知能の機械学習――ディープラーニング(※2)かも知れない。
                人間がプログラムを組むよりも、事態に素早く、被害を最小限に抑える対応が求められるのだから。

                そう考えたが、統治局はディープラーニングができているのか“感染による変異”という事態を理解しているが、セーフガードは愚直なまでに初期の命令を遂行している。セーフガードにはディープラーニングが組まれていないのだろうか?

                ソフトウェアは常に更新されていかなければならない。私たちの現実の世界で、ディープラーニングのその先にあるシンギュラリティ(技術的特異点)を人工知能が獲得するとき、セキュリティは臨機応変に対応できるプログラムが成されるのだろうか?

                しかし、セキュリティでもあるセーフガードが独自に排除対象を選ぶとなると、それは機能を果たしていないことになる。
                完全に独立し、命令を遂行する方が、やはり“セキュリティとして正しい”のだ……

                『BLAME!』、やはりよくできたSFだった。

                1. 1 【ネタバレ有】映画「BLAME!(ブラム)」の感想・あらすじ/原作未読でも楽しめるSFファン必見の作品!
                  http://www.birumendesu.com/entry/BLAME%21-Movie
                2. 2 ディープラーニングは何が「ディープ」なのか:日本経済新聞
                  http://www.nikkei.com/article/DGXMZO11923100Q7A120C1000000/
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                映画『美女と野獣』感想 ――地続きである自己肯定と愛の成就

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                  映画『美女と野獣』チラシ

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                  http://www.disney.co.jp/movie/beautyandbeast.html

                  現代の風潮に合わせた『美女と野獣』だった。

                  “ありのままの自分“でいることを肯定することを強く推すようになった昨今のディズニー映画。

                  原作の結末を改変し、ご都合主義的な愛の成就も多かったが、最近はそういった“子供だまし”的な描写が無くなったように思う。

                  今回の『美女と野獣』は、自己肯定から自己実現することにより安定した精神がお互いを尊重する“愛”となることを、描写するようになったと、私は考えている。


                  音楽――ミュージカル

                  アニメもそうだったが、ミュージカル調の場面展開が印象的。同じエリア上にいるはずなのに人物の服装の色味が変わったり花籠が出現して、主要人物の心象、キャラクターを表現している。

                  ミュージカル音楽はアメリカの十八番。ディズニーはそれをアニメ作品に積極的に取り入れていたと思う。
                  90年代のディズニーアニメーションでは積極的に取り入れていたけれども(※1)、2000年代に入ってからあまり見られなくなったような気がしていた。(単純に私が見なくなっただけだったか?)
                  『アナと雪の女王』の"Let it Go"を聴いたとき、心に沁みる音楽で、原点回帰したと思った。

                  その原点回帰の象徴か、実写映画の技術がようやく追いついたのか、今回の実写映画化は非常に興味があった。
                  かつてビデオで見た映像がほぼ実写化し、懐かしい曲が歌われる――

                  リアリティとフィクション、そして時事

                  18世紀フランスらしい、ロココ調のデザインが随所に見られる。
                  ドレス、化粧、調度品……
                  更にはアニメ版には描かれていなかった、パリの風景(屋根裏部屋の窓越し)まで。
                  原作の『美女と野獣』が18世紀フランス文学であることを踏まえていると思われる。

                  また、ベルが本を借りに行くのが教会だった。
                  アニメ版では本屋に本を借りにいっていた訳だが……日本には貸本屋があったけれど、世界にもあったのだろうか?
                  18世紀では公共の図書館など普及しておらず、当時、蔵書は貴族か聖職者しか持っていなかった。
                  教会の少ない本を借りに行く描写は妥当だと思う。

                  リアリティを“ちょっと”混ぜることで、子供だましを大人向けにしているような気がした。

                  それ故に気になってしまったのが、人種の問題……
                  勿論、アメリカが多人種・多民族の国家であること、映画業界が表現に人種、性差別をしてはならない方針を打ち出した理由は承知している。
                  しかし……ステレオタイプなイメージを持っているためか、違和感として写ってしまった……
                  社交界に有色人種が華やかな服を纏っていることに……

                  それは前述のリアリティとの齟齬として、私が受け止めてしまったためだろう。

                  ……!
                  “映画”ではなく、アメリカの“ミュージカル”を観劇していると思えば良かったんだ!

                  親子関係と自己肯定感

                  パリの場面で、ベルが父子家庭である理由――恐らくペストにより母親が亡くなったこと、同じく野獣も病弱な母を亡くした事が描写される。
                  同じ境遇でありながら、雲泥の差がある二人。
                  自分の望みを自覚し邁進するベルと、自身の望みを知らず心の飢え・渇きを表面的な美の追求で補おうとした野獣(王子)。今回の映画はその対比を強調する。

                  それは父親の存在が大きく寄与しているように思われる。

                  惜しみない愛情を受けたベルと違い、 高い教養を受けながらも厳しくしつけ(という名目の抑圧と無関心のネグレクト)られた王子。
                  野獣の姿(イメージ)に囚われていたのは、魔女の呪いである以前に、自身のイメージ(人間/等身大の姿)を認識できていなかったためではないだろうか?

                  映画の冒頭では、王子はおそらく領地内の美しい人を選び抜き、妻を選ぼうと宴を開いていた。
                  愛と所有欲が同義になっていたのではないだろうか?
                  それはガストンも然り。

                  野獣は愛を知ることで自己を回復し、 自己を回復することで愛を深めた。また「私は野獣ではない」と言う(自己を認識する)ことができた。
                  そうした積み重ねを見届けて、魔女は呪いを解く。

                  最近、私は自己肯定と自己実現、愛の成就は関連していると考えるようになった。

                  聖書にも多くその言葉は表れ(※2)、「隣人愛」という言葉で表現されている。聖書の「隣人を愛せ」の行の前には「汝自らを愛するが如く」とある。

                  自分を愛せなければ、他人を信頼し愛することはできず、また愛される事もできないのだ。

                  それにしても……最近のディズニー映画は心理学的な内容描写を盛り込むようになったのは、気のせいだろうか……? 『塔の上のラプンツェル』は毒親問題、『シュガー・ラッシュ』の自己啓発セミナー、『アナと雪の女王』は自己肯定感の模索、『ベイマックス』のケア(カウンセラーのような役割)……

                  もしかしたら、今回の『美女と野獣』では、魔女がカウンセラーのような役割を担っているといっていいのかも知れない。
                  魔法で姿を変えたり季節を変えたり、人の記憶まで操れる彼女。そんな力を持ちながら当事者たちから距離を置きながらも、要所で人知れず力を貸している。
                  問題の克服は“当事者”の自主性が必要なこと、それを促すのがカウンセラーの役割なら、魔女は野獣に愛を学ばせるためのカウンセラーだった。

                  ありのままの、あるいは囚われない生き方――同性愛、男女同権

                  LGBTという言葉が認知されるようになった昨今。それ故に導入された同性愛者の表現が、案の定物議を醸したようだ。

                  ゲイであることを公言している俳優、ルーク・エヴァンスが起用されたのも、容姿だけではなくLGBTへの偏見の払拭(とそのアピール)、ダイバーシティへの取り組みの一環があるだろう。

                  ルーク・エヴァンス、映画『ハイライズ』もそうだけど、最近ワイルドな悪役を演じる傾向が多く、板に付いてきた気がする……

                  そういえば、ガストンのキャラクター性も変更されている。(※3)
                  アニメ版で「無作法で自惚れ屋」と評された彼は、ハンターではなく村を守った帰還兵、英雄だった。
                  その理想像は男性性の負の面(所有原理は支配欲、英雄願望は他者を救うのではなく傷つける方に特化)に変質し、強調する。
                  そこから(男性)社会において抑圧される女性像――家庭に縛られ、女性に教育は不要、「年齢的にも子を産むこと」、そのための「結婚」という価値観を押し付ける――という、少し前の前世紀には“当たり前”だった価値観を思い出させ、今はそれを破戒することを想起させた。

                  1. 1 【今週のクローズアップ】特別枠「ディズニー・アニメーション90年の歴史」【後編】 - シネマトゥデイ
                    https://www.cinematoday.jp/page/A0004086
                  2. 2 レビ記 19章18節
                    あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
                  3. 3 「美女と野獣」を比較!実写版とアニメの違いは31個もある!ディズニー映画 - アートコンサルタント/ディズニーやミュージカル、ビジネス情報サイト
                    http://artconsultant.yokohama/beautyandthebeast-animated-live/
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                    JUGEMテーマ:展覧会

                    『ミュシャ展』(2017)チラシ 1

                    公式サイト:
                    http://www.mucha2017.jp/

                    乃木坂・国立新美術館( http://www.nact.jp/ )にて。
                    〜2017/6/5まで。

                    再びのミュシャ展。 東京での大きな展覧会は、2013年に六本木・森アーツセンターギャラリーで行われた『ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り』以来か。

                    ただ、今回が特別だと思うのは、故郷に帰ってからのミュシャの活躍、晩年の油彩画《スラヴ叙事詩》全20作が来日したこと。
                    チェコに行かなければ拝見できないと思っていた大作が、向こうから来てくれるとは思わなんだ……キラキラ

                    本物を前に感無量。
                    今まで小さな図版でしか拝見しなかった巨大な作品。
                    図版ではなく本物を拝見する必要性を改めて思う。
                    スケールもさることながら、印刷物では再現できない“差”と感動がある。

                    パリ時代の、実線で輪郭が取られているリトグラフとは異なる作風。
                    私が一番気になったのは色だった。
                    全体的に淡い。
                    陰影はあるが、コントラストがはっきりとした立体感ではない。全体的にぼんやりとした、やさしく神秘的な雰囲気。

                    その画面の中で、宙に浮いた人物像は、後のシュルレアリスムの先駆けかと思ってしまう。あるいは、聖書に出てくる預言者が遭遇した“奇跡”、幻視のようなものだった。

                    《スラヴ叙事詩》

                    《ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭》

                    ミュシャ《ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭》

                    古代スラヴの神・スヴァントヴィートの収穫祭の風景。
                    画面左上にいる北欧・ゲルマン神話のオーディン(※1)が暗示する異教徒の侵入とゲルマン化――バルト海沿岸に暮らすスラヴ人の統治が覆され、貧困と衰退の運命にあること――を描いている。

                    祝祭は楽し気で華やかだ。
                    夕焼けの暖色に染まる岩肌と木の葉がそのイメージを保つ。
                    同時に、次第に暗くなろうとしている夕刻と歴史風景の上に描かれた幻想の寒色が、スラヴの落日と哀愁を漂わせる。

                    カンヴァスの下方には、 悲惨な戦争に対する人間らしい対応としての芸術の意義を示すために楽士3人と、文芸の女神の庇護をうける木彫師(※2) が描かれているのだが、私にはそれが、戦争のなかで芸術の役割を模索する画家(あるいはミュシャ)の苦悩のようにも思えた。

                    ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)

                    《ブルガリア皇帝シメオン1世》

                    ミュシャ《ブルガリア皇帝シメオン1世》

                    極彩色の東欧の色合いは、ミュシャの手にかかると、白昼夢のような柔らかい雰囲気に。

                    この絵には、前の3枚まで宙に浮いた人物像はない。

                    主題が史実に重きを置いているためあえて表現を変えたのか、あるいは描いている時の画家の表現法法への変容だろうか?

                    このシメオン1世がスラヴ文学の創始者であるという。
                    スラヴ文化をビザンティン文化に比肩する水準に高めようと奮闘し、ビザンティン帝国の多くの主要文献をスラヴ語に翻訳させる労をとった学問の徒として描かれる。(※3)

                    構図や雰囲気に、ラファエロ《アテネの学堂》を彷彿させた。
                    知識人が集い、各々が議論したりその知を深めたり、思索にふけっていたりする姿と、半円のアーチ形状の連続するモティーフ。
                    知に対する敬意と重要性を意識させられる。

                    ブルガリア皇帝シメオン1世の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)

                    《ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛》

                    ミュシャ《ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛》

                    豪華絢爛な為政者の空間とその興亡、戦いの後の死の描写――歴史画が続き、宙に浮く人物に象徴される幻想的な雰囲気が無くなったように思っていたところ、再び“ミュシャらしい”作風が現れる。

                    遠目から観たとき、黒い墨が上から流れているような、黒い樹が前景にある風景のように見えた戦争画。
                    オレンジ色の画面と黒い不気味な存在のコントラストから、鬼気迫るものがある。
                    フリーメイソンとしての理想、平和主義、そして歴史的な情景描写でも暴力、流血、戦闘場面は避けるというキリスト教徒としての信念に基づいて制作された(※4) 《スラヴ叙事詩》。
                    それまで戦いの後の死体――その姿はまるで眠っているかのように綺麗――だった表現が、熱気を感じさせるものになっていた。

                    解説を読むと、それは戦の火の手、黒煙だった。
                    画面を左右に分断しながら、浮世絵に見られるような場面転換の区切りというよりも、後の展開の暗示として描かれているようだった。

                    ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)


                    陸続きで国家が隣接し、侵略と侵攻のなかで、アイデンティティーを模索したのが欧州の人々だ。 海があることで、永らく“侵略”という概念を理解していなかった日本人。
                    自己のアイデンティティーを侵害するものの存在が押し寄せてきたとき、多くの犠牲を伴って自らの由を守るために戦う歴史があること……
                    前世紀の2つの大戦は、その究極型だったと思う。
                    隣国との関係、その微妙なバランスというヤマアラシのジレンマを、現在はどうやって克服してゆくのだろうか?
                    その先にある、争い、戦いに備えながら、相手を理解する術を模索する方法について、なにかを考えてしまう……


                    《イヴァンチツェの兄弟団学校》部分、老いた盲人に聖書を朗読する少年

                    その次の作品、《イヴァンチツェの兄弟団学校》は一転して牧歌的な雰囲気になる。
                    チェコの宗教改革を主題とした作品。教育・啓蒙活動を称えるこの絵は、 社会的地位に格差はなく、知識、神が賜る平穏、無私の精神、そして神の祝福のみがそこにある。人間と自然の融和を称える(※5) まさに人類が希求して止まない世界だった。

                    ここだけ写真が撮れるという。
                    最近、東京都の美術館でも写真撮影を可能にする美術館が多くなりつつある。(※6)これもその一環のようだ。

                    作品保全と著作権問題から長らく撮影禁止の美術館が多かったと思うが、経済への影響――集客へ繋げる展覧会のPRのため、観覧者によるSNSでの拡散――という事情が大きいかも。(※7)

                    イヴァンチツェの兄弟団学校の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)

                    《ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々》

                    ミュシャ《ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々》

                    神秘、豪華、耽美、劇的、牧歌的……
                    そうした作品を堪能した次に、静謐な作品だった。
                    一見、地味思える作品に私の意識が向かったのは、タロットカードの「隠者」の札を彷彿させられたためかもしれない。
                    向かって左に首を垂れる老人と、地面に置かれた灯。
                    哀愁漂う光景にも思えるが、それはまるで夜明け前のような、目覚めの時を予感させる。

                    また、一連の中でもこの作品はアクセントのような立ち位置かもしれない。他とは雰囲気が違う分、気になってしまった。

                    ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)

                    『ミュシャ展』(2017)チラシ 2

                    アイデンティティの確立――自律

                    ミュシャの愛国心により描かれた《スラヴ叙事詩》は《スラヴ民族の讃歌》を最後とするが、そこに込められた意図はスラヴ民族のみにとどまらず、全人類の民族自立を求める“戦い”を表現している。それが達成された自由、平和、友愛の最終的な勝利を……

                    それから100年の時が過ぎた。
                    世界はその勝利を獲得できただろうか?

                    それはお互いの自律――“自己であること”――を肯定し、かつ相手のそれを認め敬意を払うことではなかったか?
                    それがグローバリズムの根底にあるものではなかったか?
                    ポピュリズムの台頭、自国第一主義の暴走が懸念される今日に、この絵を拝見することは、“本来の自律とは何か”を強く意識させられた。

                    一個人として翻弄されない自分自身でありたい――
                    世界という個人の意思では大きすぎる存在について考える前に、自分の“アイデンティティについても考えさせられた。


                    後半には、フランス時代のミュシャの有名な作品と、チェコでの公共事業の建築物やポスター、切手を展示。
                    蛇のブレスネットと指環をまた拝見できた。

                    『ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り』の時よりも、よりスラヴ時代のミュシャの作品を取り上げた展覧会だった。

                    日本でも人気の高い画家なので、日本国内でも数々の図版が出版されている。その殆どが、フランス時代の作品だ。
                    今回の展覧会をきっかけに、もっとミュシャのスラヴ時代の作品が注目されると思う。

                    公式カタログの作品は、他ではあまり見なかった者が殆どだったので、やっぱり購入。
                    他に既刊でスラヴ時代のミュシャの作品についてまとめられているのは千足 伸行『ミュシャ スラヴ作品集』くらいだろうか?

                    ミュシャ スラヴ作品集

                    ただ、今回の展覧会では、聖ヴィート大聖堂にあるミュシャが手掛けたステンドグラスに関する資料・言及は無かったし……
                    やっぱりプラハへ赴く動機は無くならない。

                    展覧会の会場内の解説文では、フランス語読みの“ミュシャ”ではなく、チェコ語発音の“ムハ”に統一されていた。
                    これは《スラヴ叙事詩》に込めたミュシャの思い、ミュシャのナショナル・アイデンティティへの敬意だとも思う。

                    1. 1 『ミュシャ展』カタログ(2017)では ゲルマン民族の戦神トール(p.91) とあったが、持ち物と狼を携えている姿から、オーディンではないだろうか?だが、オーディンのように隻眼ではない……ミュシャが混同していたのだろうか?
                    2. 2 『ミュシャ展』カタログ(2017) p.91 引用
                    3. 『ミュシャ展』カタログ(2017) p.95 参照

                      シメオン1世 - Wikipedia
                      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%82%AA%E3%83%B31%E4%B8%96(2017/5/19確認)

                    4. 『ミュシャ展』カタログ(2017) p.109 引用
                    5. 『ミュシャ展』カタログ(2017) p.117 引用
                    6. 6 東京都、都立美術館の写真撮影解禁へ舵? 各美術館の反応は|美術手帖
                      https://bijutsutecho.com/insight/351/(2017/5/19確認)
                    7. 展覧会で広がる”写真撮影OK”その裏側とは!? 【ひでたけのやじうま好奇心】 | ニッポン放送 ラジオAM1242+FM93
                      http://www.1242.com/lf/articles/5869/(2017/5/19確認)
                    参考文献
                    ミュシャ展

                    国立新美術館『ミュシャ展』公式カタログ

                    斉藤充夫 『ミュシャを楽しむために』
                    http://www.mucha.jp/(2017/5/19確認)
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                    映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』感想

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                      JUGEMテーマ:フラメンコ

                      映画『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』チラシ1

                      公式サイト:
                      http://www.uplink.co.jp/sacromonte/

                      フラメンコの“元祖”を観る映画だった。

                      今日明日生きること――
                      生活の糧を得るためのフラメンコであり、「今、ここにいる」ため、自己を表現するために踊っている。

                      そのフラメンコの技術は、洞窟のコミュニティの中で受け継がれてきた絆にも等しいようだった。

                      19世紀、ヨーロッパ圏でも特異なその異国情緒から巻き起こったスペイン・ブーム……そのきっかけとなるフラメンコと闘牛は、共にロマ達――アンダルシアの人々は誇りをもって自らをヒターノと呼ぶ――低所得者の文化だった。

                      時々映し出される、サクロモンテの洞窟内部の壁に掛けられた品々は、ヒターノとフラメンコにとって重要なものばかりだ。
                      皿などの銀製品、すなわち金属の加工技術は、ロマの人々の生計を支えていたし、ロルカの肖像には彼が発表した詩の数々を想起させられた。

                      ドビュッシー、ファリャなど、数多くの芸術家を魅了したフラメンコ。
                      それを見るために、多くの人がスペインを訪れた。

                      そしてフラメンコ(と闘牛)が観光業としての魅力が注目され、国を挙げて“スペインらしさ”の象徴となった。
                      現在は舞台芸術として洗練されてゆくフラメンコ。

                      フラメンコを教える専門の学校もある。

                      「学校なんか行かなかった」
                      「自分で目で見て覚えていった」

                      映画に出演するサクロモンテ出身のフラメンコ・アーティストたちは口をそろえる。

                      ギルドのように地域コミュニティの中で伝承され、自ずと獲得していったフラメンコの技術。

                      そこに垣間見る、自己を律し生きる強い意志――
                      インタビューに答えるアーティスト達が時に垣間見せる自身の半生には、色恋沙汰も仄めかされるが、たとえ悲恋であってもそれに打ちひしがれた様子を微塵も見せず、力強い。
                      苦悩をはじき返すように。

                      ロマの人々は、人が集まれば、老若男女問わずどんな場所でも踊っていた。
                      これらがフラメンコの“元祖”だった。

                      現在のフラメンコにある、靴音を鳴らす技巧を重視するのではなく、もっと思うままに即興で踊るような様は、黒人音楽としてのジャズにも似ている。

                      チラシにも使われている、ラ・クキと呼ばれる老齢のバイラオーラ(女性踊り手)は、踵がたかくしっかりした現在のフラメンコシューズではなく、かわいいスリッパで踊っていた。

                      彼らが歌い上げる、泥臭く下世話な歌詞。

                      映画『フラメンコ・フラメンコ』にあったような美意識はなく、また、最早意味があるのか分からなくなった、詩的な歌詞とも違う。

                      トマトトマトについて(!?)歌い、時にあけすけに下世話な話セクシーを歌い上げていた。

                      1963年 
                      偉大なバイラオーラ、カルメン・アマジャの死と、その年に起こった大洪水によりサクロモンテの洞窟は水没・崩壊の危険に見舞われる。

                      当時の政府の方針で、ロマの人々は強制的に移住させられる。
                      それはフラメンコのひとつの時代の終焉だった。

                      ロマの故郷喪失――
                      自然災害によるコミュニティの崩壊は、現在の日本を生きる私にとって、311のイメージに繋がってしまう。

                      コミュニティが散り散りになり、かつてのような盛況を見せなくなってしまうサクロモンテ。
                      人がいなくなったサクロモンテは、フラメンコ発祥の地としての価値からか、外国人の買い手(その中には日本人もいたらしい)ついたり、ロマのコミュニティとしての機能が無くなってゆく……

                      とはいえ、全てが途絶えてしまったわけではなく、新しい土地で再びフラメンコを行ったり、コミュニティの繋がりを維持していく。
                      同時に、閉鎖的・排他的なイメージが強かったロマの人々も、ロマ以外の人々を受け入れ、混血も進むなどの変化を受け入れてゆく。
                      それ故に、フラメンコに新しい息吹が吹き込まれていったのだが……

                      ロマとフラメンコのひとつの時代の終焉とかつての記憶を記録する――
                      パコ・デ・ルシアが晩年、歌謡曲への関心を持ったように、映像に残す試みのように思う。

                      フラメンコの学校の話にもつながるのだが、フラメンコの世界では、バレエなど他の舞踏に見られる要素が取り入れられ、舞台芸術として洗練されていっている。
                      それでもフラメンコは“フラメンコらしさ”を失わず、世代を超えて受け継がれてゆくのだろう。

                      それは映画の最後にサクロモンテの洞窟の一室で、コミュニティの3世代が集い、各々踊りや歌を披露する姿に集約されていた。

                      映画『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』チラシ2

                      フラメンコやロマの歴史を抜きに、音楽と舞踏を楽しめる面白い映画だった。

                      フラメンコを習っている私にとっては、生のリズムを聞く良い機会にもなった。 洞窟に響く、踊り手のパサデアート(足で床を打ち鳴らすこと)やカンテ(歌)は重厚感があり、今、感じることができないフラメンコの“音”があることを知った。

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                      しかし、子供の頃を思い出させるディティール。
                      現実と幻想、決して交差せずとも互いに影響しあう。
                      そこで彼女は何を得るのか。

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