レオナルド×ミケランジェロ展

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    JUGEMテーマ:展覧会

    レオナルド×ミケランジェロ展

    公式サイト:

    http://mimt.jp/lemi/

    東京・丸の内 三菱一号館美術館( http://mimt.jp/ )にて。
    〜2017/9/24まで。

    入ってすぐの所に今回の目玉作品、レオナルド・ダ・ヴィンチ《少女の頭部/〈岩窟の聖母〉の天使のための習作》とミケランジェロ・ブオナローティ《〈レダと白鳥〉の頭部のための習作》が、各々の肖像画と共に並べられている。

    胸が熱くなる。
    筆跡から、巨匠がどんな風に筆を走らせたのか想像してしまうから。

    “万能人”レオナルドと“神のごとき”ミケランジェロが、この絵に込めた試行錯誤と集中力を垣間見るようで……

    それにしても、赤く染めた紙に赤いチョークで描かれていたのは何故だろう?

    ちょっと調べて分かったことは、‘フィレンツェ では赤チョークが好まれ、 青い紙はヴェネツィアで多く用いられる、といった地域差(※1)’があったという事だけだった。
    …… フィレンツェとヴェネツィアのアイデンティティとしての色だったのだろうか?

    《レダと白鳥》

    展示されている二人の作品が、会場の中で対を成すように思えた。
    それはこの二人の巨匠が全く異なる視点から芸術を捉えていたため。

    理性を用いて究極の美(理想)を探求したレオナルド。
    感情を劇的に表現することで人間本来の姿(現実)を捉えようとしたミケランジェロ。
    ラファエロ《アテネの学堂》では、その顔がプラトンとアリストテレスにあてられている二人。
    二人の巨匠の表現方法を、古代の哲学(イデアという理想があると説いたプラトンと、それを否定したアリストテレス)に照らし合わせる、ラファエロも博学だと思った。

    素描や諸々の資料からもそれが理解できるが、それを如実に表しているのが、2人の巨匠が挑んだ同主題『レダと白鳥』だろう。

    2012年に催されていたレオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想でも、この主題は参考作品として展示されていた。(今回展示されていたものとは違う画家の手によるものだった)

    レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく《レダと白鳥》フランチェスコ・フリーナ(帰属)《レダと白鳥(失われたミケランジェロ作品に基づく)》

    伝統的な構図ながら女性的な曲線美を強調するS字型に立つレダを描くレオナルドのものと、身体を丸めることで曲線美を強調するミケランジェロの作品。私はレオナルドの女性像が好きだが、この絵はミケランジェロの方が斬新な構図で、好きだ。

    絵画か、彫刻か――

    芸術の捉え方も、その表現方法も異なる二人。
    画家であったレオナルドと、(本来は)彫刻家であったミケランジェロ。

    この違い、例のデッサンにも表れている。
    レオナルドが(左利きだったため)左上から右下に線を引き、その密度で濃淡、明暗を表現している。
    対して、ミケランジェロは師匠であるドメニコ・ギルランダイオのデッサンのやり方を踏襲し、クロスハッチングという線を重ね合わせる技法を用い、直線だけでなく人体の丸みや凹みに沿わせて線を曲線にし、立体感を強調している。(※2)

    当時、彫刻と絵画のどちらがより優れた芸術であるかを論じ合う、比較芸術論争(パラゴーネ。イタリア語で比較の意)が起こっており、当時の人々は彫刻の方が優位であると考えていた。
    彫刻は立体であり制作には労力がいること、素材は大理石など耐久性があり、経年劣化に強いため、という理由だった。
    一方、絵画は彫刻と比べ工数がかからず、彫刻の下絵のようなもの、という認識だったように、私は記憶している。

    当時はまだヨーロッパでも芸術家の地位は低く、画家は彫刻家よりも低かった。

    これもうろ覚えなのだが、確かレオナルドは画家の地位向上の布石として『絵画論』を書いたのではなかったか?

    レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論 改訂版

    会場の壁面の所々には、レオナルドとミケランジェロの比較芸術論争についての見解がちりばめられていた。
    絵画と彫刻のレオナルドの挑戦的な発言に対し、やんわりと大人な対応をかえすミケランジェロ……
    イメージでは逆だったのだが。

    一説では、レオナルドとミケランジェロは不仲だったともいわれている。
    レオナルドは『絵画論』の文章に「絵画は優雅だが、彫刻家は汚い労働者のようだ」とあったため、それがミケランジェロの癇に障った(※3)とか、レオナルドからダンテについて意見を求められた時、ミケランジェロは 馬鹿にされたと思った(※4)から等、色々あるようだが……

    とはいえ、互いの才能を認めていなかった訳ではないようだ。

    両巨匠がフィレンツェにいた時(1503〜1505)、ミケランジェロはレオナルド《聖アンナと聖母子》における三角形の安定構造と流れるような視線の導線に感心し、レオナルドはミケランジェロ《ダヴィデ》を見て、その構造を研究するように素描を残したらしい。
    その延長であろう、レオナルド《ヘラクレス》の素描には、ミケランジェロ《ダヴィデ》の影響を受けた力強い筋肉描写は、今までのレオナルドとはちょっと違う作風に思える。筋骨隆々。ムキムキ。


    こんなにも偉人たちの息遣いがリアルに聴こえてくるのは、それを記録した文献が今も残っているため。

    レオナルド手稿、ミケランジェロの手紙、そしてjジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝』。

    芸術家列伝3 ― レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ (白水Uブックス1124)ミケランジェロとヴァザーリ (イラストで読む「芸術家列伝」)

    それら文献の翻訳に目を通すと、レオナルドやミケランジェロをはじめ、国際都市であったフィレンツェに集った才人達のエネルギッシュで大らかなエピソードに、読んでいてワクワクさせられる。

    そのワクワク感は時代を超えて、日本のマンガにもなっている……みのる『神のごときミケランジェロさん』は(作者の愛あふれるミケランジェロへの独断と偏見を)今様に表現していて、面白かった。

    神のごときミケランジェロさん (少年チャンピオン・コミックス・タップ!)

    それにしても、何年か前にレオナルドの真筆とされた《美しき姫君》(※5)が出品中止とされたのは残念な話で……個人蔵ゆえ、致し方無いのかも知れないが……
    その美術収集家が絵から感じ取ったという、ただならぬ気配を私も感じてみたかった。

    完成作品ではない素描を見るという事。
    天才たちの試行錯誤を知る・学ぶ良い機会である。

    素描の参考作品として、有名すぎるレオナルド手稿のファクシミリ版も展示されていた。本物ではないが、精巧に再現された原寸大の複製品は、貴重な資料を傷めずに研究への貢献や、今回の素描展ではレオナルドの考えとその時代を補完してくれる。

    1. 1 石鍋 真澄 『フィレンツェ・ルネサンスの素描』 成城大学大学院文学研究科−紀要−美學美術史論集【第18輯】2010年3月 発行 p.68
    2. 2 古山 浩一『ミケランジェロとヴァザーリ』芸術新聞社 2014 p.46
    3. 3 同上『ミケランジェロとヴァザーリ』 p.42
    4. 4 前橋重二「想像力の人レオナルド vs.感受性の人ミケランジェロ 時空を超える素描対決!」芸術新潮 2017年 08 月号
    5. 5 《美しき姫君》レオナルド・ダ・ヴィンチ|MUSEY[ミュージー]
      http://musey.net/1756
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    映画『BLAME!』感想 ――廃墟美学、人工知能とセキュリティ

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      JUGEMテーマ:SF映画 一般

      映画『BLAME!』チラシ

      公式サイト:
      http://www.blame.jp/

      20年の時を経て、(ようやくまとも?に)アニメ化!

      3DCG描画の技術向上と、『シドニアの騎士』ヒットのより実現……キラキラ

      !下記、ネタばれあり!

      あらすじ

      増殖した機械都市――人工物に閉鎖された世界――の中で、セーフガード“駆除系”に怯えて生きる人間。
      ハイテクがロストテクノロジーとなり、食料確保のため外に出るときに身に付ける装備以外、原始的な営みをしている「電基漁師」たちの“村”の人々。

      食糧確保のため遠征した「電基漁師」の若者達は、セーフガードに襲われる。
      窮地を救った、“ネット端末遺伝子”を探す旅人・霧亥と彼によって村の下層から発見された科学者・シボの進言により、“ネット端末遺伝子”の機械的な代用品を用いれば、“駆除系”を止める事も可能だという。
      窮地に陥っている村の安全と今後を考え、その試みに賭けてみたいと考えた“村”の頭領・おやっさんらと共に、シボの“ネット端末遺伝子”の代用品を製造できる「自動工場」へ向かう……

      廃墟都市情景と人間の生き方

      物語は完全に「電基漁師」たち人間側の視点で描かれる。

      「自動工場」へ向かう間の都市風景は軍艦島を愛でるような廃墟を楽しむ情景――人間の興亡に思いを馳せる、カタルシスがある。
      「文明が発達している・いた」描写は、シボの回想における塊都のみ。

      人が居なくなった巨大都市の廃墟で一夜を明かす電基漁師たち。

      夜営のため「火を見つめていると心が落ち着く」と語るおやっさん。
      “駆除系”が現れるときイオン臭がするという。
      視界を覆うハイテクなゴーグルに頼らず、生きるために五感を研ぎ澄ます。

      窒息してしまいそうな閉塞感の世界。空も大地も、有機的なものが無い世界にありながら、人間が非常に生物らしく生きているような描写だった。

      人間は本来、“ネット端末遺伝子”を持たなくても生きていける力が備わっている。現実世界の“あたりまえ”にはたと気付かされる瞬間でもあった。

      しかし、機械都市――基底現実――において“ネット端末遺伝子”を持たない人間はセーフガードによって「不法滞在者」と見なされ、排除対象だった。
      それが『BLAME!』の世界における戦いの理由だった。

      おやっさんをはじめとする「電基漁師」の人々、“ネット端末遺伝子”を持たない人間は、そのハイテクに触れなれない/触れない。 混沌とした世界の問題の本質を知る由もない。

      入場者特典第2弾 大ヒット御礼弐瓶勉メッセージ入りポストカード

      原作者に再構築されたハードSF

      原作の三つ巴で複雑な要素が削ぎ落とされ、シンプルになった物語設定。
      そのため、有機的な配管や増殖した肉塊、巨大蟲の姿は無かった。
      原作で重要な位置を占める珪素生物達、その他亜人、人種も……

      でもコミックにおける風景がフルカラーになって展開される点で満足。

      建築会社に勤めた経験をお持ちの原作者・弐瓶勉先生の、若干狂っているけれど執念で描かれた手書きパースの世界は、3DCG技術の向上で格段に表現しやすくなった。(セル画、手書きの頃は、動画でそれを再現すること自体にかなりの労力がかかっただろうし。)
      ……でも有機的な物体はまだ難しいのだろうか?動きとか、情報量が多くなってしまうとか、不自然さが残ってしまうとか…?

      単純に、尺の問題なのかも知れないけれど。

      第三者の下手な改編ではなく、原作者・弐瓶勉先生自らリビルド(再構築)した物語は綺麗にまとまっていたし、ファンには堪らないネタ――「シャキサク(※1)」や「でかい娘さんだなー」などちょっと可笑しさを誘う描写――も折り込まれ、原作を“壊していない”ことを意識させられた。
      それにしても「シャキサク」……あんな秘密(?)があったとは!私はてっきり、カロリーメイトみたいなものだと思っていたのに……!

      原作『BLAME!』1巻〜4巻に相当。(新装版では1〜3巻?)

      BLAME!(1) (アフタヌーンKC)BLAME!(2) (アフタヌーンKC)BLAME!(3) (アフタヌーンKC)BLAME!(4) (アフタヌーンKC)

      霧亥がセーフガードと表示されながらも違う理由は原作にチラッと語られるのだが……

      人工知能、ディープラーニング

      現実世界に目を向けると、ここ数年、人工知能の話題に事欠かない。
      その「今」に、『BLAME!』が映画化したことは、ちょっとタイムリーにも思えた。
      『BLAME!』は人工知能だけでなく、生体工学や極度に発達したユビキタス社会も出てくるけど……

      原作でも映画でも、統治局が管轄している都市管理システム・ネットスフィアにアクセス(進言とも言えるか?)できるのは“ネット端末遺伝子”を持つ人間だけ。
      セーフガードは本来、“ネット端末遺伝子”を持つ人間(正規ユーザー)を守るために、不法アクセスをする“ネット端末遺伝子”を持たない人間を排除する存在だった。 しかし“感染”による変異によって人類は“ネット端末遺伝子”を持たなくなってしまう。
      統治局から完全に独立しているセーフガード(セキュリティシステムの在り方から見たら、それは正に完璧なシステムと言える)は、人類を不正アクセスする存在――不法滞在者と見なしている。
      統治局はその事態を重く見ているが、セーフガードに干渉できない。
      だからこそ、ネットスフィアに正規アクセスできる“ネット端末遺伝子”の発見が必要不可欠である――
      霧亥の旅の目的だ。

      同時に、こうも考える。
      セーフガードという人工知能は“感染による変異”というイレギュラーな事態に対して、臨機応変に対処しきれなかった。すなわち、
      人工知能にプログラムされた命令を超えることは出来るのか――?

      映画『マトリックス レボリューションズ』の終盤、“ゼウス・エクス・マキナ”はオラクルとの会話では「私は機械だ。約束は守る」と言っていた。一度決めたことは反故にしない、機械故の融通の利かなさと取るべきか?
      それに似た判断か、裏目に出た『BLAME!』の世界では人類が滅びかけている。

      それを解決しそうな気がするのが、今注目されている人工知能の機械学習――ディープラーニング(※2)かも知れない。
      人間がプログラムを組むよりも、事態に素早く、被害を最小限に抑える対応が求められるのだから。

      そう考えたが、統治局はディープラーニングができているのか“感染による変異”という事態を理解しているが、セーフガードは愚直なまでに初期の命令を遂行している。セーフガードにはディープラーニングが組まれていないのだろうか?

      ソフトウェアは常に更新されていかなければならない。私たちの現実の世界で、ディープラーニングのその先にあるシンギュラリティ(技術的特異点)を人工知能が獲得するとき、セキュリティは臨機応変に対応できるプログラムが成されるのだろうか?

      しかし、セキュリティでもあるセーフガードが独自に排除対象を選ぶとなると、それは機能を果たしていないことになる。
      完全に独立し、命令を遂行する方が、やはり“セキュリティとして正しい”のだ……

      『BLAME!』、やはりよくできたSFだった。

      1. 1 【ネタバレ有】映画「BLAME!(ブラム)」の感想・あらすじ/原作未読でも楽しめるSFファン必見の作品!
        http://www.birumendesu.com/entry/BLAME%21-Movie
      2. 2 ディープラーニングは何が「ディープ」なのか:日本経済新聞
        http://www.nikkei.com/article/DGXMZO11923100Q7A120C1000000/
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      映画『美女と野獣』感想 ――地続きである自己肯定と愛の成就

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        映画『美女と野獣』チラシ

        公式サイト:
        http://www.disney.co.jp/movie/beautyandbeast.html

        現代の風潮に合わせた『美女と野獣』だった。

        “ありのままの自分“でいることを肯定することを強く推すようになった昨今のディズニー映画。

        原作の結末を改変し、ご都合主義的な愛の成就も多かったが、最近はそういった“子供だまし”的な描写が無くなったように思う。

        今回の『美女と野獣』は、自己肯定から自己実現することにより安定した精神がお互いを尊重する“愛”となることを、描写するようになったと、私は考えている。


        音楽――ミュージカル

        アニメもそうだったが、ミュージカル調の場面展開が印象的。同じエリア上にいるはずなのに人物の服装の色味が変わったり花籠が出現して、主要人物の心象、キャラクターを表現している。

        ミュージカル音楽はアメリカの十八番。ディズニーはそれをアニメ作品に積極的に取り入れていたと思う。
        90年代のディズニーアニメーションでは積極的に取り入れていたけれども(※1)、2000年代に入ってからあまり見られなくなったような気がしていた。(単純に私が見なくなっただけだったか?)
        『アナと雪の女王』の"Let it Go"を聴いたとき、心に沁みる音楽で、原点回帰したと思った。

        その原点回帰の象徴か、実写映画の技術がようやく追いついたのか、今回の実写映画化は非常に興味があった。
        かつてビデオで見た映像がほぼ実写化し、懐かしい曲が歌われる――

        リアリティとフィクション、そして時事

        18世紀フランスらしい、ロココ調のデザインが随所に見られる。
        ドレス、化粧、調度品……
        更にはアニメ版には描かれていなかった、パリの風景(屋根裏部屋の窓越し)まで。
        原作の『美女と野獣』が18世紀フランス文学であることを踏まえていると思われる。

        また、ベルが本を借りに行くのが教会だった。
        アニメ版では本屋に本を借りにいっていた訳だが……日本には貸本屋があったけれど、世界にもあったのだろうか?
        18世紀では公共の図書館など普及しておらず、当時、蔵書は貴族か聖職者しか持っていなかった。
        教会の少ない本を借りに行く描写は妥当だと思う。

        リアリティを“ちょっと”混ぜることで、子供だましを大人向けにしているような気がした。

        それ故に気になってしまったのが、人種の問題……
        勿論、アメリカが多人種・多民族の国家であること、映画業界が表現に人種、性差別をしてはならない方針を打ち出した理由は承知している。
        しかし……ステレオタイプなイメージを持っているためか、違和感として写ってしまった……
        社交界に有色人種が華やかな服を纏っていることに……

        それは前述のリアリティとの齟齬として、私が受け止めてしまったためだろう。

        ……!
        “映画”ではなく、アメリカの“ミュージカル”を観劇していると思えば良かったんだ!

        親子関係と自己肯定感

        パリの場面で、ベルが父子家庭である理由――恐らくペストにより母親が亡くなったこと、同じく野獣も病弱な母を亡くした事が描写される。
        同じ境遇でありながら、雲泥の差がある二人。
        自分の望みを自覚し邁進するベルと、自身の望みを知らず心の飢え・渇きを表面的な美の追求で補おうとした野獣(王子)。今回の映画はその対比を強調する。

        それは父親の存在が大きく寄与しているように思われる。

        惜しみない愛情を受けたベルと違い、 高い教養を受けながらも厳しくしつけ(という名目の抑圧と無関心のネグレクト)られた王子。
        野獣の姿(イメージ)に囚われていたのは、魔女の呪いである以前に、自身のイメージ(人間/等身大の姿)を認識できていなかったためではないだろうか?

        映画の冒頭では、王子はおそらく領地内の美しい人を選び抜き、妻を選ぼうと宴を開いていた。
        愛と所有欲が同義になっていたのではないだろうか?
        それはガストンも然り。

        野獣は愛を知ることで自己を回復し、 自己を回復することで愛を深めた。また「私は野獣ではない」と言う(自己を認識する)ことができた。
        そうした積み重ねを見届けて、魔女は呪いを解く。

        最近、私は自己肯定と自己実現、愛の成就は関連していると考えるようになった。

        聖書にも多くその言葉は表れ(※2)、「隣人愛」という言葉で表現されている。聖書の「隣人を愛せ」の行の前には「汝自らを愛するが如く」とある。

        自分を愛せなければ、他人を信頼し愛することはできず、また愛される事もできないのだ。

        それにしても……最近のディズニー映画は心理学的な内容描写を盛り込むようになったのは、気のせいだろうか……? 『塔の上のラプンツェル』は毒親問題、『シュガー・ラッシュ』の自己啓発セミナー、『アナと雪の女王』は自己肯定感の模索、『ベイマックス』のケア(カウンセラーのような役割)……

        もしかしたら、今回の『美女と野獣』では、魔女がカウンセラーのような役割を担っているといっていいのかも知れない。
        魔法で姿を変えたり季節を変えたり、人の記憶まで操れる彼女。そんな力を持ちながら当事者たちから距離を置きながらも、要所で人知れず力を貸している。
        問題の克服は“当事者”の自主性が必要なこと、それを促すのがカウンセラーの役割なら、魔女は野獣に愛を学ばせるためのカウンセラーだった。

        ありのままの、あるいは囚われない生き方――同性愛、男女同権

        LGBTという言葉が認知されるようになった昨今。それ故に導入された同性愛者の表現が、案の定物議を醸したようだ。

        ゲイであることを公言している俳優、ルーク・エヴァンスが起用されたのも、容姿だけではなくLGBTへの偏見の払拭(とそのアピール)、ダイバーシティへの取り組みの一環があるだろう。

        ルーク・エヴァンス、映画『ハイライズ』もそうだけど、最近ワイルドな悪役を演じる傾向が多く、板に付いてきた気がする……

        そういえば、ガストンのキャラクター性も変更されている。(※3)
        アニメ版で「無作法で自惚れ屋」と評された彼は、ハンターではなく村を守った帰還兵、英雄だった。
        その理想像は男性性の負の面(所有原理は支配欲、英雄願望は他者を救うのではなく傷つける方に特化)に変質し、強調する。
        そこから(男性)社会において抑圧される女性像――家庭に縛られ、女性に教育は不要、「年齢的にも子を産むこと」、そのための「結婚」という価値観を押し付ける――という、少し前の前世紀には“当たり前”だった価値観を思い出させ、今はそれを破戒することを想起させた。

        1. 1 【今週のクローズアップ】特別枠「ディズニー・アニメーション90年の歴史」【後編】 - シネマトゥデイ
          https://www.cinematoday.jp/page/A0004086
        2. 2 レビ記 19章18節
          あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
        3. 3 「美女と野獣」を比較!実写版とアニメの違いは31個もある!ディズニー映画 - アートコンサルタント/ディズニーやミュージカル、ビジネス情報サイト
          http://artconsultant.yokohama/beautyandthebeast-animated-live/
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        ミュシャ展

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          『ミュシャ展』(2017)チラシ 1

          公式サイト:
          http://www.mucha2017.jp/

          乃木坂・国立新美術館( http://www.nact.jp/ )にて。
          〜2017/6/5まで。

          再びのミュシャ展。 東京での大きな展覧会は、2013年に六本木・森アーツセンターギャラリーで行われた『ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り』以来か。

          ただ、今回が特別だと思うのは、故郷に帰ってからのミュシャの活躍、晩年の油彩画《スラヴ叙事詩》全20作が来日したこと。
          チェコに行かなければ拝見できないと思っていた大作が、向こうから来てくれるとは思わなんだ……キラキラ

          本物を前に感無量。
          今まで小さな図版でしか拝見しなかった巨大な作品。
          図版ではなく本物を拝見する必要性を改めて思う。
          スケールもさることながら、印刷物では再現できない“差”と感動がある。

          パリ時代の、実線で輪郭が取られているリトグラフとは異なる作風。
          私が一番気になったのは色だった。
          全体的に淡い。
          陰影はあるが、コントラストがはっきりとした立体感ではない。全体的にぼんやりとした、やさしく神秘的な雰囲気。

          その画面の中で、宙に浮いた人物像は、後のシュルレアリスムの先駆けかと思ってしまう。あるいは、聖書に出てくる預言者が遭遇した“奇跡”、幻視のようなものだった。

          《スラヴ叙事詩》

          《ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭》

          ミュシャ《ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭》

          古代スラヴの神・スヴァントヴィートの収穫祭の風景。
          画面左上にいる北欧・ゲルマン神話のオーディン(※1)が暗示する異教徒の侵入とゲルマン化――バルト海沿岸に暮らすスラヴ人の統治が覆され、貧困と衰退の運命にあること――を描いている。

          祝祭は楽し気で華やかだ。
          夕焼けの暖色に染まる岩肌と木の葉がそのイメージを保つ。
          同時に、次第に暗くなろうとしている夕刻と歴史風景の上に描かれた幻想の寒色が、スラヴの落日と哀愁を漂わせる。

          カンヴァスの下方には、 悲惨な戦争に対する人間らしい対応としての芸術の意義を示すために楽士3人と、文芸の女神の庇護をうける木彫師(※2) が描かれているのだが、私にはそれが、戦争のなかで芸術の役割を模索する画家(あるいはミュシャ)の苦悩のようにも思えた。

          ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)

          《ブルガリア皇帝シメオン1世》

          ミュシャ《ブルガリア皇帝シメオン1世》

          極彩色の東欧の色合いは、ミュシャの手にかかると、白昼夢のような柔らかい雰囲気に。

          この絵には、前の3枚まで宙に浮いた人物像はない。

          主題が史実に重きを置いているためあえて表現を変えたのか、あるいは描いている時の画家の表現法法への変容だろうか?

          このシメオン1世がスラヴ文学の創始者であるという。
          スラヴ文化をビザンティン文化に比肩する水準に高めようと奮闘し、ビザンティン帝国の多くの主要文献をスラヴ語に翻訳させる労をとった学問の徒として描かれる。(※3)

          構図や雰囲気に、ラファエロ《アテネの学堂》を彷彿させた。
          知識人が集い、各々が議論したりその知を深めたり、思索にふけっていたりする姿と、半円のアーチ形状の連続するモティーフ。
          知に対する敬意と重要性を意識させられる。

          ブルガリア皇帝シメオン1世の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)

          《ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛》

          ミュシャ《ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛》

          豪華絢爛な為政者の空間とその興亡、戦いの後の死の描写――歴史画が続き、宙に浮く人物に象徴される幻想的な雰囲気が無くなったように思っていたところ、再び“ミュシャらしい”作風が現れる。

          遠目から観たとき、黒い墨が上から流れているような、黒い樹が前景にある風景のように見えた戦争画。
          オレンジ色の画面と黒い不気味な存在のコントラストから、鬼気迫るものがある。
          フリーメイソンとしての理想、平和主義、そして歴史的な情景描写でも暴力、流血、戦闘場面は避けるというキリスト教徒としての信念に基づいて制作された(※4) 《スラヴ叙事詩》。
          それまで戦いの後の死体――その姿はまるで眠っているかのように綺麗――だった表現が、熱気を感じさせるものになっていた。

          解説を読むと、それは戦の火の手、黒煙だった。
          画面を左右に分断しながら、浮世絵に見られるような場面転換の区切りというよりも、後の展開の暗示として描かれているようだった。

          ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)


          陸続きで国家が隣接し、侵略と侵攻のなかで、アイデンティティーを模索したのが欧州の人々だ。 海があることで、永らく“侵略”という概念を理解していなかった日本人。
          自己のアイデンティティーを侵害するものの存在が押し寄せてきたとき、多くの犠牲を伴って自らの由を守るために戦う歴史があること……
          前世紀の2つの大戦は、その究極型だったと思う。
          隣国との関係、その微妙なバランスというヤマアラシのジレンマを、現在はどうやって克服してゆくのだろうか?
          その先にある、争い、戦いに備えながら、相手を理解する術を模索する方法について、なにかを考えてしまう……


          《イヴァンチツェの兄弟団学校》部分、老いた盲人に聖書を朗読する少年

          その次の作品、《イヴァンチツェの兄弟団学校》は一転して牧歌的な雰囲気になる。
          チェコの宗教改革を主題とした作品。教育・啓蒙活動を称えるこの絵は、 社会的地位に格差はなく、知識、神が賜る平穏、無私の精神、そして神の祝福のみがそこにある。人間と自然の融和を称える(※5) まさに人類が希求して止まない世界だった。

          ここだけ写真が撮れるという。
          最近、東京都の美術館でも写真撮影を可能にする美術館が多くなりつつある。(※6)これもその一環のようだ。

          作品保全と著作権問題から長らく撮影禁止の美術館が多かったと思うが、経済への影響――集客へ繋げる展覧会のPRのため、観覧者によるSNSでの拡散――という事情が大きいかも。(※7)

          イヴァンチツェの兄弟団学校の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)

          《ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々》

          ミュシャ《ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々》

          神秘、豪華、耽美、劇的、牧歌的……
          そうした作品を堪能した次に、静謐な作品だった。
          一見、地味思える作品に私の意識が向かったのは、タロットカードの「隠者」の札を彷彿させられたためかもしれない。
          向かって左に首を垂れる老人と、地面に置かれた灯。
          哀愁漂う光景にも思えるが、それはまるで夜明け前のような、目覚めの時を予感させる。

          また、一連の中でもこの作品はアクセントのような立ち位置かもしれない。他とは雰囲気が違う分、気になってしまった。

          ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々の解説:MuseumAnote(2017/5/19確認)

          『ミュシャ展』(2017)チラシ 2

          アイデンティティの確立――自律

          ミュシャの愛国心により描かれた《スラヴ叙事詩》は《スラヴ民族の讃歌》を最後とするが、そこに込められた意図はスラヴ民族のみにとどまらず、全人類の民族自立を求める“戦い”を表現している。それが達成された自由、平和、友愛の最終的な勝利を……

          それから100年の時が過ぎた。
          世界はその勝利を獲得できただろうか?

          それはお互いの自律――“自己であること”――を肯定し、かつ相手のそれを認め敬意を払うことではなかったか?
          それがグローバリズムの根底にあるものではなかったか?
          ポピュリズムの台頭、自国第一主義の暴走が懸念される今日に、この絵を拝見することは、“本来の自律とは何か”を強く意識させられた。

          一個人として翻弄されない自分自身でありたい――
          世界という個人の意思では大きすぎる存在について考える前に、自分の“アイデンティティについても考えさせられた。


          後半には、フランス時代のミュシャの有名な作品と、チェコでの公共事業の建築物やポスター、切手を展示。
          蛇のブレスネットと指環をまた拝見できた。

          『ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り』の時よりも、よりスラヴ時代のミュシャの作品を取り上げた展覧会だった。

          日本でも人気の高い画家なので、日本国内でも数々の図版が出版されている。その殆どが、フランス時代の作品だ。
          今回の展覧会をきっかけに、もっとミュシャのスラヴ時代の作品が注目されると思う。

          公式カタログの作品は、他ではあまり見なかった者が殆どだったので、やっぱり購入。
          他に既刊でスラヴ時代のミュシャの作品についてまとめられているのは千足 伸行『ミュシャ スラヴ作品集』くらいだろうか?

          ミュシャ スラヴ作品集

          ただ、今回の展覧会では、聖ヴィート大聖堂にあるミュシャが手掛けたステンドグラスに関する資料・言及は無かったし……
          やっぱりプラハへ赴く動機は無くならない。

          展覧会の会場内の解説文では、フランス語読みの“ミュシャ”ではなく、チェコ語発音の“ムハ”に統一されていた。
          これは《スラヴ叙事詩》に込めたミュシャの思い、ミュシャのナショナル・アイデンティティへの敬意だとも思う。

          1. 1 『ミュシャ展』カタログ(2017)では ゲルマン民族の戦神トール(p.91) とあったが、持ち物と狼を携えている姿から、オーディンではないだろうか?だが、オーディンのように隻眼ではない……ミュシャが混同していたのだろうか?
          2. 2 『ミュシャ展』カタログ(2017) p.91 引用
          3. 『ミュシャ展』カタログ(2017) p.95 参照

            シメオン1世 - Wikipedia
            https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%82%AA%E3%83%B31%E4%B8%96(2017/5/19確認)

          4. 『ミュシャ展』カタログ(2017) p.109 引用
          5. 『ミュシャ展』カタログ(2017) p.117 引用
          6. 6 東京都、都立美術館の写真撮影解禁へ舵? 各美術館の反応は|美術手帖
            https://bijutsutecho.com/insight/351/(2017/5/19確認)
          7. 展覧会で広がる”写真撮影OK”その裏側とは!? 【ひでたけのやじうま好奇心】 | ニッポン放送 ラジオAM1242+FM93
            http://www.1242.com/lf/articles/5869/(2017/5/19確認)
          参考文献
          ミュシャ展

          国立新美術館『ミュシャ展』公式カタログ

          斉藤充夫 『ミュシャを楽しむために』
          http://www.mucha.jp/(2017/5/19確認)
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          映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』感想

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            JUGEMテーマ:フラメンコ

            映画『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』チラシ1

            公式サイト:
            http://www.uplink.co.jp/sacromonte/

            フラメンコの“元祖”を観る映画だった。

            今日明日生きること――
            生活の糧を得るためのフラメンコであり、「今、ここにいる」ため、自己を表現するために踊っている。

            そのフラメンコの技術は、洞窟のコミュニティの中で受け継がれてきた絆にも等しいようだった。

            19世紀、ヨーロッパ圏でも特異なその異国情緒から巻き起こったスペイン・ブーム……そのきっかけとなるフラメンコと闘牛は、共にロマ達――アンダルシアの人々は誇りをもって自らをヒターノと呼ぶ――低所得者の文化だった。

            時々映し出される、サクロモンテの洞窟内部の壁に掛けられた品々は、ヒターノとフラメンコにとって重要なものばかりだ。
            皿などの銀製品、すなわち金属の加工技術は、ロマの人々の生計を支えていたし、ロルカの肖像には彼が発表した詩の数々を想起させられた。

            ドビュッシー、ファリャなど、数多くの芸術家を魅了したフラメンコ。
            それを見るために、多くの人がスペインを訪れた。

            そしてフラメンコ(と闘牛)が観光業としての魅力が注目され、国を挙げて“スペインらしさ”の象徴となった。
            現在は舞台芸術として洗練されてゆくフラメンコ。

            フラメンコを教える専門の学校もある。

            「学校なんか行かなかった」
            「自分で目で見て覚えていった」

            映画に出演するサクロモンテ出身のフラメンコ・アーティストたちは口をそろえる。

            ギルドのように地域コミュニティの中で伝承され、自ずと獲得していったフラメンコの技術。

            そこに垣間見る、自己を律し生きる強い意志――
            インタビューに答えるアーティスト達が時に垣間見せる自身の半生には、色恋沙汰も仄めかされるが、たとえ悲恋であってもそれに打ちひしがれた様子を微塵も見せず、力強い。
            苦悩をはじき返すように。

            ロマの人々は、人が集まれば、老若男女問わずどんな場所でも踊っていた。
            これらがフラメンコの“元祖”だった。

            現在のフラメンコにある、靴音を鳴らす技巧を重視するのではなく、もっと思うままに即興で踊るような様は、黒人音楽としてのジャズにも似ている。

            チラシにも使われている、ラ・クキと呼ばれる老齢のバイラオーラ(女性踊り手)は、踵がたかくしっかりした現在のフラメンコシューズではなく、かわいいスリッパで踊っていた。

            彼らが歌い上げる、泥臭く下世話な歌詞。

            映画『フラメンコ・フラメンコ』にあったような美意識はなく、また、最早意味があるのか分からなくなった、詩的な歌詞とも違う。

            トマトトマトについて(!?)歌い、時にあけすけに下世話な話セクシーを歌い上げていた。

            1963年 
            偉大なバイラオーラ、カルメン・アマジャの死と、その年に起こった大洪水によりサクロモンテの洞窟は水没・崩壊の危険に見舞われる。

            当時の政府の方針で、ロマの人々は強制的に移住させられる。
            それはフラメンコのひとつの時代の終焉だった。

            ロマの故郷喪失――
            自然災害によるコミュニティの崩壊は、現在の日本を生きる私にとって、311のイメージに繋がってしまう。

            コミュニティが散り散りになり、かつてのような盛況を見せなくなってしまうサクロモンテ。
            人がいなくなったサクロモンテは、フラメンコ発祥の地としての価値からか、外国人の買い手(その中には日本人もいたらしい)ついたり、ロマのコミュニティとしての機能が無くなってゆく……

            とはいえ、全てが途絶えてしまったわけではなく、新しい土地で再びフラメンコを行ったり、コミュニティの繋がりを維持していく。
            同時に、閉鎖的・排他的なイメージが強かったロマの人々も、ロマ以外の人々を受け入れ、混血も進むなどの変化を受け入れてゆく。
            それ故に、フラメンコに新しい息吹が吹き込まれていったのだが……

            ロマとフラメンコのひとつの時代の終焉とかつての記憶を記録する――
            パコ・デ・ルシアが晩年、歌謡曲への関心を持ったように、映像に残す試みのように思う。

            フラメンコの学校の話にもつながるのだが、フラメンコの世界では、バレエなど他の舞踏に見られる要素が取り入れられ、舞台芸術として洗練されていっている。
            それでもフラメンコは“フラメンコらしさ”を失わず、世代を超えて受け継がれてゆくのだろう。

            それは映画の最後にサクロモンテの洞窟の一室で、コミュニティの3世代が集い、各々踊りや歌を披露する姿に集約されていた。

            映画『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』チラシ2

            フラメンコやロマの歴史を抜きに、音楽と舞踏を楽しめる面白い映画だった。

            フラメンコを習っている私にとっては、生のリズムを聞く良い機会にもなった。 洞窟に響く、踊り手のパサデアート(足で床を打ち鳴らすこと)やカンテ(歌)は重厚感があり、今、感じることができないフラメンコの“音”があることを知った。

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            シン・ゴジラ対エヴァンゲリオン交響楽

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              JUGEMテーマ:シン・ゴジラ

              『シン・ゴジラ対エヴァンゲリオン交響楽』パンフレット表紙

              公式サイト:
              http://www.khara.co.jp/gve_symphony/


              指揮:天野正道
              演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
              合唱:新国立劇場合唱団
              ゲスト演奏:エリック宮城(トランペット)、今剛(ギター)、高水健司(ベース)、山木秀夫(ドラム)、宮城純子(ピアノ)
              キーボード:鷺巣詩郎

              特別ゲスト:高橋洋子、和田薫

              司会:林原めぐみ、松尾諭

              1曲目からPersecution of the Masses瓩流れる……
              “蒲田のあいつ”――転じて通称・蒲田くん上陸時に流れた オラトリオ。
              翻弄される人間への哀歌のようでもあるので、胸が熱くなる。
              映画館で見たときの感情が思い出されて――『シン・ゴジラ』(観ていないけれども『君の名は。』も)東日本大震災への“憑き物落とし”であるという解釈(※1)。
              それはカタルシスであり、この曲に集約されてはいまいか?

              スクリーンでは、曲が使われたシーンが映し出される。
              津波のような蒲田くん上陸と翻弄される人々の姿……

              転じて、ヱヴァンゲリヲン新劇場版『序』の出撃シーン――しかし、所々で『シン・ゴジラ』の出撃シーンの旋律が織り込まれていたり――と、「ゴジラかエヴァか、エヴァかゴジラか」が対立せず、交差する。

              司会は『エヴァ』では外せない、林原めぐみ(綾波レイ、碇ユイ、ペンペン、エヴァ咆哮、etc……)おねーさま。
              そして『シン・ゴジラ』から「泉ちゃん」こと泉修一役の松尾諭氏。

              林原氏は紫色のドレスに蛍光グリーンのベルト、オレンジのネックレスという、エヴァカラーのドレスアップ。(このカラーリングは、すっかりエヴァをイメージさせる組み合わせに。)
              細部にも世界観を表現して、テンションを上げる。

              幕間での林原氏と松尾氏のトークを聞いていると、林原氏は本当にトークが上手いと思った。

              鷺巣氏がおもむろに退席した手前で、『エヴァ』『シン・ゴジラ』での自身の思いを語る林原氏と松尾氏……
              松尾氏「そういえば、何で鷺巣さんは僕を今回の司会に指名したんですか?(振り向く)……あれ!?いない!!」
              ……結局、鷺巣氏が指名した理由を聞くことはできなかった(笑)

              このコンサートでは『シン・ゴジラ』で鷺巣氏が作曲されたものだけでなく、故・伊福部昭氏の楽曲も合わせて上演という、異なる作曲家同士のコラボレーションでもある!

              伊福部昭トリビュートでは、鷺巣氏の合唱が付いた荘厳な印象を与える音楽とは異なる、『ゴジラ』の壮大なスケールの音楽が重々しく響く。

              また、スペシャルゲストとして高橋洋子氏が『残酷な天使のテーゼ』を歌ってくれた!

              さらにヤシマ作戦でもお馴染みのDecisive Battle畄萓錺瓮疋譟爾流れる――『シン・ゴジラ』ヴァージョンも併せて。
              ヤシオリ作戦での『宇宙大戦争マーチ』も。

              その時、おもむろに観客席通路に人影が……それは東海大学吹奏楽研究会と東京フィルとのコラボレーションだった。

              掛け合いのように呼応する、オーケストラと合唱、吹奏楽、更にはバンド形式とジャズ形式のトランペットソロと繋がり、変化してゆく。
              トランペットのエリック宮城氏は、ソロの部分でかなり引っ張って、その技術を披露していた。(「いつ終わるんだろう…」という緊張感と共に)
              同じ旋律の曲を多様な形式で魅せられ、中々面白かった。
              大学の吹奏楽部の人たちにはかなり良い経験だったのではないだろうか。

              私が観に行ったのは初日の夜公演だったのだが、庵野秀明監督が花束贈呈花束に現れた!


              『シン・ゴジラ』『エヴァンゲリオン』で使われた音楽のコンサートは、合唱、交響曲、ジャズ、ロック、ポップ……盛りだくさんな音楽ジャンルのコンサートだった。

              久しぶりに、Bunkamuraオーチャードホールでの演奏を聴いた。
              ただ、今回、せっかく合唱団がいるのに、前面にオーケストラピットがあるためか、合唱の声が聞こえづらかった。それが勿体ない。
              年末のニュー・イヤー・カウントダウンコンサートを毎年TVで見ていながら、今さら気が付いた。マイク収音前提の会場なのだろうな……

              このコンサートでは『シン・ゴジラ』作中で、伊福部氏と鷺巣氏の音楽の印象は異なるので、2人の曲がこのコンサートでどの様に融和してゆくのかが気になっていた。
              それは、『エヴァ』の曲の中で時折織り交ぜられている『ゴジラ』の音階に現れているのかも知れないが……
              二人の曲に何か共通項を見出したり、鷺巣氏が伊福部氏へのオマージュがあっただろうか……?

              また、こうして映画音楽が映画から切り離され、音楽単体として上演される試みの意味について、考えてしまう。
              今回のコンサート、平日で2日間だけという事もあってなのか……満席ではなかった……

              『ゴジラ』と音楽――伊福部昭と鷺巣詩郎の鎮魂

              同じ日に、『シン・ゴジラ』のBlu-ray,DVDがめでたく発売された。

              【Amazon.co.jp限定】シン・ゴジラ Blu-ray特別版3枚組(早期購入特典:シン・ゴジラ&初代ゴジラ ペアチケットホルダー付き)(オリジナル特典:スチールブック付き)

              チャプターを見ると、その区切りは全てBGMに合わせていた。タイトルも昨年発売された音楽集のタイトルと同じ。

              シン・ゴジラ音楽集

              それらを見ていると、この映画が音楽を大切にしている、或いは音楽が映画の“軸”として位置づけられているような気がした。

              ‘どんなにアレンジしようが伊福部氏による『ゴジラ』の音楽から逃れることはできなかった’と映画パンフレットにあったように、「『ゴジラ』と言えば(伊福部氏の)あの音楽」がある。その事を意識しているようだった。

              ♪ド シ ラ ド シ ラ ド シ ラ ソ ラ シ ド シ ラ……レ ド シ レ ド シ レ ド シ ラ シ ド レ ド シ……レ レ ド ド シ シ ラ♪

              音階が変わるだけでほぼ反復されるのシンプルな旋律は覚えやすく、忘れられない。

              私たちは音楽を受け取る場合、最初に律動に打たれますが、このことは音楽にあっても、最も本質的なものは律動であるということを立証しているとみることができます。
              (中略)
              律動は、このように根元的なものであり、ほとんど本能的なものでさえあるので、誰にも ( ) く理解され、また、身近なものとして感じられる

              伊福部昭『音楽入門―音楽鑑賞の立場』p.21

              音楽入門―音楽鑑賞の立場

              私は音楽について浅学すぎるので、短絡的に上記を踏まえた旋律ではないかと想像してしまう。

              伊福部氏はゴジラの死の場面に流れる牾つ豌爾離乾献薛瓩函∈邏覆魴箸錣辰娠撚茵悒咼襯泙涼╋廖戮膿綸臂綸兵による戦場で死んだ人々の遺骨を広い荼毘に付すシーンに同じ旋律を与えているそうだ。

              この音楽的モティーフは、伊福部が作曲したオーケストラと懇請合唱による『合唱唱詩「オホーツクの海」』(※2)の主題である。「暗澹たる空の叫びか/滅亡の民が悲しい喚声の余韻か」という、更科源蔵の詩が、この旋律で歌われる。
              (中略)
              伊福部は更科の詩文を、自分に共通する精神を詠ったものと感じ、それを独唱歌曲や合唱曲にした。永遠の時間、果てしなく広がる土地、そこに住む人と物の歴史を描こうとして。

              (中略)

              生きていたのに死んで行かねばならなかった者の魂を、伊福部は音楽で鎮めようとした。怪獣を含め、人と物を押し流してゆく大きな運命を、音楽で表現しようとした。

              木部与巴仁「怪獣音楽の創造者、伊福部昭。」
              『2016年 08 月号』 [雑誌]p.68

              東京人 2016年 08 月号 [雑誌]

              上記を踏まえると、鷺巣詩郎のPersecution of the Masses瓩硫了譟‘Persecution of the masses (民衆への迫害)/Sacred blessings count for nothing(聖なる祝福は何の為なのか)’という行が、更科源蔵の詩すなわち伊福部昭氏の音楽をリスペクトしていることを伺えるのではないだろうか?

              また、牾つ豌爾離乾献薛瓩寮律がPersecution of the Masses瓩任枠森圓気擦討い襪里任呂覆い、という指摘もあった。(※3)
              ただ、Persecution of the Masses瓩蓮悗佞靴の海のナディア』の爛譽イエム瓩ベースになっているとも……(※4)

              レクイエム……正にその通りだろう。
              初代『ゴジラ』および『シン・ゴジラ』、これら2つの曲は太平洋戦争と東日本大震災に象徴される、一個人では抗う事の出来ない巨大な意思に押し流されて、無念のうちに死んでいった人々への鎮魂が込められているという、共通項がある。

              鷺巣氏の鎮魂のイメージの原泉が何処にあるのか、私には分からないけれど……

              アニメとコンサート、BGMから独立した音楽として

              20年前、『エヴァンゲリオン交響楽』と題したコンサートがあったことを記憶している。
              私は行かれなかったが、そのコンサートは、パッヘルベル爛ノン瓠交響曲第9番ニ短調op.125「合唱」より第4楽章、オラトリオ『メサイア』から爛魯譽襯筬瓩覆匹侶狠罎濃箸錣譴織ラシック音楽を演奏する事が、話題になった。

              それ以外にも、劇中曲で人気の高いもの、ラップ調リミックスなどがあった模様。

              これらクラシックを一緒に聞く機会はない組み合わせである。
              それが実現するのは“『エヴァンゲリオン』のイメージ”という媒体があったればこそだ。
              使われたクラシックは元々持っていたイメージから切り離されて、新しいイメージの元で演奏されていた。

              今回のコンサートもやはり、「『シン・ゴジラ』の、『エヴァ』の音楽」という面、映画・アニメファンの娯楽の延長としての匂いが強い。
              使われたクラシックのように、アニメや映画のイメージから切り離されてBGMが“音楽単体”として演奏される。そんな日が来るのだろうか?
              それこそ、100年経っても聴かれ続け“クラシック”になったら、なのだろうか?
              これはそれへの布石だったり……などと、勝手な想像をしてみた。

              1. 1 『「シン・ゴジラ」はあの大災害がエンタメにかけた「呪い」の憑物落としである』
                http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20160811/E1470877308302.html
              2. 2 伊福部昭:合唱頌詩「オホーツクの海」
                https://youtu.be/FMkf1QeJNRE
              3. 3 Miyuu Kawanishi『シン・ゴジラ』予告!その音楽!「伊福部昭から鷺巣詩郎へ」(後編) | 『音楽研究☆CHIMERATA!』
                http://remeremea2.blog.fc2.com/blog-entry-46.html
              4. 4 Miyuu Kawanishi『シン・ゴジラ』予告!その音楽!(追記) | 『音楽研究☆CHIMERATA!』
                http://remeremea2.blog.fc2.com/blog-entry-47.html
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              映画『沈黙 ―サイレンス―』感想

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                JUGEMテーマ:映画

                映画『沈黙 ―サイレンス―』チラシ

                公式サイト:
                http://chinmoku.jp/

                学生の時、授業で一部読んだ遠藤周作『沈黙』が、マーティン・スコセッシ監督によって映画化されると聞いて……ディープな物語で憂鬱になるのではと臆していたのだが、予告編を見ていたら、観たくなった……

                多様な解釈ができる映画だった。

                あまりに多くの人間と諸々の葛藤が描写され、胸を打つ。
                そして鑑賞者はキリスト教義の枠に留まらない普遍的な問題を突きつけられる。

                人間の“信じる”とはいったい何なのか?という事だった。

                キリシタン弾圧下の日本で棄教を迫られ、「信仰とは何か?」という問いだけでなく。

                映画『プロメテウス』考察――“信じる”という人間性にも通じる内容だった。

                それらは乱反射し多様に輝くプリズムのようで、 多彩な輝きに目がくらみ、掴めない、認識できないもののようだった。

                何を書いても、それはこの映画の一面に過ぎない。どうしても断片的な書き方になってしまう。
                でも書かないよりは書きたくなるので、したためておく。

                以下、!エンディングのネタバレあり!


                沈黙と音

                蝉の鳴き声

                映画の冒頭から聞こえる、晩夏の蝉の鳴き声は、沈黙(無音)に対を成すようにかしましい。

                ギリシャ出身で、日本に永住した民俗学者・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は「世界中で、蝉の鳴き声を騒音と思わず、美しいと感じているのは古代ギリシャ人と日本人くらいだ」(※1)と言ったという。

                スコセッシ監督はそれを踏まえているように思えた。

                日本人の私には(微妙に時間軸に合わない虫の鳴き声が混ざっていたが)時間が流れ、日々が過ぎ、四季の移り変わりがあることを意識させた。

                同時に、それがロドリゴ神父の心境の変化をも暗示しているのかも知れない。

                蝿の羽音

                虫の鳴き声がかしましく感じる中で象徴的な、蠅が飛ぶ音。
                不快感を呼び起こさせ、更に不潔よりも死の臭いを連想させる。

                キリシタン弾圧を強める井上筑後守が現れる時と、何度も踏み絵をしたりロドリゴ神父を密告しながら、獄中で懺悔したいというイチジローの姿がある時に、その音がする。

                ある種の悪意を暗示しているのだろうか?
                それが井上のものなのか、イチジローのものなのか、はたまたロドリゴ神父が内に秘めたものなのかは、定かではない。

                読経

                もう一つ、音で興味深かったのは、寺での読経の声だった。
                案内された寺で、自然音も聞こえない静寂の中に響く、坊主の読経。
                日本に既存の宗教観の描写である訳だが、その読み方が私がお寺で聴く読経の仕方とイントネーションの置き方?が異なるため、気になった。

                同時に、映画の中の読経がキリスト教の讃美歌と通じるもののように描写されているのではないだろうか?と考えてしまう。
                どこか精神的な落ち着きをもたらすような響きに。

                キリスト教と日本の仏教の違いを、どこかシンメトリックに表現しようとしたのではないだろうか?

                宗教音楽に精神的高揚や鎮静作用があるものが多いのは、よく指摘されている。
                それと同じように音楽ではない読経にそうした側面があると監督は意識的・無意識的に解釈したのだろうか?

                磯で殉教した日本の信者は、死の間際まで讃美歌を歌っていた。(※2)それと対を成すようにも思えた。

                彼が何のために歌っていたのか――信ずる神のためだったのか、己への葬送曲、死の恐怖を緩和するためだったのか――を知る由は無い。
                それ故に、様々な思いを巡らしてしまう。(※3)

                信仰

                日本人にとって、キリシタン信仰は何を意味するのか?

                隠れて信仰する姿は初期キリスト教信者がカタコンベ(地下共同墓地)で祈っていたことを彷彿させるが、それとは似て非なるものだ。(※4)

                映画本編の中で、聖職者と日本のキリシタンの信仰の“違い”にもどかしさを覚えている事が描写される。

                十字架にメダイ、さらには神父が持っていたロザリオの数珠まで欲しがる信者たちに、戸惑いつつそれらを与えるロドリゴ神父。

                隠れキリシタン達は「神社でお参りをした後、お守りを頂いて身に着けるとご利益がある」という感覚だろうか。
                一種のフェティシズムだ。

                セム系一神教は、基本的に偶像崇拝を禁止している。
                しかし、古代からの、あるいは人間の性だろうか……抽象的な存在、概念の“神”を他人に伝える事は難しく、”神の似姿”ではない象徴物や、儀式によって人々は信仰を”形”にしてきた。
                カトリックでは他のセム系一神教とは異なり、神や聖人を表現する宗教芸術を認めている。人々に信仰を広める、伝えるための“メディア”として有効であるため。(それが西洋美術の発展を促した側面がある。)
                その対象を拝むこと“だけ”が信仰ではない、という前提のもとに……

                また、ガルペ神父は日本人の隠れキリシタンと「パライソ(楽園)」に対しての認識の違いに困惑する。

                日本の“隠れキリシタン”について語るとき、カトリックの本来の姿とは異なり神仏習合の例に漏れず独自の信仰形態をとった特異性ばかり強調される。

                ただ、日本でそうした“習合”が起こったのは何故なのか?
                宗教弾圧が時の政治的な争いなら、征服されたものが抹殺されなかった、できなかったのか――は興味深く、様々な推測ができる。

                私個人の解釈としては、日本人は神道・仏教・キリスト教であれ、それら全ての“ご利益”を得たい、得られると考えていた、“ご利益”を得られる存在であれば信仰の対象となる考えがあったのではないか、と考えている。

                踏み絵

                上記の日本人のフェティシズムとご利益の関係にも関わると思うのだが、踏み絵を踏まなかった人は、日本的な信仰の対象を蔑ろにするような後ろめたさだけでなく、それによる“ご利益の喪失”への拒否感もあったのではないだろうか?

                もっとも、フェティシズムが日本の専売特許ではないし、当時の人と今の日本人の信仰の在り方は異なるのでやっぱり何とも言えない……
                先祖崇拝の延長のような、信仰が“代々受け継がれた”ものであるが故の畏敬の念もありそうな事も、否定できない。

                日本の特異性があるとはいえ、あらゆる宗教が、相互に影響しあったり習合していったと思うので、それが日本の専売特許でもないので、海外の人がこの映画を観て、何を見出だすのかも気になるものがあった。(※5)

                幸福なるかな、貧しき者よ

                日本版宣伝に使われた、“なぜ弱きわれらが苦しむのか――”というキャッチフレーズの意味を考えてしまう。

                それがルカ伝の行を彷彿させられるためだ。

                幸福(さいはひ)なるかな、貧しき者よ、神の國は汝らの有(もの)なり。

                幸福なる哉、いま飢うる者よ、汝ら飽くことを得ん。

                幸福なる哉、いま泣く者よ、汝ら笑ふことを得ん。

                人なんぢらを憎み、人の子のために遠ざけ、謗り、汝らの名を惡しとして棄てなば、汝ら幸福なり。

                その日には喜び躍れ。視よ、天にて汝らの報(むくい)は大(おほい)なり、彼らの先祖が預言者たちに爲ししも斯くありき。

                ルカ伝福音書(6章20〜26)

                貧しき者、虐げられる者を励ますこの言葉。
                それを“信じ”、死んでいった人々は救われたのだろうか?そもそもそれが信仰なのか?――そんな反語のようなイメージを思い起こさせる。

                裏切り者

                物語の重要なキャラクターであるキチジロー。彼にユダを見いだすことは容易だろう。
                ユダは分かりやすく、“人気のある”存在ではないだろうか。

                ユダの魅力――
                それは人間の“弱さ”の象徴のような存在だろう。
                信仰であれ道徳であれ、「正しい道」を知りながらも、誘惑に負け、道を踏み外す。
                現実の人間は親近感を覚える。

                だが、単純にキチジローをただユダと結びつけていいのか?

                二度目の踏み絵での、ぼろぼろなキチジローの姿は、十字架のキリストに似ていた。
                キリストは囚われる晩にゲッセマネの祈りの中で、神に遣わされた使命の成就に反してその回避――死への恐怖を口にする。

                また、何度も踏み絵をする姿に、第一の使徒たるペテロ(初代教皇)を想起してしまう。
                「汝、今宵の鶏鳴を待たずして三度我を否むべし」とキリスト言われペテロはそれを否定するも、成就してしまう聖書の行を。(※6)

                このイメージの重ね合わせは、ロドリゴ神父が自身をキリストの受難と照らし合わせる事とも、対照的なものとして存在している気がする。
                それが、川で水面に映った自分の顔と絵画のキリスト、それが変容して悪魔的な笑みに成ってゆくことと呼応していた。

                沈黙と本質

                このタイトルは秀逸だと、常々思う。

                隠れて祈る隠れキリシタンの“沈黙”
                神の“沈黙”
                そして“沈黙”することで信仰を守ったロドリゴ神父。

                (迫害のため)祈りと儀式、更にはイメージさえも、あらゆる形式が削ぎ落とされる。その無――沈黙の中に残ったものは、確かに“信仰”だった。
                人間はあらゆる形で何かを“信じる”ことを止めることはできないのだ。

                そして、それにより導き出される“本質”がある。

                「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」

                『沈黙』は権威的で己を高めることに重きを置いたキリスト教の男性原理的な部分ではなく、全てを受け入れ赦す女性原理的な側面を強調する。
                前者だけがキリスト教の信仰の全てではないと思うのは、現代を生きる私だけの解釈だろうか?

                よく(当時の)日本の宗教観、文化をリサーチされたものだと思う。
                特に最後の葬送のシーンなど……
                現代日本では欧米式の葬儀の影響から、横長の棺桶と黒い喪服だが、古くは死者は桶に座す様に納め、遺族も白喪服だった。それが映画内で描写され、驚いた。

                棄教の後、天寿を全うし荼毘に付されたロドリゴ神父。 胎内回帰を象徴する桶の中、遺体の手の中で輝くような木製の小さな十字架。

                彼の魂の本質が何処に帰属するのかを示唆していた。

                余談

                後妻の女性は、守り刀と共に、木彫りの十字架をそっと忍ばせる。
                私の個人的な印象だが、彼女が隠れキリシタンとは思えなかった。
                ただ、沈黙する夫の信仰に口を挟まず嫌悪せず、夫のありのままを受け入れていたのだろうか?

                そうだとしたら、私はそれを深い情――あるいはとても精神的な愛――だと思った。

                蛇足

                ガルペ神父役のアダム・ドライバー。
                映画『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』でシス方のジェダイ、カイロ・レンを好演した彼。
                ロバート・デ・ニーロのように、役作りのために減量したり……(※7)
                “キモかっこいい”俳優として人気が出ているらしい……(※8)

                イイネ!グッド

                1. 1 藤村シシン『古代ギリシャのリアル』実業之日本社 (2015) p.259
                2. 2 

                  長崎の日本二十六聖人にヒントを得ているのは言うまでもない。

                  特集記事|日本二十六聖人殉教地(西坂公園)|教会|長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」
                  http://www.at-nagasaki.jp/junrei/113/article/13/

                3. 3 伊藤三巳華『視えるんです。2 (幽BOOKS)』KADOKAWA/メディアファクトリー(2011)では、霊視で殉教した少年信者が、一番年下の信者の死の不安を和らげるために歌った、と語る姿を見ている。真実がどうであれ、切なく心温まるイメージだった。
                4. 4 ローマ帝国によるキリスト教徒の迫害 - 聖書と歴史の学習館
                  http://www.lets-bible.com/history_christianity/a10.php
                5. 5 在日外国人や若者が見た「沈黙」 「沈黙―サイレンス」映画deディスカッション : 文化 : クリスチャントゥデイ
                  http://www.christiantoday.co.jp/articles/23180/20170206/silence-movie-grace-city-church-commuity-arts-tokyo.htm
                6. 6 マタイ伝福音書26章31〜75節
                7. 7 “カイロ・レン”から“宣教師”へ…23kg減量し覚醒するアダム・ドライバー『沈黙』
                  http://www.cinemacafe.net/article/2017/01/20/46443.html
                8. 8 “キモかっこいい”で大ブレイク アダム・ドライバー : 読売新聞
                  http://www.yomiuri.co.jp/komachi/beauty/celeb/20170131-OYT8T50108.html
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                映画『0円キッチン』感想

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                  JUGEMテーマ:映画

                  映画『0円キッチン』チラシ

                  公式サイト:
                  http://unitedpeople.jp/wastecooking/

                  フードロスを無くす方法を模索するロードムービー。
                  深刻な雰囲気のドキュメンタリーではない。

                  世界中で生産される食糧のうち、1/3が食べられることなく廃棄される――
                  なぜ、その数字が生まれるのか?その数字の根拠は?
                  そして、それを減らすことができるか、その方法を模索する。

                  ダーヴィッド監督は「ゴミ箱」を改造した「キッチン」を、食堂から出る廃油を燃料に走る車に積み、ヨーロッパ5ヵ国を巡り、その答えを探す。

                  日本でのフードロスの原因として、「1/3ルール」(※1)が上げられている。
                  この映画を通して、楽しみながらそれを解消する方法はあるのか、海外ではどのような試みがなされているのかを知りたくて、鑑賞した。

                  観ていてワクワクする映画だった。


                  提案されるフードロス対策は、日本の小学校で教わるような「遺さず食べる」等に代表されるような、日々のちょっとした心がけだけではない。
                  あるいは、「もったいない」と人の罪悪感に訴えるようなものでもなかった。

                  • 賞味期限切れ食材も食べられるものがある
                  • 規格外で廃棄される食材の有効活用
                  • 調理で使わない野菜くずを餌にして育てた豚を余すところなく調理する

                  …生活の知恵や循環型農業システムの見直し、あるいはその延長のような提案。
                  他にも、

                  • 食べられる街路樹の果実や野草を生かすこと
                  • 昆虫食の推奨

                  …など。
                  スーパーなど生鮮食品で売られている――もっと言ってしまえば、スーパーなどに頼らない――食材の提案など、眼から鱗なものもあった。

                  賞味期限への疑問

                  賞味期限切れの食材を出さないことが先決だが、(腐っていないかぎり)賞味期限が切れたものでも、食べれるのではないか?

                  ドイツの一般家庭、あるアパートメントの各家庭を訪れ、賞味期限切れや量が多すぎて使い切れないもの、調理に使わない部位、廃棄するつもりでいた食材をあつめる。
                  それらはその道のプロの手にかかると、素敵なコース料理になっていた。
                  家庭の冷蔵庫で眠っていたもの、残り物によって出来上がった料理は、アパートメントの中庭での試食会になった。

                  別の場所で、スーパーのゴミ箱にダイブして手に入れた賞味期限切れの瑞々しいリンゴは、完熟でとろとろのコンポートになっていた。

                  食べられるもの

                  市場に流通する食材のみに囚われないことも提案する。

                  (その国では)外来種で、厄介者のため駆除された野草はそのまま廃棄するのではなく、きれいな色のジャムになっていた。
                  畑では、売れない規格外野菜を用いて、大勢で調理して食べるイベント「チョッピング・パーティー」を行っていた。
                  食育の現場として、昆虫食を体験する小学校の授業を取り上げていた。

                  ここまでは、フードイベント的な様相がある。

                  ダーヴィット監督は、もっと日常生活に組み込まれたフードロス解消方法を模索する。

                  ベルギーでは、食品廃棄を禁止する制度制度がある。
                  しかし映画内では、抜き打ちでスーパーのゴミ箱ダイブをすると、店舗によっては監視者がいないとそれが実行されていない事があわかった。

                  フードロスを生む原因は何か? ‘先進国は「消費」に近い場面で食品ロスがおきやすい(※2)’。
                  映画冒頭、ドイツの一般家庭を訪問し、賞味期限の切れた食材を回収する。
                  「(賞味期限が切れているので)捨てるわ」
                  各家族家庭で消費できる量の問題もありそうだが、 一定の野菜のみの受容、消費者がより消費しやすい大きさや、時代の流行などで、規格よりも大きすぎてしまうと、廃棄されるという。また、以前から指摘されていることだが、店頭に並んだ際、客の購買意欲を刺激するため見栄えの良い野菜を選ぶことも一因であることは言わずもがな。

                  規格外の野菜も、調理すれば変わらないのに……

                  日本のフードロス問題

                  ベルギーの件ともからむのだが、日本で2016年に起きたダイコーによる廃棄カツ横流し事件には、食品廃棄だけでなく日本のリサイクル問題を浮き彫りにした。

                  リサイクル事業がうまくいかない理由――
                  コストがかかる、混ざっている(不純物がある)とリサイクルできない、処理能力が追い付かない、処理したものの受容が少ない……といった技術的な面。
                  更には流通の監視体制が無いために不法投棄や未処理(処理施設を動かすとコストがかかるため)で放置されてしまうこと、リサイクル事業補助金のみ目当てで、不法投棄の温床となってしまう模様。

                  石渡正佳『産廃Gメンが見た 食品廃棄の裏側』では、廃棄カツ横流し事件が起きた原因と共に、そうした問題を取り上げていた。

                  産廃Gメンが見た 食品廃棄の裏側

                  石渡氏は、これらを改善するためにも、また、リサイクルを円滑にするためにも、まずは速やかな法整備が必要であることを提唱する。

                  自由経済、あるいは市場経済の原理であるアダム・スミスの「神の見えざる手」は万能ではなく、条件付きである。少なくとも環境経済には通用しない。環境経済には法律による枠組みが必須であり、規制と監視と罰則によらなければ、環境は経済にならない。古典派経済学が説くところの市場経済は需要と供給が釣り合うところで均衡する。これに対して環境経済はコストとペナルティが釣り合うところで均衡する。

                  石渡正佳『産廃Gメンが見た 食品廃棄の裏側』p.176

                  何か、私にできることは?

                  この個人ブログで、いきなり法の問題を挙げても、ちょっとハードルが高い……
                  映画を観て理解したのは、こうした身近な問題は、身近なところで、楽しみながら改善することができることはたくさんあること。
                  賞味期限切れを食すだけでなく、残飯の処理についての提案もあった。

                  ビュッフェスタイルレストランのフードロス問題。
                  手をつけていないものに関しては、再び調理・加工して、新しい料理にする。
                  これにはシェフの臨機応変さが求められるのだが……
                  ならば、リサイクルを前提とした献立を考案するべきなのだろうか……?

                  ただ……そうした料理をどうやって作るのか、分からなかった。
                  家庭科でも教わらなかったり、料理本でそういった特集のものを見たことがなかったためでもある……

                  そんな折に見かけた、以前、通販サイト・フェリシモで、“もったいない”を解消する生活実験のワークショップアイテムがある。その中に食材を使い切る、サルベージワーキングショップについてのものがあった。

                  キッチン力アップで眠れる食材も使いきる サルベージクッキングワークショップ[12回予約ワークショップ]!販売終了!
                  http://www.felissimo.co.jp/kraso/wk47322/gcd292370/

                  もう販売していないのが惜しまれる……
                  こういう料理研究家がいて、料理本がまとまっていてもおかしくないと思うのだが……

                  ちょっと調べてみると、ネット上にサルベージクッキングのレシピをまとめているものがあった。

                  サルベージの100ページ - 食材を救う知恵をあつめるプロジェクト
                  http://salvageparty.com/page100/


                  この映画の感想を、食品廃棄に関する視点から書いてみたが、それに留まらない映画だろう。
                  冒頭のアパートメントでの試食会の風景は、普通にご近所さん同士での親睦会、パーティーの風景のようであったし。 食育然り、生活の知恵であり、ライフスタイルの提案でもあった。

                  ただ、この映画で気になるのは、食肉のことに関して、ネガティブな感情のナレーションになってしまっている事だろうか……
                  ダーヴィッド監督はベジタリアンになる事を考えているようだし、食肉用の家畜が快適な環境にいるとは限らない。そこから起因する罪悪感のようなものが醸しだされている。
                  映画の中で、ダーヴィッド監督は食肉を否定している訳ではないが、気になった。私は野菜も好きだし、食肉を否定しないので。(※3)

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                  1. 1 3分の1ルール(さいぶんのいちるーる)とは - コトバンク
                    https://kotobank.jp/word/3分の1ルール-190195
                  2. 2 映画『0円キッチン』パンフレット p.7
                  3. 3 【過去日記】闘牛批判考

                  映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』感想

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                    JUGEMテーマ:映画

                    映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』チラシ1
                    公式サイト

                    http://www.starwars.com/films/rogue-one

                    http://starwars.disney.co.jp/movie/r1.html

                    スター・ウォーズファンには堪らない、小ネタが満載!

                    • 星雲かと思って見ていると、実はそれが人工の光で、恒星の光が当たって姿を表すスター・デストロイヤーとデス・スター。今までにない威圧感……(ゴクリ)
                    • ジョージ・ルーカスっぽい(笑)てっきり、カメオ出演したのかと思った……(※1)
                    • 反乱軍(同盟軍)がその性質(共和制)から、なかなかまとまらない事はエピソード1〜3でも垣間見れたが、今回は帝国軍が一枚岩ではない、という描写に重点が置かれている。
                    • ピーター・カッシング(※2)が提督として、フルCGで再演!

                    オープニングの文字列は無かれども、細かいところにちゃんと往年のスター・ウォーズシリーズの演出等をあえて踏襲。
                    J. J. エイブラム監督の前作を、脚本時には絶賛していたのに、完成してみればルーカス監督が気に入っていなかった(※3)ようなことを言っていたけれども、今回のは満足しているのではなかろうか?(※4)

                    エピソード4で「この情報を得るために、多くの仲間の命が失われました」という台詞が指す物語。
                    既に全員、死亡フラグが立っているようなもの。
                    そんなキャラクター達の“生きざま”がどの様なものなのかを見届けたいと思いながら、観る。


                    都市の情景 / 戦争の場景

                    様々な惑星に場所が切り替わり、多様な環境、多くの人種が描写されるのも“スター・ウォーズらしさ”を意識させる。

                    心なしか、映画『ブレード・ランナー』(ハリソン・フォード主演で再び映画化!2017年11月公開!※5)を彷彿させるアジア圏の狭い通路とごちゃごちゃした街並み。

                    道行く人々の中には、三度笠と浪人笠を足して2で割ったような被り物をした人物がいて、日本人としてはちょっと嬉しい(笑)
                    アラブ系の民族衣装を彷彿させる服装があるのは、現代らしいと思った。

                    寺院都市の上にはスター・デストロイヤーが停泊している。
                    その威圧感――制圧下であること、映画『インディペンデンス・デイ』(1996)を思い出さずにはいられない、不吉な予感。
                    その下に暮らす人々は日常を続けているようでいて、帝国側のプロパガンダに不穏な雰囲気……(それは今も、どこかの国で起こっている光景なのかもしれない)
                    そして同盟軍・反乱軍のゲリラ戦が起こる。

                    エピソード5にて登場した全地形用装甲歩行兵器AT-ATが、再び登場。歩兵にとって厄介であることと、X-WINGの活躍。
                    雪原ではなく熱帯雨林であることは、ベトナム戦争をイメージしてしまう。

                    第二次世界大戦以降の戦争の姿がそこにあった。

                    補足すると、現代で問題視されている“自爆テロ”は起こらない。
                    それは自爆テロが“非戦闘員を巻き込むことで、日常に恐怖を与える”ことであり、“戦闘員同士が戦う非日常空間”とは目的と手段が異なるため、明確に線引きしているように、私には思われた。

                    抑圧された子供の“昇華”

                    昨年のエピソード7、映画『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』について、私は主要な登場人物たちが“抑圧された子どもたち”であることが気になった。
                    それが旧三部作(エピソード4〜6)の主人公・ルークとの大きな差であるとも。
                    今回の主人公・ジンもまた、戦渦によって両親を失い、過酷な逃亡生活と虜囚生活を余儀無くされた少女だった。 彼女は父親のメッセージと今際の父との再会で、父親へのコンプレックスを“昇華”させることができた。

                    この気持ちの変化――“昇華”こそが、人の心を、行動を前向きにする。
                    それが周りに影響を与え、はぐれ者(rogue)の寄せ集め部隊が困難な作戦を遂行する。

                    ジンの切羽詰まった想いと力強い言葉に動かされ、物語の後半に絶望的な作戦に参加する心境について丁寧には描写されない。
                    それは反乱軍の情報屋で、行動を共にしていたキャシアンが象徴するのだろう。

                    映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』チラシ2

                    ジェダイがいない世界

                    エピソード3にてジェダイは壊滅し、オビ・ワンもヨーダも雲隠れしているため、この世界にジェダイはいない。
                    しかしその“気配”を感じさせる(フォースか?)キャラクターが登場し、どこか哀愁と希望を感じさせるキャラクターとなっていた。

                    盲目の棒術の使い手・チアルート。(モデルは日本の『座頭市』とも。)
                    ジェダイに憧れ、その素質もあったであろう僧兵は、ジェダイではなくてもただフォースを信じて(それを感じて)行動していた。
                    彼の杖の先端が、ライトセーバーの柄を彷彿させるデザインなのは、気のせいだろうか……?

                    「フォースと共にあらんことを」

                    その言葉だけではフォースを扱うわけでもないので、形骸かもしれない。
                    ジェダイではない人々が、その意思を語り継いでいる。
                    旧三部作からは、祈りの詞のような、常套句のように使っている。その事への布石のようなエピソード、キャラクターだった。

                    失われる命

                    登場人物の殆どに死亡フラグが付いている訳だが、人間の死が生々しく描かれることはない。(年齢制限ないし、ディズニーの傘下のため?)
                    ただ、その死の描写はドロイドのK-2SOに集約されている。
                    多勢に無勢の中、文字通り孤軍奮闘し、生きている人間を信じて、希望を託して破壊される。
                    胸に空いた大穴が、心臓のないドロイドに死を印象づけていた。

                    それは引き継がれ、終盤の命のリレーは、死というものの呆気なさと、それでも人が諦めず意思を繋いでいくことを端的に表していた。

                    それにしても、ギャレス・エドワーズ監督はハリウッド映画3作目にして、スター・ウォーズシリーズの監督を勤めるとは……スピンオフ作品とはいえ。
                    どれだけ期待されているんだ……!

                    2014年映画『GODGILLA』では、まさかの“怪獣対決をハリウッドスケールで作り上げた。
                    しかし“ハリウッド色”を全面に押し出すのではなく、往年のゴジラファンが“見たいもの”を理解して描き出していると思う。

                    王道を踏まえつつ、独自性を醸し出す。
                    家族愛もアクセントとして入れ、第二次世界大戦以降の戦争、911や311を彷彿させる描写、さらに(ギャレス監督が影響を受けたであろう)他映画のオマージュを織り込んでいた。

                    そんなギャレス監督に白羽の矢が立つのは、至極当然のことだったのだろう。
                    今までのスター・ウォーズシリーズのイメージを崩さず、かといって懐古趣味ではない作品を作る可能性がある監督として、見込まれたのではないだろうか?

                    もう既に“スター・ウォーズがある時代”に生まれ、それに影響を受けて育った世代が映画監督になっている。

                    「だからオリジナルが作れない」と言われかねない世代だが、「影響を受けた作品の良さを解っている」世代でもある。

                    これがこの世代の強みだと思った。
                    表面的な二番煎じではなく、よく吟味された表現にを可能にし、時代に合わせた表現と監督の“独自性”を織り込めるのではなかろうか。
                    それを庵野監督の映画『シン・ゴジラ』からも意識させられた。


                    昨年末に急逝したレイア姫役のキャリー・フィッシャー女史……ご冥福をお祈り申し上げます。
                    波瀾万丈な人生だったそう……

                    次作エピソード8の撮影は終了しているとか、今回の急逝を受けて脚本変更して撮り直すとも伝えられている……

                    個人的には“女性原理的なるもの”を発揮して、抑圧された子供達の苦悩を解放へと導く存在、女神的なリーダーシップを発揮すると思っていたのだけど……残念。

                    本編がどうなるのか、期待と不安と共に、楽しみだ。

                    1. 1 映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のカメオ出演とシリーズのつながりまとめ|ギズモード・ジャパン(2016/12/20)
                      http://www.gizmodo.jp/2016/12/rogue-one-cameos.html
                    2. 2 

                      ピーター・カッシング(Wikipedia 日本語)
                      https://ja.wikipedia.org/wiki/ピーター・カッシング

                      ローグ・ワンに隠されたトリビア&秘密まとめ - 映画の秘密ドットコム(2016/12/17, 2017/1/10リライト)
                      https://www.eiganohimitsu.com/3141.html

                    3. 3 ジョージ・ルーカス、『スター・ウォーズ』を「奴隷業者に売ってしまった」発言を謝罪 - シネマトゥデイ(2016/1/4)
                      http://www.cinematoday.jp/page/N0079259
                    4. 4 ジョージ・ルーカス、SW『ローグ・ワン』を気に入る! - シネマトゥデイ(2016/12/7)
                      http://www.cinematoday.jp/page/N0088082
                    5. 5 Blade Runner 2049 - Internet Movie Database (English)
                      http://www.imdb.com/title/tt1856101/
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                    表参道3大アロマショップ巡り&明治神宮の杜ウォーキング

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                      JUGEMテーマ:アロマテラピー

                      街歩きに参加した。

                      アロマセラピスト・冨田ゆか氏をホストに、表参道から明治神宮を、“癒し”をテーマに街歩き。

                      【体調はアロマで整える】メディカルアロマセラピストとめぐる3大アロマショップ&明治神宮の杜ウォーキング〜あなたの❝リラックス❞に出会う旅〜〈街歩き〉 | TABICA

                      Summerbird Chocolateで集合。
                      アロマとは直接関係がないが、オーガニック素材を使った“自然派”なチョコレートを販売している。
                      オーガニックチョコとハーブティーを頂きながら、街歩きのテーマ、アロマリラックスについて、ちょっとしたレクチャーと解説を頂く。

                      また、今回の街歩きにちなんでウッディー系のアロマオイルの香りを聞かせてもらう。ウッディー系はリチャージ、リラックス効果がある。

                      アロマオイル(ウッディ―系)

                      アロマオイルはメディカルグレード(医療機関で疾患の治療や予防を目的に使われている高品質な精油)のもので、緑色のパッケージのブランド、プラナロム(※1)のものだった。

                      下記、(私が覚えている限りでの)冨田氏の解説と、個人的な香りの感想。

                      軽めのウッディー系

                      • Cypress
                      • サイプレス

                        自律神経系に作用する。
                        女性ホルモン・エストロゲンに似ている。
                        子宮系に作用するようで、疾患がある場合は用いてはいけない。

                      スギやヒノキのような、針葉樹の香りイメージがあった。

                      • Juniper
                      • ジュニパー

                        森林浴効果やリラックス効果があるピネンが多い。
                        ジュニパーはサイプレスのような子宮系疾患へのタブーはない。
                        自己免疫疾患に対して効果がある。

                      カラッとした大地の低木、軽やかな香りのイメージがある……

                      • Black spruce
                      • ブラックスプルース

                        メンソール系のような清涼感のあるさわやかな香り。
                        副腎の不全、むくみ、疲労感に対して有効

                      夏の軽井沢にあるコテージに行ったような、森林浴のイメージが浮かんだ。

                      重いウッディー系

                      • Cedarwood
                      • シダー

                        鬱血除去効果がある。

                      深い森に入ったとき、或いは高山の木――シラビソの香りを思い出した。

                      • Santalwood
                      • サンダルウッド

                        古代から宗教儀式に用いられることが多い。
                        鎮静作用と精神的な高揚感が得られる。

                      白檀は香でも馴染み深いものなので、聞くと落ち着く。ウッディー系のなかでも特徴的な華やかな香りは、他のウッディー系とは一線を画すると思う。

                      ※上記、引用文内のアロマ写真は全てPranarômより。


                      冨田氏は「木はめぐりの力が強い」とおっしゃる。

                      どんな巨木も根から水を吸い上げ、木のなかで水は循環している。それは頂上の葉の先まで至り、木は水と光を使って光合成を行っている。

                      また、光合成による酸素を生み出す力は人間で例えれば“呼吸”のようでもある。
                      外に向かって備えられた“葉”と、人間の身体の内に収められた“肺”。
                      ウッディー系のアロマ(ユーカリなど)に呼吸を楽にする作用があるのは、何か関係があるように思う、とも。

                      興味深い解釈で、納得するものがあった。
                      中国薬膳の考え方に「同物同治」がある。それに近いかも知れない。私はそう思った。

                      どうしてこんなに人間の身体に効く成分ばかりが含まれているのだろうと驚くほかない。まるで人間のために作られてきたかのように思われる。私たち人間はこんなにも自然の恩恵に浴しているのかと不思議でならない。

                      西村佑子『魔女の薬草箱』(p.167)

                      魔女の薬草箱

                      アロマの癒しから、人間がこんなにも自然の恩恵を賜っていたことを再認識する。

                      表参道〜原宿 アロマショップ巡り

                      Summerbird Chocolateを後にして、表参道にあるアロマショップを廻る。
                      「それぞれの店舗で傾向が異なっている」 点を意識してみると、面白かった。

                      Neal's Yard Remedies(イギリス)

                      https://www.nealsyard.co.jp/

                      香水や化粧品、ハンドクリームなど美容に関するものが多かった。

                      元々は薬局で、オーガニックコスメの販売から、アロマを手掛けるようになったそう。

                      コスメ関係から発展したためだろうか。上品なライフスタイルの提案、お洒落な清潔感がある。

                      PRIMAVERA(ドイツ)

                      http://www.primavera-japan.jp/

                      欧州では補完医療として自然療法が肯定的に用いられているという。
                      その中のひとつ、フィトテラピー(植物療法)を体系づけたヒルデガルト(※2)の国。ドイツ。
                      発祥の国と言って良いのかも知れない。
                      アロマセラピー(芳香療法)はフィトテラピーの一環でもある。

                      雰囲気は高級志向ではなく、素朴さ、身近さを感じる。
                      気取らないデザイン、庶民的なパッケージのハーブティーや蜂蜜などが販売されている。生活観がある。
                      同時に、お店のロゴとアロマオイルのパッケージに描かれている女性像――春の女神――は伝統を重んじるドイツの硬派さを感じさせた。

                      生活の木(日本)

                      https://www.treeoflife.co.jp/

                      日本にアロマを広めた先駆的存在。
                      その前身は陶器屋だった。
                      アロマに関心を持ち、手掛けるようになったという。
                      日本でハーブは、欧米の補完医療としてではなく主婦の趣味、手工芸の一環として広まった。
                      そのため、お店には石鹸の型や化粧水を作る講座など、“手作り”のためのものが併せて扱っていた。

                      明治神宮――鎮守の森

                      表参道から明治通りを越え、いよいよ明治神宮へ――

                      明治神宮・南門鳥居

                      鳥居を潜り参道の玉砂利の音を聞きながら進んでゆく。
                      木々に都会の喧騒はかき消され、次第に心が静まってゆく。

                      ウッディー系のアロマを聞かせて頂いていたので、木々の香りに敏感になっているのかも知れない。
                      一定の木の近くを通ると、清涼感のある香りを感じた。
                      木が自己主張しているのだろうか……

                      嗅覚も研ぎ澄まされていくが、音にも敏感になる。
                      鴉の鳴き声、玉砂利の音――

                      ラテンアメリカ文学のボルヘスが来日した際、明治神宮を訪れている。
                      既に視力を失っていたボルヘスは、参道を歩く玉砂利の音を詩的に表現していた。その文章を読んで感嘆したことを思い出した。

                      夜想 (16) 特集 ボルヘス/レゾートル - はみだした男

                      80歳のボルヘスを内田美恵とともに明治神宮に案内したときのことである。ほとんど失明状態だったボルヘスは、広く続く玉砂利を踏む人々の乱れた足音に耳を傾けながら歩みつつ、その音をいくつもの比喩の言葉に変えていた。
                      日本の神社というものの「構造」だか「みかけ」だかを想像していたのだろうか、「これを記憶するにはどうすればいいか」というようなことを、ぶつぶつと呟いていた!
                      これは耳を疑った。いや、こみあげるほど嬉しくなったといったほうがいい。ボルヘスはどこにいても一人などではありっこなかったのだ。そのときボルヘスは、どうしてもぼくがその言葉の断片を憶えられないような言葉ばかりを選んでいたようにおもう。  「カイヤームの階段かな、うん、紫陽花の額にバラバラにあたる雨粒だ」、「オリゲネスの16ページ、それから、そう、鏡に映った文字がね」、「日本の神は片腕なのか、落丁している音楽みたいにね」、「邯鄲、簡単、感嘆、肝胆相照らす、ふっふふ‥」。まあ、こんな調子だった。

                      松岡正剛 552夜『伝奇集』ホルヘ・ルイス・ボルヘス|松岡正剛の千夜千冊
                      http://1000ya.isis.ne.jp/0552.html

                      2016年10月に竣工された南玉垣鳥居(第三鳥居)

                      今年の10月に竣工されたばかりの第三鳥居のそばを通ると、ほのかにヒノキの香りを感じた。


                      不敬ながら、私はかつて明治神宮を「他の社と異なり、神ではなく100年ほど前の皇室(人間)を祀る事に意味があるのだろうか?」と思っていた。

                      しかし、NHKで特番が組まれ(※3)、それを拝見して考えを改めた。
                      今年の頭には、ナショナルジオグラフィック日本版でも特集が組まれて改めてその魅力を再認識した。

                      NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2016年 1月号 [雑誌]

                      それらを見て、人工の森には国家百年の計が込められていたこと、更には人が自然を再生させる布石を敷くことができる試みでもあったことに、先人への畏敬の念がようやく生まれた。

                      冨田氏から「唯一、人がすることは参道の落ち葉を集めて、森のなかに戻すこと。」と教えて頂いた。
                      落葉は土へ還り、その腐葉土が鎮守の森の生態系、生命の循環の礎となる。

                      それが今、多様な生物の命を支えていた。

                      夫婦楠

                      その調和のとれた世界観は、この「夫婦楠」にも象徴されるのかもしれない。
                      遠目から見ると一本の巨木かのように、互いにバランスよく繁っていた。


                      帰り際にTABICAスタッフの方から、亀石を教えていただく。
                      清正井とは異なるパワースポットなのだそう。

                      ピクニックや日光浴を楽しむ人々の中、北池の側にそれはあった。
                      立ち入り禁止とか、そういうものではないので、子供達が元気によじ登っていた。
                      何もない原っぱの真ん中で象徴的なそれは、子供なら確かに登ってみたくなる(笑)
                      あるいは、パワーに惹かれるのだろうか?

                      明治神宮・北池の亀石

                      伊勢神宮と明治神宮

                      「亀石」という名称に、気になる事が出来た。

                      「亀石」と呼ばれるものが、伊勢神宮外宮にもあるという。
                      明治神宮の亀石は、伊勢神宮のそれに準えて存在するのだろうか?と考えた。
                      しかし、関連しそうな文章には出会えなかった。
                      形状も全く異なるし……

                      そう考えてしまうのは、以前読んだ本・伊藤三巳華『ぶらりパワスポ霊感旅』で、三巳華氏らが明治神宮と伊勢神宮に関係があるように思えると考察していたためだ。

                      スピ☆散歩 ぶらりパワスポ霊感旅1 (HONKOWAコミックス)スピ☆散歩 ぶらりパワスポ霊感旅 3 (HONKOWAコミックス)

                      1巻で明治神宮を訪れた三巳華氏がその後3巻で伊勢神宮を訪れた際、霊感を通して(霊視)、赤い鍵穴のような形のものなど“似たもの”を見る。

                      伊勢神宮を神社の総本山にしたのは、明治期、明治天皇の折からだという。
                      それらを踏まえて、三巳華氏らは伊勢神宮と明治神宮には関連があるのではないか、と考えていた。

                      因みに、三巳華氏は霊視にて伊勢神宮の玉砂利は生きている人間と死者を区別するためにあるという事を、伊勢神宮・外宮を守る存在から教わる。
                      明治神宮の玉砂利も然りではなかろうか。

                      何故、明治神宮の亀石がパワースポットなのか、私がネットをちょっと見ただけではよくわからなかった……
                      北池の側にあるので、風水に乗っ取っているのではないか?(そのためパワーが宿るということなのか?)という指摘がある。

                      ちょっと調べると伊勢神宮の亀石は、横穴式古墳「高倉山古墳(天岩戸古墳)」の入口にあった岩とあった。
                      なぜその石の上を歩くようになったのだろうか?単なる利便性?何か、別の見立てがあるのだろうか?

                      外部から持ち込まれたにせよ、元々あったにせよ、何か意図がある石なのではないか?(「パワースポット」と言われたから、私が先入観を持っているだけかも知れないが……)

                      明治神宮は“人工の森”だが、人の手が加わらずとも命の循環が成り立つように造られた。
                      100年の時を経て、それは確かに人の手を離れている。

                      対して伊勢神宮は原生林に囲まれ、人が自然と共存する――人が自然に合わせる――本来の“生き方”を維持している。
                      映画『うみやまあいだ』で、その様子が丁寧に映されていた。

                      成り立ちこそ異なれど、自然によって守られている。それこそ、原生林に……
                      これが本来の社のあり方なのかも知れない。
                      そのため、必然的に“似てくる”のだろうか?

                      ……素人すぎて、分からないことだらけになってしまった。
                      何かの折に、調べてみたい。


                      アロマに癒しを、森林に気力を頂き、植物をはじめとする自然の力を実感した。
                      そして信仰心に襟を正し、ちょっとしたミステリーを考えたり……充実した時間を過ごした。

                      1. 1 

                        aromatherapy and essential oils with Pranarôm
                        http://www.pranarom.com/

                        プラナロム エッセンシャルオイル|健草医学舎 – プラナロム社ケモタイプ精油 日本輸入代理店
                        http://www.pranarom.co.jp/

                      2. 2 ヒルデガルトってどんな人? | ギフトでお勧めのオーガニックハーブティー ゾネントア/SONNENTOR
                        http://www.omochabako.co.jp/sonnentor/sonnentor_world/hirdegard
                      3. 3 「完全版 明治神宮 不思議の森」|NHK 自然 Nature
                        http://www.nhk.or.jp/nature/feature/meijijingu/
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